2016年08月13日

天文台の珍客

 夏になって、じめじめとする気候になると決まってお化けや怪談が幅を利かせます。ここ芸西天文台でも夏の妖怪はいまや常識となりましたが、そんな架空のものではなく現実に恐ろしい動物が時々天文台に来訪します。
 いまから20年近く昔ですが、私は天文台で観測していて熊を目撃しました。つい最近お隣の安芸市で熊が現れ、新聞で話題になりましたが、芸西はもっと田舎ですから熊が現れても不思議は在りません。いつも天文台に来るとき、東のけものみちの森に光るふたつの大きな目を見ます。これぞ森の主と思うのですが、その正体は不明です。犬や猫の目は夜光るのですが、それとはスケールが違う大きな目の玉です。
 実は今日は親戚の者が帰ってきて、小学生ですからその宿題に星を見に天文台にやって来ました。あいにくの曇り空で、上弦過ぎの月がやっと見られたのですが、早々に引き上げて、天文台から100mほど下の駐車場まで降りていました。ところが暗闇の道路いっぱいに異様な動物の群れを発見したのです。その群れは私たちの道をいっぱいになってふさいでいます。「すわ!クマがでた!?」と思って恐る恐る電燈を照らすと、なんとそこにはイノシシの一家が道路を渡ろうとしていたのです。親イノシシが先頭に。後ろに2頭。その間に無数の子供たちがよちよちと歩いているのです。イノシシは1頭くらいは時々見かけますすがこんな大勢は初めて。
 10年ほど前に、この辺りでニホンカモシカの一家らしい数頭が谷に下って行く光景をみました。やはり芸西は田舎中の大田舎です。どうやら近くの山中にこうした動物の巣があるらしく、近く探険してみましょうか。夜、観測中に谷底から得体の知れない動物たちの異様な鳴き声が聞こえます。


芸西天文台からの下り道に現れたイノシシの子連れ
写真撮影 清水記行氏

2015年09月27日

東亜天文学会の年会(松山)


 去る9月5日から6日にかけて愛媛大学でOAA(東亜天文学会)の年会が開かれました。OAAは大正年代からの古い歴史を持つ学会で多くの会員が活動しています。
 第1日目は、愛媛大学教授の谷口義明先生による記念講演があり、2日目には、元国立天文台の香西洋樹氏による講演や、会員による研究発表もありました。
 日本での、彗星の眼視発見の全盛のころ、天文台の「天体掃索部」に居て、電話や電報のやり取りをされたのは香西氏でした。中にはとんでもない誤報も有ったりして、苦労されたと思います。40年ほど前、高知県に来られ、一緒に「龍河洞」を"探検"したのも、懐かしい思い出です。今は鳥取県の佐治天文台の台長をされています。


谷口氏(左)と香西氏(右)


歓談する会員たち

2015年08月18日

8月16日の怪

 太平洋戦争の終った1945年8月15日の翌日、奇妙な事件が起こりました。
 高知市の自宅から芸西の天文台に向かう途中に「住吉」と言う美しい海岸があるのですが、実はここに戦時中、特攻隊の基地がありました。その名も「震洋隊」です。特攻隊と言っても飛行機ではなく、二人乗りの小さな舟艇に爆弾を積んで、敵の艦艇に突撃するもので、全国に沢山の基地があったと推定されます。
 戦争は終わったはずの1945年8月16日の夕刻、待機する基地に一通の怪電報が飛び込んできました。
「ダイ119シンヨウタイ タダチニシュツゲキセヨ」と。
 高知県の震洋隊の本部は今の須崎市に有りました。この怪電報は恐らくここから発信されたもので、隊員はそれを信用して、出撃の準備を始めたのです。海岸の林の中の倉庫に隠してあった爆弾を約200名の隊員は22隻の舟艇に運び始めました。ところがどうしたはずみか1個の爆弾が暴発し、22隻の舟艇は次々に大爆発を起こし、111名の隊員が犠牲になりました。
 高知県でも最も美しい青い海岸は一瞬にして赤く悍ましい修羅場と化したのです。近くの目撃者の話によると、何人かの兵士がまるで凧のように、空高く舞い上がっていく姿が見られたそうです。


震洋隊殉国慰霊塔

 10年ほど前になるでしょうか。私はこの現場を初めて訪れました。夕暮れでした。林の中には当時爆弾を運んだと思われる国防色に塗装された車両が大破したまま残されていました。暮れなずむ海は静かでした。何事も無かったかのように青い波が白浜に打ち寄せていました。
 海を背にして帰ろうとすると、ふと後ろからの引く力を感じました。犠牲になられた多くの英霊の魂でしょうか。隊員は高知県と言うより県外の兵士が多かった筈です。故郷に帰りたかったでしょう。私は薄闇の中に海鳴りが聞かれる海岸に向かって静かに合掌をしました。


住吉の海岸

2015年07月05日

病床の窓

 心臓病があって高知市の赤十字病院に入院しました。手術を経て10日くらいで退院する予定です。若いころから病気ひとつせずに天文観測に携わってきましたので、我が生涯の特別な期間になりそうです。
 高知市の中央から、やや北東寄りの6階の病室から、北の山並みが見えます。この低い連山のすぐ向こうが四国山脈になります。


病棟から北を望む

 真北の山(正蓮寺高原)は標高350~400mで、高知県で最も早くゴルフ場のできた山です。思えば1965年9月、かの”イケヤ・セキ彗星”を追っかけ、暁の空に無事な彗星の全景と対面したのも、この山でした。雲と木立にかかった白い曲がった尾、懐かしいですね。
 そう!イケヤ・セキ彗星の発見から、今年の9月で満50周年になるのです。
 遠い美しい夜景を眺めていると、南国市の点々たる町明かりの上の彗星の姿が思い出されます。この彗星の発見は世界中の多くの人との友情のつながりができました。


病床からの夜景

 私は自分の名刺に、この彗星が太陽コロナの中を通過中の写真を印刷してあります。この小さな写真を見るだけで、私が何者であるのか、何よりも分かってくれるのです。
 いまはプロの掃天によって、たくさんの微光の彗星が発見されますが、彗星の発見は何と言っても眼視発見が華ですね。
 ああ夢よもう一度!!

2013年09月03日

アランフェス協奏曲

 ギタリストの稲垣稔さんが亡くなられて2か月以上になりました。
 稲垣さんには小惑星「Inagaki」をプレゼントした関係で、特に身近に感じていました。それについて「追悼の言葉」ということで、東京朝日新聞の取材がありました。
 ギター音楽の素晴らしさはクラシックにあると思います。現代曲ばかり手がける若手のギタリストの多い中で、稲垣さんは古典からロマン派、そして近代と幅広く演奏する正統派のギタリストで、若くして亡くなられたことは本当に惜しい気がします。
 私が聞いた最後の演奏は、もうかれこれ20年ほど前になるでしょうか。徳山市で聞いたのですが、まだ名器「フレタ」の音が耳の底に残っています。宇宙に旅立った稲垣さん。これからは星の世界から、きっと名演奏を聞かせて下さるでしょう。
 稲垣さんのギターでの師は大阪の近藤敏明さんでした。この人には作曲家の兄さん(恒夫さん)が居て私も何回か会ったことがあります。「ギター芸術」という月刊誌を発行していました。
 1955年ごろだったでしょうか、ロドリーゴの有名な「アランフェスギター協奏曲」がスペインで初演されたとき、その録音テープを持って私を訪ねてきました、なんでもスペイン大使館の好意で特別に早く入手したとかで、スペイン交響楽団をバックに「デ・ラ・マーサ」のギターソロで録音されていました。この曲はその数年後にレコードになって全世界に紹介されたのですから、私たちは曲が生まれてほやほやの時に鑑賞することが出来たわけで、即、高知市公民館での恒例のレコードコンサートで披露されました。第二楽章の「アダージョ」はギターが逆に伴奏となって、オーケストラがソロを演じるあたり意表をついていいですね。曲は名手ナルシソ・イェペスのお手の物でした。


ナルシソ・イエペス氏とともに
初来日の1960年ころ大阪にて


2013年08月15日

快気を祈念して

  下の写真は封筒に貼られていた切手シートで、1986年ごろイギリスで発行されたハレー彗星の記念切手です。不幸にも交通事故で寝たきりになった息子さんの母親から送られてきました。


封筒に貼られていた切手シート

 『Comet Seki』のサインが欲しいとの事。オーストラリアの雄、ブラッドフィールドさんからは、すでにサインをもらったとの事です。
 この人の父は、アメリカの大学を卒業した立派な天文学者でした。令息も、父の後を継いで、天文学を勉強していたそうです。不幸な運命です。母親は少しでも息子さんを喜ばせようと、名もない私にまでサインを求めてきたに違いありません。

