2021年04月21日

第50回彗星会議高知大会は無期延期に

 昨年6月、彗星会議の記念すべき第50回目が開催される筈の高知大会が新型コロナウィルスの蔓延のために無念の延期となっていましたが、今年もその第4波が意外と強く、やはり遠方からお客さんを招いて開催することは避けた方がいい、と言う結論に達し、高知市での会は無期延期となってしまいました。
 彗星会議の歴史は古く1954年、元京都大学の山本一清博士の提唱で、同年8月、滋賀県草津市外の山本天文台で開催されました。当時23歳の若像だった私も招かれ参加しました。30余名の学者や学究が全国から集まり、予想外の盛大な会となりました。
 その後日本では、彗星を捜索するコメットハンターが急増しましたが、これも、こうした会合での地道な指導の成果だと思います。
 山本博士の発起した会は1955まで3回開催されました。その後15年ほどの空白がありましたが、山本博士亡きあとの東亜天文学会で、長谷川一郎氏、小島信久氏、そして私の3人が中心になって、再び始めたのが、今の新しい「彗星会議」で、第1回目は愛知県の蒲郡で開かれ、第2回目が高知市の名勝桂浜で開催されました。
 1971年の新しい彗星会議の発端は、愛知県の小島信久氏のアマチュアとしての最初の暗い彗星の写真発見が契機となったもので、その後写真のテクニックを駆使して彗星の発見や観測が、アマチュアの間で、大流行することになります。こうして「彗星会議」の日本の天文界への貢献は大なるものがありました。


1954年8月 山本天文台での彗星会議の一場面

第50回彗星会議高知大会は無期延期に

 昨年6月、彗星会議の記念すべき第50回目が開催される筈の高知大会が新型コロナウィルスの蔓延のために無念の延期となっていましたが、今年もその第4波が意外と強く、やはり遠方からお客さんを招いて開催することは避けた方がいい、と言う結論に達し、高知市での会は無期延期となってしまいました。
 彗星会議の歴史は古く1954年、元京都大学の山本一清博士の提唱で、同年8月、滋賀県草津市外の山本天文台で開催されました。当時23歳の若像だった私も招かれ参加しました。30余名の学者や学究が全国から集まり、予想外の盛大な会となりました。
 その後日本では、彗星を捜索するコメットハンターが急増しましたが、これも、こうした会合での地道な指導の成果だと思います。
 山本博士の発起した会は1955まで3回開催されました。その後15年ほどの空白がありましたが、山本博士亡きあとの東亜天文学会で、長谷川一郎氏、小島信久氏、そして私の3人が中心になって、再び始めたのが、今の新しい「彗星会議」で、第1回目は愛知県の蒲郡で開かれ、第2回目が高知市の名勝桂浜で開催されました。
 1971年の新しい彗星会議の発端は、愛知県の小島信久氏のアマチュアとしての最初の暗い彗星の写真発見が契機となったもので、その後写真のテクニックを駆使して彗星の発見や観測が、アマチュアの間で、大流行することになります。こうして「彗星会議」の日本の天文界への貢献は大なるものがありました。


1954年8月 山本天文台での彗星会議の一場面

2013年06月10日

星とギターを友として

 写真は猫の「トリトンちゃん」です。
 覚えていますか。2003年に初めて発見された短周期彗星に157P/Trittonという彗星がありました。このころ仙台市のMさんが迷い猫の面倒を見ているとき、いつの間にか飼い猫となって「トリトン」と名づけました。Mさんは天文ファンであったのです。名の基となった彗星は2009年に再び帰ってきましたが、その間猫の方も元気で、間もなく2周目の彗星を迎えようとしています。先年Mさんは東日本大震災に逢いましたが、幸い難を免れご本人も猫もゐたって元気です。Mさんはギターも上手で教室に通いながら、有名な練習曲集のすべてを終えるほどの腕となりました。星は仙台市青葉区の自宅で趣味で眺めています。いま北天に輝いているパンスターズ彗星も見たそうで、先年の新潟市での彗星会議に少ない女性の一人として参加されました。


