2013年05月07日

倉敷天文台を訪ねる

 倉敷天文台を訪問するのは何回目でしょうか。たしか本田実氏が亡くなられてから5回は訪問していると思います。しかし、私の尋ねる日の天文台はいつも無人の休館日で、がらんとした天文台の庭を独り散策して昔日を忍びながら引き揚げます。
 今回は原澄治氏、本田実氏の記念館の増築工事が行われていました。7月下旬完成の由。


倉敷市美観地区にて

 ドームの前に双眼鏡を持って立ってみました。ここは昭和15年9月30日に、岡林滋樹さんが新彗星を発見した場所です。10月に入って間もなく広島県瀬戸村に居た本田さんも独立にこれを発見して『岡林・本田彗星』の名を得ました。発見した朝は天文台の庭にコスモスの花が咲き乱れ、午前5時の発見と共に、近くの紡績工場の起床のサイレンが鳴ったそうです。
 倉敷市には紡績会社の広大な施設がありました。有名な赤レンガの街並みで、その日は古い紡績工場を改造して建てたという美観地区のホテルに泊まりました。


紡績工場の赤レンガの塀

 高知市にも古くから紡績工場がありました。今の広大なイオンモール高知の場所です。その頃は敷島紡績と言って数千人の従業員が働いていました。全国から集まってきた若い女工さんが大半でした。たしか午前5時にサイレンが鳴りました。私の家は工場から4kmほど離れていましたが、冬の寒い日に、早暁の観測を終えて、黎明の空を眺めているときにこのサイレンが「ピヨーッ」と短い尾を引いて鳴ったのです。
 - サイレンの音さえも凍った -
 やっと氷点下の寒さから解放されて、泣きたい思いで、これから暖かい部屋に帰ろう、と言うとき、彼女らは起きて長い一日の労働に入るのだと思うと、そのつらさが想像されました。
 当時、日本の『国民病』とまで言われた肺結核が、糸を紡ぐ悪い空気の中で流行し、罹った人は故郷に死に場を求めて帰って行った、という何とも哀れな話を祖父から聞かされました。

 1961~2年ごろ、私が新彗星の発見に成功した時、もと紡績工場の職員でハンセン氏病に罹り瀬戸内海の離島、大島青松園に隔離されて若き日を送ったという女性からの手紙を受けて、励ましの手紙を送り続けたことを思い出しました。発病してからから20年、1度も故郷に帰ることもなく青春の日々を島で送ったという、彼女は海を眺め、毎日私からの手紙を待ち続けていたのでした。
 最後の手紙に対する返信は病院の年老いた看護師からでした。
 『隣終の床に在りし彼女は、慎ましく何度もあなた様のお名前をお呼びいたし候 ...』
 私の机の引き出しの中には、彼女が趣味で彫ったという印鑑があります。
 『関様がいつまでも星に包まれて天文のお仕事ができますように、と祈りをこめて製作しました...』
 という、枠に星を形造った大きな判。いつかこのぺージで紹介しましょう。

2010年12月31日

マウナケアの思い出

 あの日から11年も経ってしまいました。
 芸西天文台の講師3人が、OAAが企画したすばる望遠鏡の見学団に参加して夜のマウナケアに上がりました。8月の夏真っ盛りと言うのに標高4200mの頂上では摂氏1度の寒さ。山の上で30分も頑張ったでしょうか。寒さにやられて天体撮影もほどほどに車の中に逃げ込みました。
 私の行くことをどうして知ったのでしょうか。すぐ下の鬼塚記念館に現地で観測するアメリカの3人の天文学者が訪ねて下さいました。


すばる望遠鏡とドーム

 すばる望遠鏡のあるドームの中も夜の温度に調整されていましたが、とてつもない巨大なビルの中に入った感じで、8m望遠鏡も余りに大きくて実感が湧いてきませんでした。


夏の天の川

 夜になって天文台の上に天の川が輝き出しました。35mmカメラによる固定撮影ですが、さそりやいてが以外と高く輝き、他の星座を見つけるにも緯度の関係でまごつきました。



