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● 5月30日 2つの大彗星が同時に夜空を飾るはずの5月でしたが、ニ−ト彗星は北天に6等星として、尾の定かでない小さな姿をさらし、一方リニア彗星の方はと見れば、南の空に低く望遠鏡的な9等星(予報では2〜3等星)としてやっとレンズに映ると言うなんとも情けない結果となってしまいました。多くの人が彗星の光度の予報がいかに難しいものであるかを知らされたと思います。南半球はともかく、北でこれらの彗星が幽かながらも肉眼で見えた期間は極めて短い間だったと思います。何年も前から噂されるものにロクなモノがあったためしがない。やはり大彗星と言うものは予告なしに突然出現するもののようです。 今日は気晴らしに高知城下の日曜市見物ブラリと行きました。前の日記にテントの中の屋台で珍しいものを見つけたことを報告しましたが、この写真のテントからはそれは消えていました。その珍しい品物とは習字の墨すり器のことでした。つまり鋳物製でローラーを回転させる事によって速やかに墨をすろうという訳です。もっとも、今は書道の世界では常識的に使われている物です。しかし問題は1950年と言う大変古い時代にこれを発明し特許を取ろうとした人の事です。それは一体何者なのか。当時は墨をすると言う事も書道を学ぶ人の修行の一つのように考えられ、一般に受け入れられませんでした。その古い鋳物の道具に私は見覚えがありました。 これを作った人は一体何者なのか?時代は半世紀もさかのぼって、"町の発明家"と言われた驚くべき人に再び登場してもらわなくてわなりますまい。 |
ε160で撮ったニート彗星(C/2001 Q4) 2004年5月24日 20時42分から10分間露出 ISO 800 ネガカラーフィルム 日曜市の古道具売場にて 2004年5月30日 |
● 5月23日 池 幸ーさんの母校である土佐市高岡町の高等小学校の古い校誌を見ていましたら、下のような驚くべき隕石落下の記録を発見しました。 【3月4日】 即ち明治28年3月4日のこと 午前10時半頃火球あり。東南より西北に飛ぶときに中天に紅青黄を帯びたる彩雲あり後、約5分時にして轟然天地も崩れんばかりの巨響2回あり。恰も大砲を連発したるかの如く、その振動の強烈なること。恰も大砲を連発したるかの如く、その振動強烈なる事譬えるものなく、人は大地震 なりとて屋外に飛びだす者多く、当校も折りしも試験中なりしも非常の騒ぎなりき。当日の現象につきては諸説紛々として、或るいは火薬庫の爆発と言い、或いは榴弾の破裂成りといい、一時大いに喧しかりしが全く隕石の現象なりしと言う。 【3月16日】 当校第84証書受與式を挙行す卆業者男児盛岡好馬外12名、女児千頭曽乃外6名なりき。 明治28年とは日清戦争の行われた年です。私の祖父(母の父)も当時高岡に住んでいて、幼少の頃この隕石落下現象に遭っているはずです。祖父は人魂の目撃談や世にも珍しい土佐での蜃気楼を見た話なんか実に面白くかたってくれましたが、遂にイン石については聞くチャンスはありませんでした。祖父(丑郎・うしろう)の鬼気迫るような土佐の怪談はまた何かのついでにお話しいたしましょう。 それにしてもあの隕石はいったい何処に落ちたのでしょう。土佐市から西北に飛んで落下したとすれば、その延長線上にかのカンナラシ池があります。大規模な隕石の現象だけにふと連想を誘いたくなりますが、はやりこれは夢物語りでしょうか。 美しい山の峰に今も池は何かを訴えているようです。 |
● 5月22日 いつの日か四国の中央山地を通っていた時、瓶が森山に近い西黒森山の中腹でクレーターらしき小さな穴を発見しました。もっともこれは地元では神鳴し池(かんならしいけ)と呼び、昔から知られる池で、水を満々とたたえたものでした。私は見た瞬間、隕石によるクレーターではないかと直感しました。池の傍には立て札があって、 『大昔、突然大音響と共に池ができ、後に伝説の石らしきものが池の中から発見された。』 とあります。なにか池にまつわる昔話があったものと思われます。後日芸西天文台の岡村さんと、このカンナラシ池を探検したことがあります。ただしその時には隕石らしきものは発見できませんでした。 いったい伝説の石とは何処へいったのでしょうか? 後日いなかの小学校の校誌から驚くべき記録を発見したのです。 |
神鳴し池(かんならしいけ) |
● 5月21日 梅雨を思わすような雨天曇天が続きます。 小惑星(フクちゃん)について、地元紙のほか朝日新聞、毎日新聞、それに共同通信が取材にきました。マスコミには正しいことが伝わらない事があって、いつもヒヤヒヤして記事を読んでいます。 6月23日頃からポン−ウィンネケ流星群があります。 今から6年前の大出現を思い出します。あの時はまったくの奇跡の遭遇でした。6月30日といえば、輪抜け様のお祭りがあり、土佐では必ず雨が降るという言い伝えの日。珍しくも快晴に恵まれ、降るような流星を見たのです。私の長い天文生活の中にいくつかの忘れられない絵があるのですが、これも最も印象に残る絵の一つでした。 |
● 5月3日 春爛漫の5月3日、一家で北川村(高知県安芸郡)のモネの庭を見物しました。フランス風な見事な庭園とのことですが、珍しいたくさんの花とごったがえす人、ひと、人,,,,にはおどろかされました。 この山深い場所が、実はあの明治維新の立役者のひとり、中岡慎太郎の生まれ故郷でもあったのです。わらぶきの貧しい家は周囲を高い険しい山に囲まれて、慎太郎の少年時代の厳しさが思われました。慎太郎は高い山を越えて、毎日塾に通っていたそうです。 京都の近江屋で竜馬と共に凶刃に倒れた中岡は当時33歳。陸援隊長として活躍し、前途を期待されていただけに大変惜しい死でした。慎太郎の少年時代を過ごした貧しい座敷にしばらく座って昔を偲びました。 |
中岡慎太郎生家にて 2004年5月3日 |
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