猫のトリトン

 1962年ごろ、私は”ギターと星を愛する男”ということでマスコミに紹介されました。別に私の真似をしたわけではありませんが、星もギターも好き、という女性が全国で何人か登場しました。高知市のMさんも仙台のMさんと同い年で、私の教室に20年通われました。カルカッシのメソードから始まって、最後にはバッハのフーガやアルベニスの難曲に挑戦しました。いつか一緒に演奏した、アルベニスのスペイン組曲の中の『赤い塔』のアルペジヨ風な名旋律は今でも耳の底で唸っています。しかし悲しいかなMさんは50歳を待たずに病没されました。
 1984年、ハレー彗星が輝く頃、ニューカレドニアのアメデ島の渚で、私が拾って贈った貝殻を、彼女はいつまでも大事に持っていました。

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 星日記2003年10月30日【空にトリトン、部屋にもトリトン】

2009年04月25日

幻の”関・池彗星”

 望遠鏡制御用のパソコンの画面を見ていたら、その星図の中に22P/Kopff彗星が明け方のみずかめ座の中に輝いているのに気がつきました。それについて思い出は40年も昔に遡らねばなりません。
 「セキ・イケ彗星」などと言う彗星は無論ありません。しかし1960年代には生まれる可能性も無きにしもあらずでした。即ち高知市の私と土佐市(高知市から西約15km)在住の池幸一(いけ こういち)氏とは、お互いにライバルで、盛んに捜索合戦を繰り広げていました。
当時私は例によって口径9cmの屈折式コメットシーカーを使い、池氏は一回り大きい口径12.5cmの屈折を、彼独特の床の回転する天文台にこもって、主に夜明け前の東天を捜索していたのでした。空も良く、器械も満点、「今度彗星が現れたら、きっとわっしのものぞ、ふふふ、、、」と持ち前の大きい目をいつもギョッロと光らして意気込んでいるのでした。
 さて事件の起こったのは1964年4月25日の早暁のことでした。この朝、非常に良く晴れた星空を無心に捜索していた私は、午前3時半ごろ、みずかめ座の中にモーローとした9等級の彗星様天体を発見しました。星図には無論無く、明るい彗星の予報もありません。それから30分近く位置の観測を続けていたら、突然表の門戸をどんどんと叩く人がいます。びっくりして開けてみると、そこに顔面蒼白になった男が突っ立っています。明らかに池さんです。そして「関さん!とうとう見つけた!」と大変に高ぶった様子で言いました。
 私は(きっと池さんも同じものを発見したに違いない)と思って、部屋に入り、お互いの天体を照合すると、確かに池さんも私も同じ天体を発見したことになります。予報もありません。そこで池さんの提案で、この星に仮に”セキ・イケ彗星”と命名して、午前6時に東京に打電しました。その翌日には、浜松の池谷さんも発見して電報を打ちました。
 結果は有名な周期彗星の22P/Kopffが、増光したものであることが東京天文台からの返電で判明しました。当時コップ彗星がBAAのハンドブックに14等級の予報で出ている事は知っていました。しかし急激な突然の5等級の増光によって、まんまとだまされたわけです。そのような例は1955年のペライン彗星の時にもありました。新彗星の筈のムルコス彗星が、軌道の調査の結果、永い間行方不明中のペライン彗星であることが判明し”ペライン・ムルコス彗星”になったのです。
 それにしても50年近く彗星を愛し、探し続けた池さんは、今頃どうしているのでしょうか? 数々の彼の武勇伝を思うとき、その代償は余りにも小さく、その後、芸西で発見した小惑星に(21022) Ikeとして友情の命名をしました。
 1965年10月21日、「池谷・関彗星」が太陽にキッス?したとき、白昼暗室を作って、独特のアイデアで観測したことは永遠に残る良き思い出となりました。
 星を追って山に海に東奔西走、冒険好きで物好きだった池氏の隠れた功績は彼の星が頭上に輝く限り尽きません。