 山の頂上付近からの西北の眺めです。左の端にすばるのドームが見えます。遠くはハレアカラ火山です。星は絵に描いたほどに大きく輝き、地平線すれすれの星まで、芸西で見る天頂の星くらいの輝きです。大熊座の北斗七星が大きく描かれています。ここで観測したら一晩の中に何かが発見できそうだ、と思いました。

 太古の人々は、平地でいつもこのようなすごい星空を眺めて、それなりに宇宙観を暖めてきたものだ、と初めて気が付きました。ガリレオ以前の天文学の発展です。

2008年11月28日

岡林・本田彗星発見の地に立ちて

 岡林・本田彗星が発見されたのは、今から遠く1940年10月1日のことであった。ここ倉敷天文台の構内には一面にコスモスの花が咲き乱れ、秋は正にたけなわであった。
 午前4時、防寒服を纏った岡林滋樹氏はオットウエー製(イギリス)の口径70mm、30倍の屈折望遠鏡を庭の片隅に立て、町の空に上がってくる獅子座の方角に向かって水平に捜索を開始した。そして約30分が経過する頃、1度余りの視野のほぼ中央にほんのりと輝く白い8等級の彗星像を発見した。位置は正しく獅子座大鎌の中央であった。そこに星雲を見た経験はなかった。モーションを確かめにかかったが、やがて午前5時を告げる近くの製糸工場のサイレンが鳴り、空は大いに白んできた。
 当時は、アマチュアの発見はモーションを確認して報告すると言うのが鉄則であった。岡林さんは翌日を待って確認しようとしたが、あいにくの雨天となり、悪天は3日まで続いたのである。
 一方、広島県瀬戸村の山中に居た本田実氏は、岡林氏の大のライバルであり弟子でもあった。10月4日の早朝、15cm23倍の反射望遠鏡で明け方の空を捜索していた本田さんは、やはり獅子座の中に8.5等級の彗星を発見。確認を依頼するために、直ちに倉敷天文台に電話した。その頃、確認の作業を行っていた岡林氏から、10月1日の発見の事情を聞かされたのであった。こうして、日本人としては、わが国で最も早い、しかも連名の彗星が誕生したのであった。
 奇しくもその年の12月に太平洋戦争が勃発し、間もなく二人とも応召し、戦地に行った。岡林氏は1945年の「阿波丸事件」で非業の最期を遂げるが、本田氏は戦時下のシンガポールで再び奇跡の彗星発見を行うことになる。そのいきさつは拙著「未知の星を求めて」で詳しく記述した通りである。
 1947年に復員してきた本田氏は、戦後の暗い空に次々と彗星を発見し、貧しい日本のために気を吐いた。そして1950年にここ倉敷天文台に移転して、その後永い間、同天文台を守り続けることとなるのである。
 本田氏が逝去されて以来15年振りの倉敷訪問となった。近くの美観地区を歩いていたら、よくベレー帽を冠った本田さんと会った。今もどっかの路上で大股に歩いてくる本田さんと会えそうな気がした。倉敷川に映る白壁の風景も、柳の袂に居座る黒い人力車も昔のままだった。しかし倉敷のシンボルともいえる本田さんの姿はもう無かった。天文台はあいにくの休館日だったので誰も居なく閑散としていた。敷地の一部に「猫払い」のお面を発見した。そうそう20年も前、倉敷駅から歩いて天文台を訪ねていたら細い道で迷った。そのとき一匹の野良猫が出てきて歩きだした。猫に案内され、猫の歩いて行くとおりに付いていったら天文台の敷地に入った。天文台が猫の溜まり場になっていたのだ。
 本ドームの側に捜索の小さな白いドームがあった。ここは岡林さんが彗星を発見した場所に記念して作られたものであった。
 ああ68年前、この地で発見劇が演じられた。恐らく市街の空は想像を絶するほどの美しい星空があったはずである。その頃、私はたまたま高知市の自宅の二階の窓から、明け方の北の空を見ていた。人口20万の町の空は、一旦夜になると完全な星の世界になって、全天まるで燐光に輝くように星屑で埋まっていた。かつての本田さんや岡林さんは、このような理想的な星空の下で観測を続けて居られたのであった。