 早く送ってあげよう。
 そして一刻も早い回復をお祈りしよう。

 1986年に、ニューカレドニアで見た南十字にかかるハレー彗星の姿を思いだします。そして芸西での観測...。
 ハレー彗星には多くのドラマがありました。。


イケヤ・セキ彗星などいくつかを発見した
コメットシーカーを手にするブラッドフィールド氏
(1991年3月)
芸西村の関観測所にて

2013年05月19日

筆山の月

 高知市の中心やや南に聳える筆山(ひつざん)はリクレーションの山として昔から市民に親しまれてきました。山ノ内家代々の墓地があり、また太平洋戦争時、軍神と言われた長野修身(おさみ)元帥の墓があることでも知られています。しかし月の名所としては余り知られていません。
 昔から歌や詩に歌われた月の名所があります。たとえば『コロラドの月』、中国の『廬山の月』など有名ですが、”筆山の月”も、これらに劣らない美しい、そして風情のある月の名所です。
 夏の夕方、風呂から上がって二階の籐椅子にゆったりと腰を落として、うちわ片手に見る月は、何とも言えぬ落ち着いた気分にしてくれました。音楽の好きな私は、当時LP盤でベートーベンの『月光のソナタ』を聞きながら、筆山の峰に登る月を楽しんだものです。
 その頃の私は20歳、彗星の発見が最大の目標でした。ほかのことは何も考えずに、遠い理想に向かって一筋に生きた頃が懐かしいです。名月を仰ぐ心も瞳も純粋でした。そして10年の歳月を経て月に祈る敬虔な心がやっと報われたのです。
 発見に成功して眺める”筆山の月”は一層美しく雄大に見えたものです。今夜もあの頃と同じ月が筆山の上に顔をだしました。


筆山に昇る月

2013年04月25日

『無人島長平』の墓

 芸西村の天文台からの帰り道、岸本という国道55号線に沿った海岸線を走っているとき、奇妙な銅像と古い苔蒸した墓を発見しました。最近わけ有って建てられたもののようです。銅像のそばの建看板には『無人島長平の像』と書かれて、野村長平のことが説明されています。
 地元の漁師、長平は、今から230年ほどの昔(1785年)、船で嵐にあって、この地から東南東に760km離れた鳥島に漂着し、そこで12年間も窮乏の生活を送りました。そしてついに流木を使って船を組立て、自力で故郷の浜に帰ってきた、という驚くべき人物です。
 いまなら大変な英雄になっていたことでしよう。このことは足摺岬から、同じ鳥島に流されてアメリカに渡った『ジョン・万次郎』より半世紀以上前のことでした。万次郎はその後、アメリカで生活し、アメリカの文化を持ち帰って有名になりましたが、長平はそのような発展はなく、地元の人のみに知られる偉人として、ひっそりと余生を送ったものと思われます。
 長平の銅像の見つめる彼方には、今日も太平洋の限りなく広い青い海原が広がっているのでした。

[無人島長平の像と墓]
無人島長平の像

2012年10月24日

東亜天文学会、高松総会

 去る10月14日と15日、香川県の高松市で東亜天文学会の総会が開催され約80人が参加して盛大に無事終了しました。
 総会では恒例の新天体発見者の表彰と、「OAA賞」や感謝状等が関(会長)から手渡されました。香川大学の先生方による講演やまた懇親会も行われ楽しく有意義な二日間でした。地元の天文協会の絶大な支援のもとに、会はスムーズに運営され、そのご苦労のほどが偲ばれました。




 余興としては会の終了後に高松名物のうどんを食べたり、また有志30名がお隣の高知県の芸西天文台に貸し切りバスを走らせて見学会が行われましました。天文台では待ち受けていた会員の下元繁男氏がテレスコープの説明を行いました。



 天文台は、あいにく曇天でしたが、晴れていれば夜空に「東亜天文学会の星」(芸西で1987年発見の小惑星3935)が、あたかも総会の開催を祝福するが如く輝いているはずで、この星の光る限りOAAは不滅であると信じます。
 写真は2012年10月24日、芸西の70cmで撮影した同天体で、ふたご座を運行中の明るい16等星です。


小惑星(3935)東亜天文学会
2012年10月24日撮影
70cm F7反射望遠鏡 + Nikon D700
Copyright (C) 2012 芸西天文学習館 (Geisei Observatory)

2011年02月08日

凄い黄砂地獄

 年が明けてから1回も雨が降りませんでした。昨日までの約40日、毎日晴天続きで極端に寒い日も多くありました。過去高知県では百何十年無かった記録とか。
 空が晴れて観測が進みそうですが、どっこいそうは行かず、大気は黄ばんで猛烈な黄砂です。日によっては遠くの山は見えず、至近距離の風景でさえも煙っています。これは中国からの普通の黄砂現象ではなく、恐らく最近猛威を振るっている九州の「新燃岳」の影響と思われます。高知県も西の端の宿毛で火山灰が降ってきた記録がありますが、はるか東のここ高知市にもついに火山灰が降ってきました。眼に見えない微粒ですが、車の屋根にうっすらと積もっています。濃い黄砂が降ってきて総ての風景が染まった感じです。
 昔を思い出しました。20年は経ったでしょうか。フィリピンのピナツボ火山の大爆発で駐屯の米軍が撤退したことがあります。そのころオーストラリアの捜索界の雄、ブラッドフィールドが暁天に彗星発見をやったのですが、芸西では南の空が煙って観測できなかったことがあります。火山灰は成層圏近くにまでせまってしばらく浮遊し、天体観測は世界的に公害を被ったのでした。
 写真は自宅の二階の窓からの南の景観で2月7日の午後です。明るいはずの晴天が暗く夕闇のように見えます。


黄砂で夕闇の様になった高知市の空
2011年2月7日午後撮影

2011年01月02日

謹賀新年

 今年初めての日記です。
 昨年はスミソニアンの小惑星センターの大御所、マースデン博士や森本雅樹氏、それに我々の身近では、村岡健治氏の死去という悲しい出来事がありました。森本先生とは去年の7月、姫路科学館でお会いしたばかりでした。年が明けて、悲しみを乗り越え、そして故人の天文界への貢献に感謝し、希望を新たに努力したいと思います。
 年末から寒さと体調不良で床につくことが多かったのですが、今日は気合をかけて近くを散歩しました。写真は四万十川、仁淀川に次ぐ清流と言われている鏡川の風景です。近くに住んでいた坂本竜馬も家からふんどし姿で川に泳ぎに通ったと伝えられています。私も幼い頃には父に連れられてここで泳ぎを覚えました。小学校の体育の時間には、よく鏡川に通って水泳の授業を受けました。当時はどこにもプールが無かったのです。往年のオリンピック選手の北村久寿雄氏や、和歌山県の前畑秀子選手らは冬でも川に練習に通ったと伝えられています。
 今日は流石(さすが)に大気が澄んで遠くの山の空まで水色に輝いています。画面中央やや右寄りの川の真上に見えている山が「筆山の月」で知られる筆山です。この山に満月が昇る情景は、中国の慮山の月を思わすものがあります。
昨日に打って変わっての暖かい午後、約5kmの散歩を楽しみました。


鏡川の風景

2010年11月10日

秋の黄砂

 季節外れの大陸からの黄砂の影響で、天体観測に支障がでています。気象台では11月10日を過ぎてから、西日本での黄砂を発表しましたが、その前の11月9日には、かなり激しい黄砂が確認されました。晴れても星空がなんだかどんよりとして、撮影しても2~3等損をしているようです。
 写真は11月9日の夕刻、自宅の屋上(関観測所[370])と、下の道路上で見た落日の黄砂現象です。


自宅の屋上からの夕空



透明度の悪い夕空

2010年10月05日

ネオファクスカメラ(Kカメラ)のその後

 先に土佐市の池幸一氏の所持していた「ネオファックスカメラ」について西播磨天文台で、同じものを見たお話をしましたが、その後天文台の黒田台長と松江市でお会いし、確かめたところ、これは形式は同じでも、池氏の所有していたものとは全くの別物であることが分かりました。またホームページを見た長野県の坂井義人氏からも親切なメールが届き、その行方が判明しました。
 「ネオファックスカメラ」は、光学研究家の小林義生氏が従軍中に開発した特殊カメラで(以下、Kカメラと呼びます)、従来のシュミットともマクストフカメラとも違う、氏の独自の設計によるFの明るいカメラです。戦時中飛行機に積んで、暗い敵の基地を撮影する目的のものでしたが、結果を残せないまま終戦になり、戦後更なる研究の末、天体カメラとして登場しました。
 池氏と小林氏との関係は判然としませんが、池氏が彗星発見の目的で、また当時話題になった月の第二衛星を撮影するために特に明るい光学系を望み、ある日、京都の小林氏に手紙を書いたことから始まったようです。小林氏は何回か土佐市の池氏を訪ね、また観光をかねて一家で来られたこともあります。そして池氏のためにKカメラを提供することを約束しました。完成のための費用を池氏が負担すると言うことになっていたようです。そのためにカメラ名の先頭に「Ike」の名を冠したものと想像されます。
 しかし結果的には十分に使用されずに、小林氏のもとに返されることになり、その後、長野県の小川天文台の坂井氏が譲り受けて活用しています。
 池氏の持っていたKカメラは口径(補正版)が20cm、主鏡30cm、Fはたしか2.5だったと思います。当時、富士やコダックの高価なガラス乾板を丸くくりぬいて使用しました。1972年の桂浜での「彗星会議」の時、池氏がこれを持ち込んで披露しましたが、東京天文台の冨田氏は、「乾板の膜面に触れて切るのは悪い。またまん丸は掃天の時に不都合」と批判されました。発明者の小林氏は、「まだ研究の段階で、カメラを公の場で披露したり、これで撮った作品を天文雑誌なんかに出してはいけない」と池氏に警告されました。何事も発展することを望んでいた池氏はこのあたりから意欲がうすれ、すべてがルーズになって行ったと想像されます。