白昼「関・ラインズ彗星」を追う池幸一氏(左)と関
1962年4月撮影

2009年02月16日

忘れられぬ人

 毎年年賀状が来ている岡村啓一郎氏と池幸一氏から今年は来なかったので、ご病気ではないかと心配していたら、きょう岡村さんがポッコリ自転車に乗って来て、元気な姿を見せた。岡村氏は高齢を理由に芸西天文学習館(芸西天文台)の講師を辞退したが、傍から見るとまだまだやれそうな気がする。1980年代の、天文台始まって以来の古い講師であるので、もっと留まってもらいたいと思う。しかし夜、車に乗るのが危険なと言われると、あまり無理も言えないのである。2月26日に高知県文教協会で年に一度の講師会があり、それには参加すると言うことである。天文台の学習館には、彼の工作した、ウィリアム・ハーシェルの大望遠鏡の立派な模型が、氏の仕事の象徴として展示されている。
 一方、同年の池氏は10年ほど前に令息のいる千葉県に引越してから便りが途絶え勝ちである。思えば1962年の「関・ラインズ彗星」発見の時に知り合って、その後永い付き合いが始まった。彼も熱心なコメットハンターであったが、その後の30年間に収穫がなかった。1940年の「岡林・本田彗星」の時に、彗星に興味を持ち、捜索を始めたというから、彼の捜索の歴史は優に半世紀を経ているのである。その間、「池谷・関彗星」や「ハレー彗星」の出現に出遭い、実に縦横無尽の働きをした。特に池谷・関彗星が、太陽に0.006天文単位と接近し、危なくて観測できないとき、彼は持ち前の熱心さと奇抜さで終始彗星を見つめ、太陽をこすっていた頃の貴重な彗星の観測記録を残した。恐らく眼視では、彗星が太陽に突入する最後と出現する最初を世界で始めて確認した人であろう。
 その頃、車に乗っていなかった私は、よく自転車に乗って20kmほど離れた土佐市の彼の家を訪ねた。三階建ての屋上には3mのドームが光り、中には珍しい”池・ネオハックスカメラ”が座っていた。これは池氏が発案し、京都のある光学の専門家が完成させたという珍しい一種のマクストフカメラで、補正版は15cmでF2.5の明るさを誇っていた。無論新彗星のキャッチが目標であったが、一発の成功も無く幕をおろしてしまった。彼の家は電気商の老舗であった。
 久しぶりに彼の住んでいた土佐市の町を訪れた。天文台のあった建物は別の雑居ビルに変わり、偉容を誇っていた屋上のドームは姿を消していた。しかし、何時の日にか彼と登った石土森が、北の空に変わらぬ美しい姿で輝いていた。この半世紀、何事も無かったかの様に....。