岡林・本田彗星発見の場所に立ちて

2007年09月16日

川平(かひら)の海にやってきました

 石垣島は人口数万の小さな町だそうですが、車で回る島はとても広く雄大に感じました。熱帯の珊瑚礁を思わす夢のような青と、やや黄ばんだ非常に小さな、まるで埃のような砂浜が印象的でした。有名な川平(かひら)の海では、遊覧船に乗って海の浅い底の、色とりどりの珊瑚や熱帯魚の群れを楽しみました。観光は天文台の副台長の宮地竹史さんと、高知新聞社から派遣された岡部記者の3人でした。
 午後は町の公民館で天文講演会をもちました。聴衆のほとんどは一般の人で、期待していた若い学生たちの多くは運動会等の行事と重なって、参加出来ない人が多かったようです。また台風がやってくる9月16日。この日は42年前、「池谷・関彗星」を発見した3日前です。あの時も大きな台風に見舞われたのですが、話題は必然的に池谷・関彗星発見の話に向かいました。台風一過後の、奇跡的な晴天。わずか9cmのレンズと、手作りによるおんぼろの筒。月光下で、しかも薄明が迫りくるわずか15分間の捜索での出会い。すべてが奇跡ずくめの発見でした。そして発見から1ヶ月後の太陽突入。奇跡の生還。そして天体観測によって得られた人生観等、、、、、。
 この日も市内の同じホテルに泊まりましたが、夜は地元の天文同好会の方々と普段の溜まり場で、有意義なミーティングを持つことができました。
 翌17日はまたも迫り来る台風11号の大雨の中、今度は台風から逃げるように、石垣島の空港を飛び立ちました。こうして天文台の宮地さんや、八重山天文同好会の方々の親切を思い出しながら帰宅しました。


石垣島の海を背景に宮地竹史副台長(右)と共に


川平(かひら)の浜辺にて

2007年09月15日

石垣島天文台に来ました

 芸西で発見した小惑星に石垣島天文台の105cmの反射鏡のニックネーム「ムリカブシ」と命名したことから、憧れていた石垣島にやってきました。丁度行き抜けた台風を追う形での訪問となったわけです。同じ飛行機で高知新聞社の岡部記者も同行しました。
 小さな飛行場では国立天文台の宮地竹史氏の出迎えを受けて、早速に海を見下ろす小高い山に立っている天文台に向かいました。この白いドームは飛行機が着陸する少し前から遠くに光って見えていました。
 折から南の長い一日の夕闇が迫り、山から俯瞰する壮大な海や街の灯が美しく眺められました。天文台に配慮してナトリウム灯が多いそうで、街明かりはそれほど気になりませんでした。20時には木星が丁度南中し、さそり座や射手座が驚くほど高く眺められました。ここは北緯24度。芸西とは10度近くも低いのです。南十字は水平線上2度以上に一番南のアルファ星が見えるそうです。
 105cmのカセグレンによるナスミス焦点で、有効最低倍率に近い約200xを使って木星を覗かせてもらいました。口径が大きいので、もろにシーイングの影響を受けますが、木星の表面が明るすぎるほどに強く輝き、空気が澄んだ瞬間には、表面が絵に描いたように詳しく眺められました。東の町の光害も比較的少なく、小惑星を専門に観測している天文台の研究員によると、CCDによって20等星までは写るそうで、21等にはまだ挑戦していないとのお話でした。ガリレオ衛星も良く見えました。しかしそれは点像に近く、むかし20cmで衛星の模様を見た人が居たそうですが、105cmで覗く限りそれは至難の業のように思えました。惑星のスケッチというのは、その人の主観や錯覚に影響されるので、私は余り好きではありません。
 南の天の川が良く見えるので、島で新星や彗星を探す人が現れたら面白いと思いました。幸いこの天文台は国立といえども民間に開放し、お互いに協力して運営されています。現にこの日も多くの見学者が、夜の観測に訪れていました。民間の中で委託された人が、その説明に当たっているようでした。天文台の指導によって、いずれは発見に貢献する人が現れるに違いない。明日の私の講演では、南の空の観測に有利なことを強調し、この地で発見に努める人が輩出する様な興味ある話にしたい、と思いました。
 見学終了後、南天の星空をバックに入れて、3人で記念写真を撮りました。南からかすかに伝わってくる潮騒の響きに、何時の日にかハレー彗星を追って南方へ行った日のことを、ふと思い出しました。ああ、ここは日本列島も南の果てです。