高知市での彗星会議の席上で、目隠しをして
ガラス乾板を丸く切る実験をする池幸一氏
見守るのは長谷川一郎、古川麒一郎の両氏

 西播磨天文台のある技官は、このKカメラを、フィルムを使って使用していましたが、「いまはデジカメの方が明るく写る。これも時代の流れかな....」と話していました。坂井氏もメールで言っておられましたが、デジタル化が望まれます。技術的に困難かも知れませんが、そうなれば明るさにおいては天下一品ですから、使い方によったら素晴らしい今後の活躍が期待されます。
 なお小林氏はKカメラによる天の川の写真星図を出版されたことは周知の如くで、次に南半球での撮影を計画されていたとき、残念にも志半ばで逝去されました。


池・ネオファックスカメラ(池幸天文台)

2010年09月25日

また月下美人が咲きました

 庭の鉢で月下美人の花が咲きました。
 いつも満月に近い明月の深夜に咲くので注意しておりましたら、今月も仲秋名月の夜に見事に咲きました。咲くのは早く、宵のうちはまだ蕾の状態でしたが、月が高くなる深夜に、まるでスローモーション映画を見るがごとくアッと言う間に全開となりました。咲いたのは、誰も見ていない深夜のたった5時間くらいです。なんと神秘的な花でしょうか。
 いま新しい蕾が5輪あります。果たして次の満月と呼応して咲くのでしょうか、興味津々です。


名月輝く夜に


明月と呼応して深夜開いた月下美


その5時間後、再び蕾となって消える

2010年07月31日

月下美人が咲きました

 いつの日にかこの日記で紹介したことがあります。
 庭にある「月下美人」の鉢でつぼみが膨らみ始めたかと思うと、夜中に急に四輪の花が一斉に開花しました。前の時は月齢13夜の名月が煌煌と照っていました。今夜も明るい月があるはずですが、曇っているのか見えません。
 花は23時からたった5時間咲いただけで、陽の当たる朝にはもうしぼんでいました。だれも見ていない時間に密かに美しい花びらを咲かせる。目立ちたがり屋が多い中に、なんと美しい”こころ”の持ち主でしょうか。この花を見ている時、人間は陰で良い事をしなくてはいけない、とつくづく思いました。世の中がさぞかし明るくなることでしょう。
 写真はモノクロですが、花はその性格を象徴するような真っ白で、モノクロフイルムの見せ場です。


庭に咲いた月下美人

2010年07月10日

忠犬エス物語

 果たして”忠犬”と言って良いのでしょうか。大正年代の初めごろ私の祖先は製紙工場を営んでいました。高知県に古くから伝わる和紙の手漉きです。明治時代に今の土佐市(旧、高岡町)で、和紙の手漉きを実験的に始めた私の祖父兄弟は、大正時代に入って高知市上町に進出し、かなり大規模な工場をもちました。そして昭和20年7月の高知市大空襲で工場が焼失するまでの間、かなりの繁栄をみました。
 その間の出来事です。母が飼っていた黒い子犬が成長した大正の始めころ夜中にけたたましく鳴き出したのです。普段と様子が違うので、母屋で寝ていた祖父が起きて、あたりを見回ったのですが、何も異常がありません。しかしエスは盛んに北の門の方を見てほえ続けるのです。「泥棒でも、、、」と不審に思った祖父は門の戸をあけてみると、道路を隔てた北側の工場から煙が立ち昇っているのです。火事です。エスはその匂いを嗅ぎ付けて主人に報せようと盛んに吠えまくっていたのです。火事は工場の釜場からでしたが、発見が早かったので、大事に至らず消し止めました。このほかにも鏡川に泳ぎに行ったとき、溺れていた人を見て吠えたとか、主人が忘れた杖に気づいて咥えて持って帰ったとか、”忠犬”としてのいろんな話を聞かされました。100年近い古い写真に犬の面影を知る事ができました。
 写真は大正9年5月、謎の人物が撮った製紙業時代の珍しい写真で、製紙業を始めた祖父兄弟が写っています。製品を大八車に満載して出荷するところです。このころ35mmフィルムはまだなく、写真はすべて名刺か手札大のカットフィルムだったようです。大正ロマンに近代的な物事に挑戦した謎の男、そして竜馬と同じ36歳で世を去った男のことは次回に登場します。


製紙工場と祖父兄弟
大正9年5月撮影

2010年05月14日

小さな遺跡発見

 皐月晴れの良いお天気です。風香り空には無数の鯉のぼりが勢いよく泳いでいます。しかし5月にしては寒い北風が吹き、例年より気温が低いようです。
 上町の自宅から散歩に出て200mほど離れた鏡川の堤防を歩いていると、やはり「ぶら上町」の人を発見しました。高知市のホテルが募集した県外からの観光客です。リーダーが説明している脇に碑があります。「従是東六ノ丁場」とあります。これは藩政時代の昔、鏡川が氾濫して水害が出たときの工事する受け持ちの班を指定したもので、ここより東が第6班と言う意味のようです。そういえば昔は良く氾濫して河川敷の人は被害を受けたものです。山内家の殿様は鏡川の北側にお城がありましたので、北に長堤を築いて、水害のときの水は南にあふれるようにしたのです。しかし昔は田畑だった南の地区に多くの民家が立ったので、常に洪水の時には被害を受けたのです。
 堤防に立っているとき昭和20年7月の高知市空襲のことを思いだしました。火災から避難する人たちのなかに混じって、私はここに立っていました。爆撃で行方不明になった母を捜していたのです。すぐ近くに焼夷弾が落ちて、私は伏せました。北の空は、まるで赤いオーロラが出たような物凄い火災でした。



2009年12月28日

小島鏡の思い出

 今日12月28日は「第二池谷・関彗星」を発見した日です。
 1967年の年末に近い寒波の襲来した寒い日、夜明け前の東南の空に発見しました。この彗星は、その後長く見え続け、私が写真観測を始めるきっかけとなった彗星ですが、其の頃、池谷さんの親友であった愛知県一色町の小島信久さんと知り合い、口径21cmの反射鏡を研磨して頂きました。この21cm F5の鏡は良く出来たパラボラ面で、西村製の赤道儀に載せ彗星や小惑星の観測に活躍しました。その後、観測所が芸西村に移転した矢先、”フィンレー周期彗星”を検出したことは忘れられません。その後間もなく、鏡は同じく小島さんの好意で、一回り大きな40cm F5の反射鏡となり、鏡筒部は全自作で、空の良い芸西の星空の下で活躍しました。この40cmは5個の周期彗星の発見に貢献しましたが、中でも大爆発によって一旦消えた?と目された”タトル・ジャコビニ・クレサク彗星”を1978年秋に検出したことは忘れられません。この年の観測は芸西だけしか無かった貴重な資料となりました。
 1976年には、あの歴史に残る大ウェスト彗星を迎え、観測しました。ピントが良く合ったときの40cm鏡は素晴らしい映像の切れを見せてくれました。其の頃写真感材として、カーリングしやすいフィルムではなく、コダック社のガラス乾板を使用していました。従って平面性は完璧で、本来のレンズの性能は乾板によって初めてその実力が発揮できたのです。このウェスト彗星の写真は、新装となった東亜天文学会の機関紙「天界」の2010年1月号の表紙を飾りました。
 数々の天体を観測し貢献したこの「小島鏡」はその後の60cmの台頭によって引退し、いま芸西天文学習館の教室に展示されています。メッキは白く濁っていますが、その光の中には、過去の数々の名場面が映し出されているのです。