中央が池幸一氏の天文台のあった建物

2008年05月03日

芸西3人組が集まりました

 永い”冬眠”が覚めると、春たけなわです。なんと今日は最高で30℃近くもありました。
 芸西の新天文台を担う3人組が集まりました。「プロジエクトGeisei」のメンバーで、計算の村岡健治と、CCD観測屋の下元繁男、それにいつも極道屋で彗星を探す関勉の3人です。折からの星月夜の下、ドームの中では、新70cmの経緯台を操作して、CCDの画像を楽しく眺めました。C/2008 H1の彗星も撮りましたが、北天に高い大熊座のM51のCCDによるカラー撮影は結構迫力がありました。それもその筈70cmは5000mmも焦点があるのです。焦点が長くても、運転精度は問題ありません。あらゆる天体の導入精度も、極めて正確です。あと、筒内気流とCCD接続部での視野のけられ、それに合成焦点のF値の暗さ(F7.3)等、いくつかの問題点を残していますが、これから約1ヶ月かけて、メーカーによって改善されていく段取りです。
 村岡さんが先に帰られてから後、下元さんと昔話をしながら観測しました。下元さんは長谷川大兄から昔懐かしい手回しの計算機を譲り受けたそうですが、私もその機械による軌道計算の長い時代があり、約250個の小惑星の円軌道を計算したことや、1955年ごろ行方不明中だった「ぺライン彗星」の予報を長谷川氏と手分けして計算したことなど語りました。神戸と高知で、計算機がジャンジャンと高い音を立てて回っていたという、滑稽にしてよき時代でした。天体までの距離を決定するための、ガウスの四次方程式の解までも工夫しながら計算したのです。
 下元さんが帰ったあともドームに居残り、今度は銀塩の写真で、彗星をパトロールしました。傍らスライドルーフでは、15cmの双眼鏡で久々に明けなずむ東天を捜索、懐かしいM31の光芒を見ました。低空には幽かにモヤがありました。



2007年02月26日

京都からの来客

 永い事「星の広場」の会長を勤めている城陽市の秋田勲さんの来訪をうけました。他に同行のNTTに勤務する本宮さんと亀山さんがご一緒でした。
 あれはたしか1975年頃でしょうか、アメリカのコメットハンターのボートルさんが来日した時、吉田さん(和歌山県の吉田茂さんだったと思います)と秋田さんとが付いて来られたように思いますが、私の記憶違いでしょうか。あの時は芸西の施設の天文台を見てから東の室戸岬に観光しました。藪保男さんや中野主一さんも来ていました。まだ芸西には60cm反射望遠鏡が出来ていない頃でウエスト大彗星の出現の少し前だったようです。
 今回は天文台に案内して6mドームの中の施設を見てもらいました。
 亀山さんはNTTの中の天文部の方で、テレスコープに詳しく、今後の芸西の新しい施設へのアドヴァイスを戴きました。亀山さんは、高知県土佐市に長く在住していたコメットハンターの池幸一さんを千葉県の自宅に訪ねて、情報を送って下さった方でした。池氏が長く愛用した12.5cmの屈折式コメットシーカーの写真も見せてくれました。私の9cmと同じ滋賀県の苗村氏の会心作で、1964年頃のコップ周期彗星の独立発見は池氏の唯一の成果でした。
 池氏は結果的には半世紀の長きに渉って彗星の捜索に親しまれた方で、成績はともかくとして私の良き同行者でした。1965年の「イケヤ・セキ彗星」の太陽面通過の時には山に海にと奔走して活躍し、貴重な観測を残しました。今ではその思いでも池さんの白髪が物語るように茫茫としてかすんでしましまいました。
 池さんのように黙々として陰で努力し、いまだ運悪くして報われない多くのコメットハンターが居られるに違いありません。4月の新潟県での彗星会議ではそうした悩みを抱える未知の方と話し合いたい気がします。私も15cmの反射式コメットシーカーで10年間努力し敗北した一人です。彗星は発見しない限り名が表面にでません。しかしその陰にきっと素晴らしい人がいらっしゃるに違いないのです。