石垣島空港にて
左から宮地副台長、関、八重山星の会のメンバー

2007年05月03日

唐人駄馬にやって来ました

 連休中の5月3日、久しぶりに足摺岬にやってきました。
国道を車で走っていると、いつも目にする絶景、それは足摺半島も付け根に近い大岐(おうき)の海岸です。遥か足摺岬に連なる蒼茫たる海と白砂青松の海岸は全く人を寄せ付けないかの様に夢のごとくにかすんでいるのですが、今日は海水浴を楽しむ小さい無数の人影がまるで蟻のごとく浜に海に点在していました。海の魅力に誘われて浜に降りようとしましたが、国道脇の駐車場はあいにくと溢れんばかりの満車でついに諦めて先に向かいました。いつも人影のない、寂しくも美しい海岸の人影は意外でした。

大岐ノ浜
 四万十市(旧、中村市)を通り抜け高知市を出発してから約4時間で目標の遺跡、唐人駄馬(とうじんだば)に到着しました。今から2000年もの昔、唐人の遺品が発掘されたとかいう場所で、それは足摺スカイラインのすぐそばにありました。鬱蒼とした樹海の中に奇妙な形をした巨大の石が、まるでイースタ島のモアイのようににょきにょきと屹立しています。その大きいものはたたみ6畳はあるでしょうか。中には「亀石」と言って亀そっくりの奇岩があったり、剃刀の刃のごとく鋭く研ぎ澄まされて、険しいアルプスの峰の如くに、天に向かってそそり立っているものもあります。そして巨大な岩で出来た洞穴の中に小さな祠が祭ってあって、そこから怪しげな霊気が漂っています。ここには私たちの知らない遠い昔の歴史があるようでした。

唐人石巨石群
 思い出しました。5年あまり昔でした。天文台の岡村、川添両講師と3人でこの付近を探検?したことがあります。そのとき片岡さんとか言うふるい農家のお宅の見事な庭園を見物したことがありました。築山にはここにも奇岩があって、その築山の洞穴を夏至の日に限って太陽の光が抜けるとかで、見に行きました。その日は確か初夏の夏至の日だったように思います。夏とはいえ築山には花いっぱいで鶯の澄んだ泣き声が清らかな高原の風にこだましていました。
 駄馬の遺跡からは広い緑の牧場を越えて遥か足摺の海が見えていました。岬先端の白い灯台が小さくかすみ、その遥か沖を行く白い汽船がまるでおもちゃの如く浮かんでいました。

足摺半島南端の海
 夜になれば頭上にはどのような星空が展開するだろう、と思いながら高原を後にしました。足摺半島には多くのロマンとナゾがある....。まるで桃源郷にでもさかのぼったようなな楽しい一日でした。

2007年04月08日

彗星会議を終えて

 彗星会議は2日間の日程を無事に終えて4月8日の夜帰宅しました。天文に熱心な人ばかりの集まった良い会だったと思います。私の講演は拙いものでしたが、特にいま”リニア計画”によるプロの掃天によって、アマチュアの捜索者が脅威を感じていることについて2つの実例を示し、眼視観測も熱心に続けていれば必ずチャンスがやってくることを強調しました。
 2つの例とは最近発見された眼視的彗星のレビー彗星(C/2006 T1)とマックホルツ彗星のことです。これらの彗星が発見されるまでの約1年半前からの位置推算表を示し、太陽と彗星の位置関係から、これらがプロの捜索の目を掠めてうまくコメットハンターの目に止まったことを説明しました。そして眼視発見の可能性は、確かにプロの捜索が始まってから三分の一程度に減少したと考える。しかしリニア計画が実行され始めた約10年ほど前から眼視発見は着実に続いており、それほどペースは落ちていないこと。アマはプロと違って毎年必ず成果を挙げていかなくてはならないという制約はなく、一生に1つでも2つでも良い、宇宙に自分の名の付く彗星が輝けば素晴らしいとの思いから始めた人が多く、そのようなチャンスは今後いくらでもあることを強調しました。
 昔、リニア計画の発表を知っただけで「アマの世界は終わった」と敗北して行った人がいますが、やめてしまえば折角の努力も水泡に帰し業績も忘れられてしまいます。生涯研究を続けてこそ、その人の業績は永遠に輝くのです。
 講演が終わったあと、国立天文台の福島英雄先生から、沖縄の石垣島天文台の望遠鏡「ムリカブシ」の小惑星への命名に関しての記念の額を戴いたのは光栄でした。
 帰りの乗り物の中では、多くの人の温かい心に触れたことが八海山の美しい雪山の風景と重なっていつまでも私の心に残っていました。