学習館に展示されている40cm小島鏡と斜鏡

2009年11月07日

アンデス山脈の上に輝く天の川

 国立天文台の長谷川哲夫氏から、見事なアンデスの天の川の写真が送られてきました。
 長谷川先生とは数年前に高知県の「教育センター」でアルマ計画に関する講演会があったとき初めてお目にかかりました。
 アルマ計画とは、日本と北アメリカとヨーロッパ三国が共同でアンデスの山中に建設している電波望遠鏡のことです。長谷川先生はチリ、サンチャゴの国際ALMA建設事務所で副プロジエクトマネージャーを勤めて居られます。「国立天文台ニュース」189号によると先生が小学高学年のころ、私の拙著「未知の星を求めて」と出逢い、天文学の世界に憧れるようになった、と言う意味のことが本の紹介と共に出ています。私も小学の高学年のとき出遭った本があります。それは恩師に戴いた「天文学新話」と言う松隈健彦氏の本でしたが、いまさらのように一冊の本が人間の成長期に及ぼす力の大きさを感じます。
 さて写真です。アンデス山脈の中腹にあるアタカマ観測所(標高3000m)で撮影された夏の天の川で、北は北十字たる白鳥座付近から、南は有名な「南十字」のはるかな南方の部分まで延々110度に渡って写されています。正に天の川のパノラマです。アンデス山中で見る星はあまりにも多くて、星座の形が描けず、ところどころにみられる多くの暗黒星雲の形から、いろんな動物の名が付けられたそうですが、そう言えば、南十字のそばに、通称「石炭袋」がポッカリと不気味な暗黒の口をあけています。そしてあの「宝石箱」の絢爛たる姿も対象的です。
 2000年にはマウナケアの山頂に立って物凄い星の界に圧倒されました。ああ何時の日にか、アンデスの星空を仰ぐ日があるのでしょうか?
 この写真は私が額を自作して、芸西の天文学習館に飾っておきます。


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アンデス山脈アタカマ観測所(標高3000m)で見た天の川
国立天文台・長谷川哲夫氏提供

2009年10月30日

カノープスの思い出

 今年もカノープスが高く見えるようになりました。いよいよ冬です。
 この10月に天文台周辺の雑草刈りをやった関係で、天文台周辺の見はらしが実に良くなりました。カノープスは天文台の入り口から東南の空に悠々と見えています。そして沈むまでの長い時間楽しむことが出来ます。
 前にも少し書きましたが、私が初めてカノープスを見たのは1965年10月22日の早朝でした。折から太陽に接近中の「池谷・関彗星」を追って須崎市の蟠蛇の森(ばんだのもり)に上がった時、初めてカノープスにお目にかかりました。当時”天文冒険家”だった土佐市の池幸一氏の誘導によって見たのですが、それはまるでシリウスのような高さ、そして青さ。私は咄嗟に大犬座のシリウスと思ったほどです。一体、この高さ、そして輝きはどうしたことだろう!?カノープスといわれる星のはるか下に地平線があり、その間、累々として星が、星座が続いているのです。芥川龍之介の小説「杜子春」に出てくる仙人に連れられて竹箒に跨り、蛾眉山と言う高い山に飛び、その岩山の頂上で珍しい星を眺める、あの情景を思い出しました。「ここはよほど高い山と見えて、北斗の星が茶碗の大きさくらいに輝いていました....。」と。実際カノープスの驚きはあれから40年以上経った今も忘れていません。
 須崎市の「蟠蛇の森」に行けば不思議な星の世界がある。いつか彗星を追っかけたあの山に再び立って、カノープスを眺めたいと思っています。
 ここ芸西でみるカノープスも捨てたものではありません。
 そう、「蟠蛇の森」も星になりましたね。当時建てた「池谷・関彗星確認の地」という看板のことも懐かしく思い出されます。


2009年10月30日午前2時
ニッコール85mm F2  15分露出 アクロス100フィルム

2009年08月15日

清らかな夏の花

 8月15日は終戦の日です。
 今日も庭には青い美しい花が咲いていました。強烈な夏の太陽に照らされて、夕方には力尽きたように赤くなってしぼみますが、明くる朝には必ず咲き誇ります。力強い花です。大都会で生活するある少女が手紙の中で、
 「朝の清らかな空気の中でしか咲かない朝顔の花をいじらしく思います。紫の花びらを見ているとき、私は紀州の故郷の海の色を連想しました、、、」
と書いてきました。
 確かに紫の花はいろんなことを想像させます。私は1945年の終戦の年に、学徒動員で暮らした頃の、土佐の空の色を連想しました。確かに「青い空と蒼い海」というのが、ここ土佐のシンボルであり観光宣伝のうたい文句になっていました。
 その年の6月、高知市の東のはずれの稲生(いなぶ)で軍事作業していた私たち大勢の学生の頭上に白昼金星が見え、「スワ、敵機か?!」ということで、大騒ぎしたのも、空が青黒く澄んでいたので、太陽のすぐ東に発見出来たのでした。無論このとき金星だとは誰も気が付きませんでした。
 7月4日の高知市大空襲のあとは朝倉の米田に疎開して、そこでも学校には通わず、近くの荒倉山(あらくらやま)というところで、関東軍と共に軍事作業に従事しました。軍のトラックに乗って高知市を縦断して東のはずれの比島山で作業しました。車上から見る市街は焼け落ちてまるで荒れ果てた砂漠のようでした。その殺風景な焦土の中で、国宝高知城と城東中学校(現、大手前高等学校)のビルだけが焼け残って、夏の日に威厳をたたえているように光っていました。
 終戦の報せはこの比島山の上で聞きました。誰かが下の民家のラジオからの”玉音放送”を聴き、大声で報せてきたのです。その場所は奇しくも江戸時代の天文学者、川谷薊山(かわたにけいざん)が日食を観測した場所でした。即ち宝暦11年、江戸幕府の天文方の発表した暦に日食が抜かっていることに気付き、幕府の天文方と論争の末に、その年の9月1日、実際に自分の計算が正しかったことを証明したのでした。
 この日、作業が終わって、私たちは、ただ茫然として焦土の中を歩いて朝倉に帰りました。”神国”と言われた日本の敗戦のショックが余りにも大きかったのです。私の歩く焦土の空は灰色にくすぶっていました。実際私たちの前途には何の希望も光明もありませんでした。しかし、この暗黒の時代に、やがて天文との接点が時々刻々迫って来ているのでした。それはまさに運命的な出逢いとなるのでした。


庭に咲く青い花

2009年07月26日

月下美人が咲きました

 2年前の2007年に一度咲いた花です。
 同じ鉢で今年また咲きました。
 夕方は写真(上段)のような蕾でしたが、その5時間後、下段の写真のように同じ蕾が満開となり、真夜中のたった3時間暗闇に美しい姿を見せました。
 2年前にはその名の通り、咲いた花の上空には満月に近い月が煌々と照っていました。今回は雲の上に淡い三日月がある状態で咲きました。しかし闇夜で月影はありませんでした。

♪ 暗い夜空に星一つ
   月下美人の花が咲く 
    今宵は月も出ぬそうな

 一体誰に見られるために白い美しい花を咲かしているのだろう?
昔、高知市の北のはずれから、電動の車いすに乗ってご婦人が教室に通っていました。花のある庭の片隅に車を停めて憩っていました。その人は数年前に亡くなりましたが、ひょっとするとその婦人の魂が花となって咲いたのではないかと思いました。私は、その方の好きだったという、フレスコバルディの「アリアと変奏」という曲を思い出していました。



2009年07月14日

発見と花

 梅雨が上がろうとして、まだ上がらないこのごろ、天文の仕事がないと、余計な事を考えたくなるものです。
 我が家の庭にネムの花が咲いては雨に打たれてしおれています。しかし心棒強い花と見えて、うたれても打たれても咲き続け、その美を表現しようとします。雨に咲く美しい花です。
 戦時中のラジオ歌謡で関種子の歌った歌に「雨に咲く花」という歌がありました。関種子は当時人気の絶頂にあって、私の敬愛した人でしたが、テレビの無い時代で、どのような人であったか、美声を聞くだけで、一度もお顔を知らずに終わってしましました。太平洋戦争がたけなわの頃に、よく歌った「南の国のふるさと」という歌を知る人はもう少ないでしょう。
 倉敷天文台は構内が秋になると、一面のコスモスの花で彩られていました。本田さんの書いた書物によると、1940年10月1日、この天文台に勤めていた岡林滋樹さんは、コスモスの花に包まれながら、明け方の4時30分、東天しし座の中に彗星を発見しました。即ち「岡林・本田彗星」の発見です。
 私ごとでは1956年10月6日の未明、観測所の周辺に咲いたコスモスの花を一輪、オーバーコートの胸のポケットに刺し、観測台に上がりました。そして、しし座のなかに「クロムメリン彗星」を発見したのでした。
 いつも秋がやってきてコスモスが一面に咲く頃になると、昔の発見のことを思い出し、「ああ観測のシーズンがまたやってきたのだ」と思います。コスモスは私の最も好きな花です。



2009年07月05日

史跡探訪3

 坂本竜馬(さかもとりょうま)生誕の地は上町一丁目の電停の近くにあります。戦前はその生家はほぼ完全に残されていましたが、昭和20年7月4日の空襲で焼け落ちました。一軒西となりに小学の時のクラスメートが住んでいましたので、遊びに行って入ったことがあります。ガランとした空き家になっていました。
 1835年11月15日に竜馬がここで誕生したわけですが、其のとき有名なハレー彗星が夜空を賑わしていただろうことが想像されます。このホームページでも書きました。
 ここを訪れる観光客は多いのですが、施設は質素で、僅かに元高知県知事の書いた「坂本竜馬誕生の地」という碑が寂しく建っているだけです。