芸西天文台にて
向かって左から秋田、本宮、亀山の各氏

2007年02月23日

久万高原天体観測館を見て

 去る2月23日、お隣の愛媛県の久万高原にある天文台を見学しました。高知県生涯学習課の中内さんと高橋さんが同行しました。ここには昔から中村彰正さんがいて天文台を守り太陽系の天体の発見や観測に良い仕事をされているのですが、私には初めての訪台でした。最も松山方面に向う時、久万高原は度々通るのですが、いつも国道から天文台は何処にあるだろう?と思いながら通行していました。この季節には一面の銀世界のはずですが、ここにも暖冬が影響して一握りの雪もありませんでした。天文台は国道から1km以上も離れた意外に遠い山に囲まれた小さな盆地のようなところにありました。よく霧が発生するそうで四国でも梶が森天文台のある大豊町と並んでお天気の最もよくない所のようです。
 メインの60cmの反射望遠鏡は芸西の同じ60cmにくらべて実にコンパクトに軽量に纏められていました。芸西のは75cmの鏡筒の乗るフォーク式で実に大きく観測者が振り回されるのですが、ここのはコンパクトで操作が楽なように思いました。
 中村さんがここに来られたときには既に望遠鏡は納入された後だったそうですが、どのような優秀なメーカーの品でも凡そ完璧と言う物はありません。そこは観測者の腕がカバーするのです。幾つかの欠点や不具合を改良して使用しているそうですが、私には優秀な技術を持つ中村さんだからこそ、この望遠鏡が生かされ立派な成果を挙げて来たものと思いました。
 国内には1mクラスの大きい望遠鏡が多くあって稼働していますが、率直に言って優秀な観測者が極めて少ないように思われます。真の天文学的な成果は器械の大小ではなく観測者の腕に負うことが多いようです。中には完全なアマチュアで20cm位の小さな観測施設で世界の第一線に並んで立派な仕事をしている人が居る事は周知の通りです。器械の大小や性能を云々するよりも私たちの芸西も含めて立派な観測者を養成する事こそ最も大切な事だと痛感しました。
 久万高原天体観測館を見学した成果はそこにありました。


久万高原天体観測館にて(2月23日)
中央に中村氏

2006年04月28日

ハーシェルの望遠鏡の模型完成

 芸西天文台ではこのところひどい黄砂に悩まされ、ろくに星が見える日がありません。さそり座のアンターレスが肉眼でかすかに見られるような悪い条件の日が続きます。
 そんなとき講師の岡村啓一郎(おかむら けいいちろう)さんがウィリアム・ハーシェルの作った巨大な反射望遠鏡の模型を完成させました。なんでも20分の1の大きさだそうですが、かつての現物が忠実に再現されています。イギリスの過酷な気象条件の中で、ハーシェルは妹のカロリン・ハーシェルを助手として恒星の世界に挑みました。冬の夜は記録するペンのインクも凍ったそうですが、そのような中でカロリン・ハーシェルは6個以上の彗星を発見しています。
 私が3月に岩手県のある牧場を訪ねた時、そこの天文台でヘベリウスの空気望遠鏡を作っていた人がいましたが、それは模型と言うより本物で、対物レンズも10cmF100くらいのとてつもなく長い焦点のレンズを特別に研磨させたそうです。それが観測会の時活躍したと言いますから驚きです。
 ハーシェルの模型の横に写っている鏡は、私が60cm反射望遠鏡ができるまでに、ここで活用した40cmのF5反射望遠鏡で小島鏡です。40cmはすべてが手作りでしたが、1975年頃の白鳥座の明るい新星の撮影から始まり、今接近中の「タットル・ジャコビニ・クレサック彗星」の再発見ほか複数の周期彗星の検出に活躍しました。しかし青板鏡だったのでピント出し他に苦労しました。特にN架台のガイドの悪さ....。

ウィリアム・ハーシェルの反射望遠鏡の模型
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2005年09月28日

 第一発見者の佐藤裕

 第一発見者の佐藤裕久さんが送信して下さったSWAN彗星(C/2005 P3)の画像を初めて見ました。さすが良く映っています。たしかに拡散状ですね。これでは測定の精度が上がらないでしょう。
 26日には芸西に行きましたが、この彗星が沈んだころ晴れました。夏のこの位置はいつも雲がかかっていて観測になりません。この日の観測はO-Cを参考に僅かに改良した値をMPCに送りました。
 今日は曇り、明日あたりC/2005 R4を狙ってみます。いま60cm反射望遠鏡のコンソールの位置表示が時間で狂っており、出鱈目でよく1時間違えて写したりします。分のオーダーは合っています。10月に五藤光学が来るでしょう。