彗星会議の記念写真
立看板の真下に主催者の村上茂樹氏、その左に関勉

2007年04月07日

彗星会議が開かれました

 4月7日から8日にかけて新潟県の八海山セミナーハウスで開催され成功裡に終わりました。
 国立天文台の学者やほかの研究機関の学者、学究、アマチュア天文家など一同に会しての会議はまことに有意義であり、彗星天文学の発展に大いに寄与したと確信しています。今回の主催者である村上茂樹氏を始めとする地元の方々の貢献も大きく、また熱心な参加者の影での支援もあって、つつがなくそして楽しく開くことが出来ました。
 懐かしい昔の発見者も居られ、また高知市で第二回目の会議のとき出席され、私の家にも来られたと言う高尾明さんを始め何人かの方と、実に35年ぶりにお会いできて感無量でした。昔、彗星の捜索を始められた方が今もって現役で観測研究を続けられている姿に頭が下がる思いでした。多くの人と記念写真を撮りました。そして懐かしい昔の本にサインをしました。研究発表は彗星の物理関係が多かったのですが、普段聞くことの出来ない先生方の貴重な講義を聞くことができました。
 7日の夜は少し晴れて、同会場に設置された60cm鏡を覗くことができました。北にすぐ八海山の雪山が聳える標高500mの場所で空の条件はかなり良いと見ました。
 彗星会議はこうした研究もさることながら、普段滅多に会うことの出来ない人との楽しい会合の場であることにも大いなる意義を感じました。
 次回は木下さんらの担当で広島県で開催されます。


研究発表の会場風景

2007年04月06日

白秋の歌った砂山の海に立って

 彗星会議が新潟県であって、その前日の4月6日に新潟市にやってきました。実は新潟市の海岸(奇居の浜)に北原白秋の「砂山」の記念碑が在るということで、それを見たかったのです。
 「砂山」は私が小学4年生のとき、受け持ちの岡本啓先生が教えてくれた歌でした。音楽の時間に「今日は先生の一番好きな歌を教えてあげましょう。私が独りで寂しいとき、いつも歌っております。」と前置きしてピアノを弾きながら歌って下さいました。

 海は荒海むこうは佐渡よ
  すずめ鳴けなけもう日が暮れた
   みんな呼べよべお星さまでたぞ

 「砂山」という題ですが、なんと素朴で美しい歌でしょうか。白秋が若いころ新潟市の師範学校に講演を依頼されてやってきたとき、見た海岸の風景を詩にしたものです。
 岡本先生は昆虫の専門家で、学科の理科の時間には大自然の中で昆虫の新種を求めて研究する楽しさを余すことなく私たち学童にお話して下さいました。私が自然に興味を持つようになり、遂には星が好きになったのも、この岡本先生のお陰であると確信しています。それが私の幼少期の大きな出会いでした。科学や音楽に秀でさては体育も得意な岡本先生は私たち学童の憧れの的でした。
 しかし学園での平和な生活は長くは続きませんでした。折から日中戦争の最中で、まもなく太平洋戦争が起ころうとする時期、先生は応召して戦火の中国大陸に渡っていかれたのです。沢山の学童や関係者に見送られながら校門を抜け消えて行った先生の後ろ姿はあれから半世紀以上経った今も私の眼底に焼き付いています。不出来だった私を励まし、夢を与えて下さった岡本先生は、永遠に消息を絶ったのでした。
 その先生の愛した「砂山」の作詞の元となった海を見たかったのです。白秋の見た海は晴れていたのか、曇っていたのか。歌詞に歌われた「ぐみ原」や砂山の面影はまったくなく、開発された無骨な防波堤に荒波が何事もなかったように打ち寄せ遥か遠くに佐渡の山がかすかに煙っていました。
 「ああ岡本先生!」
 私は海に向かって心の中で力強く叫びました。あたりにはいつの間にか蒼然たる夕闇が迫り、打ち寄せる潮騒の音のみがいつまでも響きわたっていました。