坂本竜馬誕生地の碑

2009年07月01日

史跡探訪2

 私の家から近い旧・築屋敷町(つきやしきちょう)には、坂本竜馬(さかもと りょうま)が剣術の修行に通っていた道場があったと伝えられています。ここは石垣の多い町並みで、その歴史は古く、戦前にはある時代劇のロケが行われたとのことですが、定かではありません。人が住んでいるのかいないのか、廃屋も多いこの通りを歩いていると、ふと屋敷の中から竹刀の音が聞こえて来るような錯覚を覚えます。
 竜馬は北辰一刀流(ほくしんいっとうりゅう)の使い手で、江戸の桃井道場では免許皆伝の腕前だったそうですが、実際に強かったのか、慶応3年11月15日には、京都四条大橋の近くの河原町の隠れ家であっけなく暗殺されてしまいました。
 刺客が襖を蹴破って侵入したときには、そこには正眼に構えた一寸の隙もない竜馬の剣が光っていた、、、、と言うのが剣豪竜馬のイメージですが、現実にはそうも行かなかったのでしょう。あれから150年経った町並は昔のままの風情を讃えて、夏の日に光っていました。

[旧・築屋敷町の風景]
旧・築屋敷町の風景

2009年06月28日

史跡探訪1

 梅雨の中休みの晴れた日、竜馬(りょうま)ゆかりの地を訪ねました。
 その最初が高知市上町2丁目にある「竜馬(りょうま)記念館」でした。私の家から直線で100mくらいの距離にあります。しかし私はまだ一度も入ったことがありません。余りにも近くですから、いつでも見られる、という安易さのためでしょう。中は竜馬の生い立ちや、その活躍の様子が分かりやすく展示されています。建物は日本風で屋根瓦には、其の裏に竜馬を敬愛する有志が自分の名前を書いて寄付をした、という話が残っています。
 この記念館から竜馬の生まれた家まで、徒歩で2分足らずの目と鼻の先にあります。次はそこを訪ねて見ましょう。
 写真は旧、水道町2丁目の竜馬記念館です。

[竜馬記念館の写真]

2009年06月10日

黎明の鐘の音

 大高坂城(高知城)の三の丸には長い事眠り続けている鐘があります。正午を告げる大砲が引退した後、この鐘が朝夕の6時を告げる”時報”として永い事、市民に親しまれて来ました。当時は人口18万の小さな市街でしたから、当時の静寂な大気の中を、町の隅々まで響き、市民の心にホッとした慰安と明日への希望をを与えました。朝の鐘の音は、「さあ、これから仕事に出よう」と言う励ましの力強い鐘であり、夕べの鐘は、一日の仕事を終えた人へのねぎらいのやさしい鐘の音でもありました。
 1950年の12月だったと思います。其の頃自宅に近い工場の廃墟の屋根で観測していた私は、快晴の星月夜の下、収穫こそ無かったものの、美しい明け方の空を捜索できた、という満足感に浸っていました。たとえ発見が無くともコメットハンターとしての、最も充実した嬉しい時間なのです。少しずつ黎明の光が射し、やがて薄いピンク色の夜明けの活動が始まろうとする時、一つ二つと消え行く星影に別れを惜しむかのごとく、午前6時を告げるお城の鐘が響き始めました。その美しい鐘の音は市内一円に響くと共に、静寂な私の心の隅々まで染み渡り、この上ない慰安を与えてくれたのです。深い夜からやがて活気を取り戻す一瞬の隙間に響く高知城の鐘の音は今でも私の耳の中に残っています。
 鐘にそっと触ってみました。この鐘には60年以上の歴史がありました。黒ずんだ真鍮の冷たさに1950年ごろの苦闘した頃の夜中の寒さをふと思い出しました。そう、あの頃は寒さとの戦いが大変だった。それから収穫の無い10年間が過ぎたのでした。そして11年の歳月の流れた1961年10月、初めて発見した彗星が、この天守閣の上に輝いたのでした。観測の後にいつも聞いていた鐘の音は、この時にはもうありませんでした。発見の感動のあとに、あの鐘を聞きたかった....。
 二の丸まで降りたところで、1人の老人に会いました。老人は頭上の高い梢を見上げながら、「今年は、このはずく(・・・・・)の姿が見えませんね」と呟くように言いました。そういえば、昔は夜が深まると、梟の鳴き声が、盛んに鼓打つように聞こえていた。それは朝夕の鐘の音と共に2km離れた私の家まで聞こえていました。今は町も喧騒を極め、昔のように、かすかな梟の鳴き声に耳を欹てるような風情は無くなってしまいました。


三の丸の鐘

2009年06月09日

高知城の日時計(お昼のドン)

 土佐24万石の最後の殿様、山内容堂公は多少天界に興味があったものと想像されます。山内家の蔵にはドイツのシュナイダー社製の天体望遠鏡も発見されました。また多くの渾天儀(こんてんぎ)は江戸時代の天文学者川谷薊山(かわたにけいざん)の作ったものと推定されます。お城の本丸のある庭には江戸時代の日時計が備え付けてあります。これは日時計というより一種の正午計で、子午線に沿って張られた針金の影が下の石に彫られた南北の溝と一致するとき正午と見たのです。
 この正午を合図にお城のある三の丸では大砲を一発ぶっぱなしていました。その音は市内一円に響き渡り、私たちは「お昼のドン」といって親しんでいました。この作業は昭和15年(1940年)ごろまで続けられました。昭和16年、太平洋戦が勃発すると、この野砲は軍に調達されました。そしてそれに変わる、実に優雅な音が午前6時と、午後6時に市民の耳に伝わることとなったのです。


日時計

2009年04月05日

地球33番地

 ここ高知市のほぼ中央を流れる江ノ口川の下流に近い弥生町に「地球33番地」という珍しい名所があります。
 これは東経と北緯がすべて33で交わる交点で、その正確な場所は川幅が30mほどの狭い流れの中にあります。ここに記念碑が建ったのは30年ほど前ですが、比較的最近、新しく地球儀の形をしたジュラルミン製の新しい記念碑が浮かび上がりました。
 1965年に「池谷・関彗星」を発見した頃に、この近くに或る新聞社の記者が住んでいました。彼は、事あるたびに取材にやってきていい文を書いてくれましたが、面白いことに自分の名刺に"地球33番地の近傍"と書いていました。なぜなら、この辺の町は、実にごちゃごちゃとした、分かりにくいところで、”地球33番地”の方がよほど分かりやすかったのでしょう。
 一度、彼の家を訪ねた時、間違って一つ南の通りの同じ場所に行きました。ところが、その家の庭に立派な赤道儀の天体望遠鏡が2台並んで座っていました。無論知らない家ですが、世間には人知れず、天体の観測をやっている方も居るものですね。無論私も最初の星「クロムメリン彗星」を発見した頃には、私は誰も知らないずぶの素人で、中央からの発見のニュースで知った高知新聞の報道副部長が、夜っぴて散々探し回って、私の家を探し当てました。そして、翌日の朝刊にニュースがやっと間に合ったそうです。
 そのような思い出を辿りながら、ポケットからスパイカメラのガミ16を出して撮影しました。エサミター25mm、f1.9レンズの描写はどうでしょうか。遠景の細かいディテールが見事に描き出されました。


地球33番地の記念碑
ガミ16で写す

 私の愛機Gami 16は、ミラノのガリレオ社の社長"ガリレオ・ガリレイ"氏に修理を依頼しなくても、まだまだ完全に動いているようです。


ミラノのガリレオ社の作ったスパイカメラのガミ16

2009年04月02日

荒城の月ファンタジー

 天文台に行く車の中で、FM第一放送を聞いていたら、ある日本の有名なソプラノ歌手が、日本古来の名曲「荒城の月」を独唱していました。久しぶりに聞くピアノ伴奏の素朴なこの曲はいいですね。本当に日本人の魂が通い、心の安住の地を得たたような気がしました。
 この土井・滝、名コンビの名作が、日本の音楽の教科書から消えるとき、それを惜しんで、私はある星に"Koujounotsuki"と命名して国際的に認可されました。作曲した滝廉太郎は若くしてこの世を去りましたが、詩人の土井晩翠は永く生きて多くの詩を残しました。
 荒城の月のモデルになった古城は、仙台の「青葉城」とか、九州の「岡城」とか言われていますが、私に言わせると、これはもしかしたら「大高坂城」即ち今の「高知城」ではなかったか?との淡い疑問を持っています。なぜなら晩翠の夫人は高知市の方で、晩翠は時々高知にやってきて、講演したり、また、山内容堂公の居城だった「高知城」を訪れたこたがあると想像されるからです。月の明るい晩に古城のほとりを歩いていたら、あの名詩に書かれている情景がそのまま再現されます。特に三の丸に近い、北側の石垣の径を歩いていたら、薙刀を持った武士が月光に影絵となって歩いて来るような錯覚も覚えます。そして月で明るい夜空に鳴き行く雁の群れ....。
 そうです、私の通っていた、旧制中学校はこの土井晩翠の作詞でした。