 昨日Yさんという方から初めての電話がありました。CBの発行を始めた30年前、20歳代の若いハンターでしたが、いまでは50歳代となり、いまだ発見の夢を捨てず時々観測をやっているそうで、快活で愉快な会話を30分も続けました。なんでも藤川・デニング彗星発見の時、極く近くまで見ていたそうです。この日古い横浜の会員の西山峰雄氏からも電話があり、最近音沙汰が無かったので心配してお問い合わせのハガキを出してあったのです。氏は私より先輩のはずですが、心配するどころかトライアスロン?の世界大会で1500mを泳いだそうです。氏は古橋、橋爪時代の日本的な水泳選手であったはずです。私は9月18日のマスターズ全国大会(高知)で100mのブレストを泳ぎました。西山さんは昔、神田茂さんの下で小惑星の円軌道を計算するメンバーの一人であったことを知る人は少ないでしょう。大石さん、森さん、富田さん、竹内さん、それに私他でした。ガウスの5桁対数表、にバフシンゲルの天文表なんかを神田の古本屋に探しに言った事なんか懐かしいですね。そして買った本にM,Yなんて昔の大先生の名がサインしてあったり、、、、。あの頃の学生は参考書をも売る貧しい時代でした。1955年頃、ガウスの対数表を探していたら長谷川一郎さんが「高知大正門前の”池上書店”に行ってみなさい。」と言われるので、小津町の今は無い古本屋に行ってみると正にそのとおりありました。どうして長谷川氏が知っていたのか会ったら聞いてみようと思いながら遂に何度も忘れてしまいました。古い机の上は対数表とノートと鉛筆だけという質素な時代が懐かしいですね。そして夜の捜索は野外で小さなコメットシーカーとスケッチブックと赤い懐中電灯だけ、襲いくる寒さと戦いながら、計算と観測に奮闘したすがすがしい20歳でした。

2005年06月28日

OAA会長の長谷川一郎氏夫妻が高知市に来られました。

 雨が全く降りません。気象衛星の画像を見ると四国沖にあった梅雨前線の雲はいつの間にた衰弱し消えて、北に新しく梅雨前線の雲が発生し東北が梅雨入りした感じです。そのため南から湿った空気が入り込んで四国地方は必ずしも良いお天気ではありませんが、今夜は芸西天文台の空には見事な天の川が展開し星月夜となりました。天文台の”関予報士”の発表ではありませんが天気図を見た感じでは西日本は旱魃(かんばつ)が続きそう。もしこれで梅雨が明けて雨が降らなければ全く異常な早い梅雨明けと言う事になるでしょう。そして水不足が大変です。
 1955年ごろの8月、雨の降らない水不足が続いて当時の市長までもが参加して北山の「七つぶち神社」に水恋のお祈りに行ったことがあります。「迷信を言うわけではなく、この非常事態を放って置く訳にはいかない」と言うのが市長の言葉でしたが、お参りから帰ったとたんの夕方、大きな雷がなってどしゃ降りとなったのは単なる偶然か?
 天文台では久し振りにインパクターが当たる前のテンペル1彗星を見ました。全光度は11.9等でコマは2′です。近日点が近くなってかえって暗くなりました。20cm鏡の限界です。そしてマックホルツ彗星のコマは淡くなって見えなくなりました。
 昨27日にはOAA会長の長谷川一郎氏夫妻が高知市に来られ市在住の有志5名で歓迎の夕べを催しました。写真は下元繁男さんが携帯で撮影した会の1場面です。
[会の様子]
左から、関勉、岡村啓一郎氏、
長谷川会長ご夫妻、村岡健治氏、川添晃氏

[長谷川会長ご夫妻のアップ]
長谷川会長ご夫妻のアップ