「砂山」の碑の前に立ちて

2007年02月23日

久万高原天体観測館を見て

 去る2月23日、お隣の愛媛県の久万高原にある天文台を見学しました。高知県生涯学習課の中内さんと高橋さんが同行しました。ここには昔から中村彰正さんがいて天文台を守り太陽系の天体の発見や観測に良い仕事をされているのですが、私には初めての訪台でした。最も松山方面に向う時、久万高原は度々通るのですが、いつも国道から天文台は何処にあるだろう?と思いながら通行していました。この季節には一面の銀世界のはずですが、ここにも暖冬が影響して一握りの雪もありませんでした。天文台は国道から1km以上も離れた意外に遠い山に囲まれた小さな盆地のようなところにありました。よく霧が発生するそうで四国でも梶が森天文台のある大豊町と並んでお天気の最もよくない所のようです。
 メインの60cmの反射望遠鏡は芸西の同じ60cmにくらべて実にコンパクトに軽量に纏められていました。芸西のは75cmの鏡筒の乗るフォーク式で実に大きく観測者が振り回されるのですが、ここのはコンパクトで操作が楽なように思いました。
 中村さんがここに来られたときには既に望遠鏡は納入された後だったそうですが、どのような優秀なメーカーの品でも凡そ完璧と言う物はありません。そこは観測者の腕がカバーするのです。幾つかの欠点や不具合を改良して使用しているそうですが、私には優秀な技術を持つ中村さんだからこそ、この望遠鏡が生かされ立派な成果を挙げて来たものと思いました。
 国内には1mクラスの大きい望遠鏡が多くあって稼働していますが、率直に言って優秀な観測者が極めて少ないように思われます。真の天文学的な成果は器械の大小ではなく観測者の腕に負うことが多いようです。中には完全なアマチュアで20cm位の小さな観測施設で世界の第一線に並んで立派な仕事をしている人が居る事は周知の通りです。器械の大小や性能を云々するよりも私たちの芸西も含めて立派な観測者を養成する事こそ最も大切な事だと痛感しました。
 久万高原天体観測館を見学した成果はそこにありました。


久万高原天体観測館にて(2月23日)
中央に中村氏

2006年05月31日

今宮の奇石

 北区紫野今宮町の「今宮神社」にやってきました。長老の金井さんが、ここには古くから伝わる不思議な石があると言う事で、今回の撮影会の目標の一つに挙げて居られたようです。神社は立派で広大な庭では沢山の参拝客が神社の神殿などを見物していました。近くの小学校でしょうか、小学生たちが、そこここで神社の風物を盛んにスケッチしています。若い女の先生は生徒たちそこのけで、カメラをもって珍しい神殿や門の模様を撮影しています。
 その立派な門の近くに、問題の不思議な石が座布団の上に丁寧に置いてありました。やや黒ずんででこぼこがあり、燃えたような痕跡が残っている石を見たとき一瞬「隕石か!」と思いました。手に持って見ると、その重さにまたびっくりしました。長径は20cmくらいの石ですが、片手では持てないくらいずっしりとして重いのです。明らかに中は鉄分です。沢山の人が撫でる関係でしょう、表面には色艶があります。
 神社が作った建て看板の説明によると「この阿呆賢(あほかし)さんは古くから神占石とも云われ、病弱な者はこの石に心を込めて病気平癒を祈り、軽く手のひらで石を撫で身体の悪きところを摩れば健康の回復を早める、、、、、、」とあります。昔、高知県の土佐山田町で隕石を祭壇に飾って拝んでいたという言い伝えがありますが、この石も”天降石”即ち天からさずかった石ということで、このような慣わしが起ったものでしょうか。
 クローズアップ写真を撮ろうかと思いましたが、35ミリカメラは伏見の酒蔵の白壁を撮った関係でモノクロしかなく、ポケットからミノックスA型のカメラを取り出して20cmの距離で接写しました。15mmF3.5のコンプランレンズは、見事に期待に応えてくれました。