 ♪ 筆山吸江近くにありて
    明朗我らが環境うれし
     至誠を奉じて不断の励み
      学業報国我らが理想 ♪....。

 この歌詞は戦時中に作られたのですね。

 その大高坂城は今が桜の真っ盛りです。午前中のひと時、歩いてお城に上がってみました。見事です。花を見ていたら、県外からの観光客と思われる中年の女性から、
「坂本竜馬記念館はどちらに行ったらよいでしょう?」
と尋ねられました。
「私もそちらの方にかえりますから、途中までご一緒しましょう。」
と言って、案内することにしました。実は、1回も行ったことのないこの記念館は私の家から歩いて2~3分のところにあるのです。
 電車通りを歩いていたら、折りよく竜馬の生家の前に来ました。子供の頃は、ここが空き家になっていて、よくガキ大将らとほたえ(・・・)て遊びました。恐れ多くも坂本先生の生まれた家は戦前には子供の遊び場になっていたのです。目的の記念館はここから歩いてほんの200m。ここで観光客と別れて、家路に急ぎました。
 久しぶりの澄んだ青空に、道路脇の並木の桜が、早くも散り始めていました。


高知城と桜

2007年10月18日

私も映画好きでした

 軌道計算家の村岡健治さんは大の映画好きですが、実は私も嘗て映画好きでした。特に1950年前後の映画は良く見にいきました。
 私が1960年代になって彗星を発見する前の時代です。
 印象に残っている映画として、1949年ごろ作られたアメリカ映画の「第三の男」です。敗戦直後の晩秋の廃墟のウイーンの町をバックにしてのモノクロ映画の良さは忘れられません。そしてアントン・カラーのチターの名演も印象的でした。
 日本映画では私が中学のとき見た1947年作の「地獄の顔」。そして黒澤明監督の「野良犬」や「酔いどれ天使」も最近になってビデオで再び見るチャンスがありました。
 1942年ごろの大映の映画で第五列の恐怖を取り扱った映画で、山本智之監督の「あなたは狙われている」というのがありました。水島道太郎や月形龍之介らの主演したものですが、当時の太平洋戦争を背景にして、これほどスリルとサスペンスに満ちた作品は珍しかったように思います。私は当時小学生でしたが、恐ろしい場面では見るに絶えず思わず椅子の下に隠れたほどです。いい映画の出だしは素晴らしいものですが、この映画も関東地区のある田舎の駅に大きいトランクを提げた男が深夜に降り立って駅前の田舎道を線路沿いに歩き出すシーンがいい。この男は一体なにものなのか?そして何処へ行くのか、と最初から期待とサスペンスの連続です。
 しかしこの映画はインターネットで調べても題名と配役の名が出てくるだけで全くわかりません。もしビデオやDVDなんかで今見ることができらば、こんな嬉しいことはないのですが、、、、。
 実は私の家も戦時中一種の軍事工場で、スパイの暗躍がありました。いずれHPに連載中の「ホーキ星と50年」に書くつもりですが全く映画と小説を地で行くような恐怖の物語です。(大きいトランクを持った怪しい男は私の工場にも来た、、、、、?)
 さて、もう一つ映画で皆様に教えていただきたいのがあります。これも1950年前後のアメリカ映画?ですが、北海を舞台にした捕鯨船?どうしの争いと男の友情を描いた白黒の映画ですが、最後に氷山に向かって突っ込んで自爆するシーンが印象に残っています。果たして、なんという題の映画だったのでしょうか。はなはだ頼りないですが、古い方なら多くの人がご覧になって憶えていらっしゃると思います。
 実は私のギターの生徒にAさんという大の映画好きの方がいて、まるで映画の字引のような方で、内外の映画に精通しており、レッスンの大方は映画の話になって終るのですが、この方は私より10年ほど若いので、上記のことをご存知ないのです。Aさんは黒澤明監督とラジオで対談をやったといいますから、高知県ではかなり有名な方のようです。

2007年09月24日

仲秋の名月が見えました

 いつも仲秋の明月がやってくる9月から10月初めごろはお天気がわるく、滅多に名月が見えた事はありません。晴れても”月にむら雲”と言った情景が多く、ゆったりと明月を楽しんだことはありません。
 月の名所桂浜も、私が20代の若い頃一度行ったきりで、その後足を運んだことがないのです。とにかく大勢の人と酒の匂いで、静かに明月を鑑賞する風情はありません。今夜の明月は珍しく晴れたので、自宅の庭で、鑑賞しました。月は南の低い屋根の上にあって、14夜ですか、少しまん丸から欠けた月でした。何時でしたか、仲秋明月と皆既月食が重なって、赤い月になったことがありましたが、夏の月は湿っぽい大気の影響か、やや赤く見えるようです。
 このとき奇妙なことが起こりました。狭い庭の木立による、錯落たる影を見ているとき、そこに一輪の美しい花が咲いているのを発見しました。「月下美人」です! 数日前小さな蕾が青い葉っぱから出ているのを発見していたのですが、まさかこんなに早く咲こうとは、、、、。しかも夜空の明月に向かって、まるで、ひそかにその美しい姿を見せるかのように、咲いたのです。7月に咲いたのも確か満月に近い13夜でした。そして今夜も14夜の月。月下美人はその名のとおり明月の夜を選らんで咲くに違いありません。そして、わずか数時間咲いただけでしぼんでしまうのです。ああ、なんと言う美しくも淋しい光景でしょう。昔、ある小学校に講演に行ったとき、後で生徒たちが植えた鉢を、お礼に持って来てくれたのですが、その花が今になって咲き始めたのです。もし、今度も明月の晩に咲いたとしたら、、、、。それは決して偶然ではありません。月下美人は夜半に訪れる明月に見られるために咲いているのです。

2007年07月17日

月下美人が咲きました

 暑い毎日です。今が最高の気温でしょうか。
 有名なタンゴの曲に「月下の蘭」というハープで演奏される曲がありましたが、かねてから蕾みをつけていた「月下美人」が今夜遅くついに咲きました。夜1回しか咲かないと言われている珍しい花で、昼間は蒼い蕾みでしたが、22時ごろから咲き始め24時には満開となりました。しかしわずか数時間の命で、夜明け前にはしぼんでいました。一体このような深夜に誰に見られるために咲くのでしょうか。夜は蝶も蜂も飛んできません。ただ南の低い空に13夜の月のみがこの光景を見ていました。月夜にしか咲かない花でしょうか。しかも1年にたった一晩だけ。
 世間にはよく人に知られた一流と言われる人がいます。美人もいます。しかし案外「葉隠れ」の人の知らない場所に優れた人や、ものがあるのではないか、とふと思いました。名誉や高名にこだわらず、一生を彗星の捜索にささげて、人知れず美しく生きて去って行った人がありました。月の美しい夜に咲いた月下美人の白い花びらを見ながらふと、そのようなことを思いました。

開花した月下美人と13夜の月

2006年12月15日

久し振りで梶ヶ森に上がりました

 標高1400mの梶ヶ森には山荘があって60cmの反射望遠鏡を備えた天文台があります。12月15日に、ここからNHK高知放送局による中継のテレビ番組があって出演しました。梶ヶ森には凡そ光害を知らない美しい星空と大自然があって、山頂近くには極めて清冽な地下水が豊富に湧き出ています。
 温かい日でしたが夜の山では摂氏1度以下に下がりました。この日は奇跡的に晴れ、物凄い星空が頭上に展開されました。それまでのお天気が余りにも悪かったので、観測は半ば諦めていたのですが、この日は朝から快晴で、東京の局から取り寄せてたという、超高感度テレビカメラが、余す事なく、冬の星空を捉えて家庭に送りました。あのスバルも、双眼鏡で見る程度に星がモニターに現れて驚きました。スリットの間から見る星空は漆黒にまるで研ぎ澄まされたようなバックに星が輝き、この空だったら60cmでも20等星が写るでしょう。牡牛座あたりがボーッと光っているのは黄道の灯りで、秋の明け方に見る黄道光と同じ性質の光とみました。そう言えば10年ほど前にしし座流星群の観測会があった時、夜半に天頂に見える対日照が夕方早くも東の低空に輝いていたことを思い出しました。対日照は冬の天の川の最も淡い輝きより更に何分の一か暗い光芒ですから、如何に梶ヶ森の空が暗いかが分るでしょう。この日はたまたま高知工科大の先生が来てテレスコープを操って居られました。
 私も近くだったら度々通いたいのですが、いかんせん片道2時間の行程と、今も狭い頂上への道が難関となっています。しかし天文台をもつ大豊町経営の宿舎の居心地はいいですね。それに夜明けの太陽と眼下の吉野川を蔽う雲海が見事です。
 私がこの山に初めて登ったのは20歳の頃でした。当時は車の道はなく、JRの豊永の駅で降りて、延々4時間も歩いて登りました。山の7合目に古いお寺があって宿泊して、あくる朝の3時から山頂を目指しました。同じ寺に時久さんという山田高等学校の先生親子が泊まられていて、一緒に登山しました。それから10年の時が流れて、私が最初の彗星を発見した時、時久さんは私のことを憶えていて、お祝いの手紙を送ってくださいました。山で会った人は忘れられないものです。

