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2008年12月28日

第二池谷・関彗星の思い出(1)

"イケヤ・セキ彗星"が二つあったことについて、ご存知ない方が多いと思います。実は二つ目の池谷・関彗星(C/1968 Y1)は、1968年12月28日の朝、発見されました。それも発見の時刻差は5分でした!
 このことを思うとき、いかに二人が熱心に夜空を見詰め、何か変化があると、二人の視野は一斉にそれに飛びついていく、と言うような、実に激しく、また過酷な観測生活を送っていたように思います。
 当日は物凄い寒波の襲ってきた早暁でした。位置は夜明け前の東南の低空で、明るさは10等星だったように記憶しています。静岡県浜名湖畔の池谷さんは15cmの反射鏡で、また高知市の私はニコンの12cm 20xの双眼望遠鏡でした。
 この彗星は私に、その後の一つの指針を示してくれた彗星としても忘れることができません。すなわち、それまでの私は、コメットシーカー一本を携えて、新発見に望みましたが、この彗星をきっかけとして、反射鏡による写真観測を始め、また位置の測定を始める出発点ともなったのです。
 当時は、設備に恵まれないアマチュアにとって、彗星や、小惑星の位置の精密測定を行うことは大変な作業で、たしか1969年に、初めて彗星の精密測定を行って、スミソニアンに報告したら、吃驚したマースデン博士が、国立天文台の今は亡き冨田弘一郎氏に『Sekiはどのような方法で、彗星の精測をやっているのか?』と、問い合わせて来たほどでした。当時はプロの観測者でも、位置観測をやっている天文台は片手の指で数えるしかなくて、彗星の観測者が重宝がられていたのです。従ってアマチュアが彗星の精密位置観測をやるなんて言う事は全くの想像外のことだったのです。
 アメリカではフラグスタフの海軍天文台(リーマー女史)、ヤーキスのバンビースブルグ氏、チェコ(現スロバキア)のスカルナテ・プレソ天文台、日本の東京天文台と花山天文台等が主力でした。
 当時は、位置の測定をやると言っても、第一、精密な恒星のカタログがアマには入手できません。また乾板やフィルムの位置を測定するコンパレーターも一般には入手しにくく、当時唯一の市売品として、島津製作所のキャビネ対応の乾板測定器が、1970年ごろの定価でなんと50万円もするという厄介者で、"親のすねかじり"的な存在だった当事の私には、到底買えるような代物ではなかったのです。
 そんな時、私が思いついて実行した方法と言うのが、全く奇想天外なもので、実はいままで密かに自分の胸に仕舞い込んでありました。しかしそれは、今の芸西の彗星観測の、実に重要な出発点となったのです。
(続く)