今宮の奇石(古くから神占石とも呼ばれている)


画像をクリックすると大きな写真が表示されます(148 KB)

ミノックスA型にて撮影

2006年05月30日

京都に来ました(2日目)

 京都にやって来た二日目、地元のミノックス愛好家の人たちの案内で京の名所を見物して回りました。やはり鴨川のほとりの明治維新の頃の旧跡がいいですね。伏見では酒の製造元の酒蔵の白壁が印象的で、そのすぐ近くの旅籠、「寺田屋」に立ち寄りました。かって坂本竜馬が幕府の役人に襲われた場所で、竜馬はお竜の機転で難を逃れたと言われています。先の「池田屋」もそして「近江屋」も全く跡形も無いのと違って、ここ寺田屋はほぼ昔のままに保存されているようです。柱の刀傷の痕が激動の幕末を偲ばせます。
 今回のミニ撮影会の中心となった人は91歳でなおお元気な「日本ミノックスクラブ」の元会長の金井 浩さんです。戦前の「ミゼット」や「グッチー」から始まってあらゆるミニチュアカメラを愛し、そして自らも写真家として撮影に従事してこられました。特にミノックスを使った撮影術はいつも驚嘆に値する立派な作品を発表されました。私もミニチュアカメラの愛好者ですが、中でも「グッチー」で撮った戦時中の防空壕の写真は、たった一枚の当時をしのぶ珍しく貴重な写真となっています。
 この金井さんが「次は北区の今宮町に行ってみませんか、そこの神社には関さんもきっと驚く珍しいものを置いてあります」と言う。
 (珍しいものとは、一体なんだろう? それは星と関係のありそうなものらしい、、、)
そう思いながら何かに期待して行ってみることにしました。

伏見の旅籠寺田屋

2006年05月29日

京都に来ました

 訳あって京都に来ました。
京都駅の南口から二条大橋までの4キロ余りの道のりを歩きました。乗り物を探して乗るのも面倒と鴨川にそってテクテクと都大路を北上しました。お陰でいろんな名所旧跡を見物できました。
 鴨川に沿った河原町の一角に新撰組が襲撃した「池田屋」の跡を示す石碑がひっそりと建っていました。ぱちんこ屋のある繁華街の一角でぱちんこ球のはじける音に130年も前の剣激の音を連想しました。じっと正眼に構えた勇の虎徹の光。それを取り巻く志士たちの無数の剣。勇の物凄い掛け声と共に舞台は展開して行きます。
 勤皇の志士たちの隠れ家のあった高瀬川付近には今も昔の風情がそのまま残っているように思いました。池田屋と竜馬が遭難した近江屋は僅かな距離ですね。大昔見た土蔵の近江屋の面影は全くなく、そこや繁華な街の歩道の片隅でした。町並みが全く変わったのです。昔はもっと鴨川に近い場所であったように思いました。
 二条大橋近くの「ホテルフジタ」で全国から集まった10名のミニチュアカメラ愛好家の方々と会いました。そうですミノックスです。明日30日はミニ撮影会が催され、いろいろ名所旧跡を訪ねたいと思っています。天文学的な何か発見があるかもしれません。
 ミノックスは1930年代に北欧地中海(バルト海)に面した小国ラトビアのリガで生まれた名機です。撮影画面が僅か8x11ミリと小さく、しかも精密で、一体誰が何の目的で作ったかはナゾです。1950年の値段が日本円で5万円と言いましたから、いかに高級カメラだったかが伺われます。1940年ごろの日本映画に「第五列の恐怖」というスパイ映画があり、その場面でポケットからミノックスを出し横浜の軍港を撮影すれシーンがありましたが、もしかするとスパイ目的に開発されたかも知れませんね。誰が見てもライターとしか見えませんでした。1986年、私はこれでかのハレー彗星を撮影し、ミノックスカメラの展覧会に出品しました。「ミノックス」という小惑星があることは、ご存知のとおりです。

竜馬と中岡遭難の河原町近江屋の跡