2006年11月27日

豆カメラと共に半世紀

 元ミノックスクラブの会長で、ミニチュアカメラの愛好家である金井 浩さんが小惑星に命名されました。(関勉の発見した小惑星一覧表参照)。金井さんは1915年東京生れの写真家で、既に星となっている「ミノックス」カメラの研究家です。若い頃、渋谷の駅で主人を待つ「名犬ハチ公」を度々見かけて頭を撫でたと言いますからその時代が感じられます。ミノックスカメラを中心に永い事写真を撮りつづけ、多くの傑作をものにされました。90歳を過ぎる今も現役で活躍されていることは素晴らしいことです。今年の5月、京都での撮影会でお目にかかり、同じ宿でお話を聞く機会があったことは光栄でした。
 さて私とミニチュアカメラの付き合いですが、戦前の小学生のころクラスメートの可愛い赤いがまぐちの中に入っている「ミゼット」を見たのが始まりでした。

当時のミゼットを思わす豆カメラのシャラン

 幅18mmくらいの裏紙のついたフィルムを使って12枚ほど撮影していましたが、シャッターは1/25とバルブしかなく、レンズも固定絞りの定点撮影でしたが、思ったよりは良く撮れていました。このころから豆カメラへの病み付きが始まったのですが、当時は太平洋戦争勃発の前夜で、カメラやフィルムの入手の大変難しい時代でした。その頃大映系の「あなたは狙われている」という、スパイ映画が上映され、その中で登場したスパイカメラのフィルムを苦心して入手するシーンが印象的でした。
 何とか豆カメラが欲しいほしいと思いながら、場末の闇市を見回っていると、古い兵隊靴の横に「グッチー」が置いてあるのを見つけ、母にねだって購入しました。今思えばこれほど嬉しかったことは他にありません。有頂天になって、母や、クラスメートの顔を写して周りました。お陰で貴重な二度と取れない写真を撮影しました。修学旅行で京都に行った時、坂本竜馬が遭難した、河原町の近江屋の取り壊される前の写真を撮りました。戦争が激しくなってから、ますますフィルムの入手が困難になりましたが、自宅の中庭に掘った防空壕の写真はこのグッチーで写したものが、悲惨な当時を語る唯一の資料となっています。

1945年春、中庭に掘られた防空壕

 そうです!この壕の上に、戦後になって星を観測するための櫓が出来たのです。かつて敵機に慄き空を見上げていた同じ場所で、平和な戦後今度は星を仰いで新しい彗星を発見する事となるのです。  いま私の手許にあるポンコツの豆カメラは、そのまま私の歴史でもありました。戦時中高い所から高知市街を撮影していて、特高(特別高等警察)にスパイと間違えられカメラを没収された事なぞ懐かしい思い出です。当時はスパイでなくても、高い場所からの俯瞰撮影が禁止されていたのです。

2006年08月14日

ポケットの中の蛇

 夏の甲子園の野球大会が始まり、そして8月15日の終戦の日が近づいてくると、暑いながらもどことなく秋の気配を感じるようになります。芸西村の天文台では季節を先取りして、早くもつくつくぼうしが鳴いています。草木は長い夏の倦怠からか力なく萎れ、秋風が幽かにそれを撫でています。
 天文台のメインの60cm反射望遠鏡は致命的な故障で7月から稼動しておらず、どうやらメーカーの「ゴトー」も匙を投げたようです。然し見学者は依然多く、暑い中、星の研究に熱気が溢れています。
 いま話題の小惑星「おるき」が近づいています。パソコンの上ではみずかめ座にあって19等。間もなく衝に来て明るくなろうとしています。このままでは恐らくキャッチすることが不可能で、予定されていた10月の「おるきを見る会」もおじやんになりそうです。

 さて夏の怪談シリーズの最終回ですが、前に述べた午前3時になるとドームの窓に映る”黒い影”の正体も結局分からないまま時が経ってしまいました。天文台の近くの古池にはかっぱ(河童)が住んでいるとか、昔、人が飛び込んで、その怨霊が徘徊するとか、聞いただけでもゾーッとする噂がありましたが、所詮それは現実味のない怪談に過ぎないと思います。かっぱの子孫がえんこうと言われ、土佐には昔、川に住んでいたそうです。大変泳ぎの上手な動物で、近くには「えんこう様」を祭った神社もあります。そして水泳のクラブに「えんこう会」と言うのがあって、実は私もそれに所属しています。釣りが好きだった高知県佐川町出身の推理作家「森下雨村」氏の最期の作品に「えんこう川に死す」というのがあり、えんこうは結構有名な存在です。20年余り前、天文台の入り口の近くに、得体の知れない動物の死骸がありましたが、もしかすると、これが”池の主”であったかも知れないと思っています。


京都市伏見区の酒蔵で見たかっぱの図

 さて最後に登場するはいとも珍奇なお話です。今からかれこれ10年にもなりましょうか、晩秋の丁度しし座流星群の見られる時期でした。例によって天文台にやって来た私は、60cm鏡で天体のパトロール撮影をやりながら、スリットの上に展開するしし座の流星をじっと数えていました。
 11月の中旬とはいえ、冬を思わす寒い晩で、私はドームの中の壁に掛けてあった1年越しの古いオーバコートを引っ掛け、ポケットに両手を入れて空を見ていたのです。流れ星を数えながら無意識に右の手でポケットの中の紐のようなものをモミモミしていたのです。「アッ 火球が飛んだ!!」と夢中になって尚もそのつるつるする感じの良い紐を揉んでいたのです。
 その”ひも”が何であったか、今思い出してもゾーッとします。 突然その紐はぬるぬると動いたのです!「紐なんか入れてなかったはずだ」と思って引き出してみると、私の右手にぶら下がったものは、何と冬眠中の1匹の蛇だったのです。突然のことで蛇も吃驚したでしょう、床に落ちた蛇は体を大きくくねらす様にして床の隅の方へと逃げて行きました。どうやらこれは体長50cmほどの青大将だったようで、もしまむしだったらと思うと、今思い出しても恐怖は去りません。

 天文台が雲って星が見られない晩には、星座のお話や、時々そのような怪談をしてお客さんに楽しんでもらっています。
 そうそう、矢野絢子(やの じゅんこ)さんの「おるきの歌」もCDで聞いてもらっています。

2006年08月10日

まだらの紐

 コナン・ドイルの作品の中に「まだらの紐」という怪奇小説があります。
 終戦直後の1946年頃この作品が海野十三(うんの じゅうざ)の訳による放送劇でNHKで数夜に渉って放送され、そのスリルとサスペンスは今でも私の体の中に沁み込んで離れません。何でも寝室のベッドの丁度顔の上に天井から紐がぶら下がっていて、これはどうやら隣の部屋と連絡するための引き紐だったようですが、夜中の3時になるとこの紐を伝って毒蛇が降りて来るという設定です。蛇に食われた人はこれをまさか蛇とは思わず「天井からまだらの紐が、、、、、」と言って息が絶えるという恐ろしい下りです。
 私もこれに似た経験を持ちます。
 天文台のある芸西村は昔から毒蛇の一種である「マムシ」の産地で、室戸岬に通ずるこの山脈にはたくさんのまむしが居ると恐れられています。そのくせこの20年間天文台附近では1回もまむしを見かけたことは有りませんが、しかし恐ろしい事件は1998年の夏から秋にかけて起りました。
 それは蒸し暑い8月の夏の晩の出来事です。いつもの通り天文台にやってきた私はドームのドアをあけて暗い室内に入りました。そうして60cm反射望遠鏡を操作しながら徹夜の観測を始めたのです。目標は夜半の南天の小惑星の探索です。南に少し傾いた鏡筒を操っている時、白いドームの天井に何か黒い影が映っていることに気付いていました。しかし別に気にするわけでも無く、その下で3時間にわたって作業を続けました。無論その間、何回かドームを回して天窓の位置を変えました。作業が一段落して、今度は彗星の観測に移る時、何気なく空を仰ぎました。その時見ました! 1匹の黒い大きな蛇が天井にぴったりとくっついて、頭を下の方に下げているではありませんか。「もし落ちてきたら、、、、」そのときの恐ろしさもさることながら、蛇の下で一晩中作業を続けたことにぞっとする戦慄を感じました。体長1メートル半にも達するこの黒い蛇は何と言う種類でしょうか? 蛇の目的は恐らく天井のスリットの隙間に巣を作っている雀を襲うのだったと思います。
 いつかのNHKの海外での洞窟を探検する番組で、蝙蝠が一匹も居ない洞窟があり、不思議に思って暫く中を調べている時、暗い洞穴の奥のほうからジリジリという得体の知れない足音?が近づいてきます。カメラマンの強烈なライトに浮かび上がったものは口を大きくあけ、今にも襲い掛かってこようとする赤いまだらの大蛇だったのです。 
 さて次回は、これも蛇にまつわる怪談ですが、世にも珍奇な事件です。今でも思い出すたびに背筋を寒いものが走ります。

2006年07月30日

黒い魔物

 今日は恒例の「夏の天文教室」がここ芸西村の天文台で行われました。暑い中40名近い参加者があり、つつがなく観測会が開かれました。特筆すべきは芸西で発見し高知新聞社が一般から星の名前を募集して決まった「おるき」の星の作詞作曲の試聴版が始めてここで音になってみんなに聞いてもらいました。いずれ8月にCDが高知新聞社の「おるき係り」から発売されるそうですが、今日集まった人たちは幸運にも一足先にこの音楽を聞くことが出来たわけです。
 そして同時に40年前キューバの人によって作曲され、まだ演奏されていなかった「Ikeya-Seki」の曲が披露されました。
 夜の観測では5日の月や木星が大変良く見えました。水がめ座の流星群もいくつか見られました。

 このように大勢集まってがやがややっているときには動物たちも恐れてなかなか出てこないようで、流石今夜は「森の主」の光る目玉もありません。観測会の晩にはいつも安心して作業が行えるのです。それにしても”闇に光る眼”の正体は何でしょうか? そして午前3時になると天文台の窓に映る黒い影の正体はなんだろうか?その疑問は長いこと解けず、恐怖は募るばかりでした。然しそれから間も無く午前3時の影は映らなくなり、日と共に月と共に黒い影のことは私の脳裡から忘れ去られようとしていましたある日のことです。

 訪れたその年の秋もようやく深まろうとしていた深夜のことでした。例によって私は60cm鏡を操作して小惑星の探索を行っていたのですが、突然深夜の静寂な空気を引き裂くような悲鳴が起こりました。どうやらそれはドームのすぐ上の例の”けものみち”附近で起こったようですが、得体の知れない動物のまるで断末魔の叫びのような物凄い声に「これはただ事ではない!」と私は咄嗟に怖い事も忘れて懐中電灯を片手で掴むとドアを開け、悲鳴のする方に一目散に駆け上がりました。それはまさしく”けものみち”の上でした。強力なライトに映し出された光景は、世にも信じられぬ恐ろしい光景でした。泣き叫ぶ動物の正体は1匹の子狸でした。最初は黒くて良く分らなかったのですが1頭の黒い大きな怪物が狸の腰のあたりにがっぷりと噛み付いているのです。なおも狸は盛んに悲鳴をあげつづけています。然し黒い怪物も流石突然やって来た第三者を見て恐れを抱いたでしょう。狸を食うのを諦めてずたずたと重い足取りでけものみちの奥のほうに消え去ったのです。
 「あの黒い動物は一体なんだったろう?」犬や猫の類ではない。鹿でも猪でも絶対にない....。しからば熊????ここまで考えて私は慄然としました。「天文台のある芸西の里に熊がでた。」そのような事はあろうはずもないのです。四国には高知県と徳島県の県境に近の深い山郷に確かに10頭くらいの「つきのわ熊」が居る事は確認されています。その一頭がえさを求めて麓まで降りてきたのでしょうか?つきのわ熊で無ければアナグマだったのでしょうか。もっともこの30年間に熊らしきものを見たことは他にありませんが、日本カモシカ(3~4頭の群れ)や狐、猪なんかは時々見かけています。然し夢かまぼろしか、あの黒いいかにも獰猛そうな熊そっくりの動物はあの時が最初でした。私が「森の主」と呼んでいた目の光る動物はこれだったのでしょうか。あの日から10年の歳月が流れましたが、疑問は日とともに月と共に深まるばかりです。

 さて話は飛びますが、かれこれ30年も昔のことでしょうか。お隣の徳島県祖谷(いや)の山中で野良仕事をしていた1人の男が妙なものを見ました。祖谷村は昔、平家の落人がここに隠れて生活したという大変に山深い場所で、今でも平家の子孫らしいみやびやかな人(女性)に出会ってはっとするときがあります。
 それは高さが8mほどの木の梢に着物の黒い帯びのようなものが引っかかっていて、不思議に思ったきこりは暫く眺めていました。ところが次の瞬間、その黒いまだらの帯はスルスルと動き出したと言うのです。なんとそれは長さが5メートルを越すような大蛇だったのです。「うやー、ヘビがでた!」と男は一目散に山を駆け下りました。
 この目撃談は当時の「高知新聞」にも発表されました。どうやら錦へびのようです。村に帰って男は、その事を報告しましたが「まさか四国に大蛇がいるはずは無い、それは何かの錯覚でしよう」と言ってなかなか信用してもらえなかったそうです。しかし昔そのような大蛇を見たと言う人も居て、村の人たちはその後その真実を立証しようと、それから山に作業に出る時は必ずカメラを持って仕事をしたそうです。然しその事件も、その後杳として噂は立ち消えてしまいました。

 祖谷村の大蛇も芸西村の熊もこのまま永久に姿を消してしまうのでしょうか。

 さて次は身の毛もよだつような天文台での蛇の怪談「まだらの紐」です。

2006年07月24日

闇に光る目

 むかし「午前3時のブルース」という曲がありましたが、午前3時に決まって天文台のドアに映る黒い影の正体とは一体何者でしょうか?この黒い影の正体を暴く前に、私はこの天文台の置かれた環境について少々お話しなくてはなりますまい。
 天文台はここ芸西村和食(わじき)の標高120mの小山の上にあります。天文台から南2kmに蒼茫たる太平洋が望めます。天文台から東はすぐ谷になっており、いまは人の通らなくなった”けものみち”が谷底の底なし沼に通じているのです。この古い沼から何者かが這い上がって来るのではないか、という恐怖をいつも感じていました。
 ある晩のことです。夜遅く天文台にやって来た私は、普段とは違う道を選んで天文台のすぐ北側の頂上の広場に車を停めました。ここからは山道を上がるのと違って、楽にドームまで到着するのです。車から降りると昼間なら海の見える南側の斜面をほんの20mも降りるとドームに辿り着くのです。その時、幅1m余りの例の”けものみち”を渡るのですが沼に降りるその道は途中鬱蒼とした樹木に覆われています。


怪物の目が光ったけものみち
谷底の池に通じている

 50mほどの先に深い森が見えているのですが、懐中電灯を照らすと2つの蒼い目玉が浮かんだのです。森の中には何か得体の知れない動物が居る。それをわたしは「森の主」と呼んでいるのですが、その強力なライトの光を浴びて光る目玉は、犬や猫にしては大きいのです。天文台に通うわたしはいつも何者かに見られているような恐怖を感じていました。
 それから数時間経って観測が終わり、同じ道を通って車に帰るとき、もう一度同じ場所から森の中を照らしてみました。然しその2つの光る目玉は無くなっていました。明らかに移動したのです。この光るものは地上の物体ではない、明らかに動物のものです。いつかその森の主に会うことがあるかも知れない。と思いながら、それからかれこれ1年ほど経った秋の初めごろの出来事で御座いました。

2006年07月11日

天文台の怪談

 夏になると怪談がはびこります。夏祭りや見世物等の催しに行くと昔は大概”お化け屋敷”というのがあって、子供の頃にはこわごわ入ったものですが、今はそのようなものは殆ど見られなくなりました。小学生の頃の夏、学校で合宿して肝試しという授業?がありました。深夜宿直の部屋から二人一組になって、懐中電灯を持って一階と二階の廊下を一回りして帰ってくるという催しです。無論要所要所に仕掛けがしてあって、先生が幽霊になって出没するのですが、何も出ない長い廊下が却って怖かったりして、いまでもあの時の戦慄を思い出します。
 芸西の天文台も一種の肝試しの場所です。山の一番上の駐車場のところから暗く、ドームまでの50mほどの山道が怖いのです。右手は谷で、底の方からケダモノの鳴き声がします。左手は鬱蒼とした林です。そこに墓場の白い墓石が無いだけでも助かっています。ドームの中に隠れるとホッとするのですが、暗闇のドームのなかで観測をしていても外の様子が気になります。時々足音がして得たいの知れない鳴き声が響きます。あたりは死んだような静寂ですが、よく耳を澄ますと谷の底の人工の池に滴り落ちる水の音がチロチロと聞こえます。昔ここに人が飛び込んだとか、、、、。


天文台の下の底なし池
天文台の怪談はここから発生する

 ところが午前3時になるときまって妙な変化が起こります。ドームの入り口のドアは不透明のガラスで外の深夜の空気がボーッと幽かに写って光っているのですが、怖いものですから、観測中も私は何度もその白い光るガラス戸に注意するのです。何者かの影が映るのではないか、と言う恐怖です。そしたら、決まって午前3時になると黒い影が映るのです。それはまるで小さなクリスマスツリーのような頭の尖った形をした黒い影で、何十秒かでスーと消えて行くのです。(一体この時刻に何者だろう?)私は怖いので決してドアをあけません。やがて長い夜が終わり黎明の白い光にドームが包まれ始めた頃、密かにドームを抜け出して急ぎ足に山を下ります。車のなかに入りドアをピシャと閉めてから初めてホッとした安堵に支配されます。
 天文台はこうした一種の肝試しの場所でもあるのですが、それからとんでもない恐怖が襲ってきたのは間もなくのことでした。私はそれを決して現実のものとは思いたくない。全く信じられぬ出来事でした。 その黒い影は人ではない、、、!???