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2010年04月24日

毎日新聞に連載を始めました

 高知支局、千脇記者の取り計らいで、4月から向う1年間、毎週水曜日に星の連載を始めました。写真は4月1日に発行された毎日新聞の高知版で、連載第1回目が2ページにわたって掲載されています。題は「星を見つめて」で、私が講演会で良く使うタイトルです。


毎日新聞2010年4月1日高知版

 物語は当然実話に基づいたストーリですが、新聞の読者が対象ですから、できるだけ面白く読ませることに力を入れました。そのため多少現実とのズレを生じるかも知れません。
 私が小学生の頃、同じ毎日新聞の「大毎小学生新聞」で読んだ海野十三(うんのじゅうざ)氏のSF小説「火星兵団」の興奮が忘れられず、今は60年も昔になったこの小説のことを多く取り上げました。そして、いまTVで人気の竜馬の話も度々登場します。海野が描いた火星人の姿はいずれ登場しますが、それとそっくりな人(宇宙人?)に先年天文台の山で会ったような気がしました。これから50回続く連載にどうかご期待下さい。
 なおこの連載は毎日新聞社高知支局のウェッブサイトの中の星を見つめてのコーナーでも見られる様になるはずです。また連載第1回はこのホームページの「星空の宴」にてすでに発表しました。


海野十三の描いた火星人
昭和15年大毎小学生新聞より転載

2010年04月10日

岡田以蔵の墓

 私の親戚(妻の祖先)の墓地は高知市の東北に位置する薊野(あぞうの)という所にあります。昔から、この近くに幕末の志士で「人斬り以蔵」と言われた岡田以蔵(いぞう)の墓がある、と聞いていましたが、鬱蒼とした山の中の墓地のことで発見することが出来ませんでした。
 ところが「竜馬伝」に代表されるような坂本竜馬のブームで、観光客が多い関係か、最近、そうした史跡が整備されるようになって、分りやすくなりました。なんと以蔵の墓は、いつもお参りする祖先の墓のすぐ近くにあったのです!意外な発見でした。それも「土佐史談会」が道しるべを整備してくれたお陰で気が付いたのです。
 古く黒ずんだ墓石には確かに「岡田宣振(よしふる)」の墓、とあります。宣振とは、以蔵の本名です。沢山の花が飾られ、年中お参りの人が絶えないのは、如何に以蔵が多くの人に慕われていたかが伺われます。あたりは猪でも出そうな鬱蒼とした深い竹やぶの中ですが、木の間に遠く市街の見える南側の谷はいま満開の桜で一杯でした。


岡田宣振の墓

 岡田以蔵は武市半平太(たけちはんぺいた)の指揮する土佐勤皇党の中でも切っての剣の使い手でした。のち江戸に出て鏡新明智流(きょうしんめいちりゅう)の免許皆伝を取るほどの腕前で、彼の振り回した長刀は今でも土佐に残っています。文久2年に「土佐勤皇党」の活動が始まると「佐幕派」の暗殺に参加するようになり、その荒切りは、「人斬り以蔵」の名を欲しいままにしました。しかし病魔(肺結核)に犯される身となり、ついに井上佐一郎殺害の罪で役人に捕まり仲間と共に斬首、以蔵だけが曝し首になりました。享年僅か27歳。新撰組の若き剣士で病死した沖田総司(おきたそうじ)を思わすものがあります。以蔵は暫らく京にいましたが、新撰組と刃を交える事はありませんでした。
 彼を育てた土佐勤皇党の首領、武市半平太も捕まって投獄、切腹と言う末路を辿りますが、古い映画に出てくる月形半平太の名はこの人がモデルだそうです。
 いまNHKでのドラマに出てくるこれらの人々は史実に基づいた小説ですから、必ずしも真の姿を捉えているとは言えないでしょう。まして以蔵がどんな人間だったか?その人柄については分りません。戦乱の時代を生き延びて、のち豪商人となった岩崎弥太郎のことも分かりません。弥太郎の生家は芸西天文台に近い安芸市にあります。いま見物の人で大混雑とか。
 以蔵の墓にお参りし、墓地を下りる時には、あいにくの小雨となりました。
 「春雨じゃ濡れて行こう」とは誰のせりふだったのかな?



2010年04月05日

上町の桜満開

 私の住んでいる高知市の上町は今が桜の満開をむかえています。ここは旧、築屋敷町と言って鏡川に隣接する静かな住宅街です。この堤防には100本ほどの桜の木があって、高知市では最も遅い花を咲かせます。
 竜馬が少年のころ剣道の修行に通っていた道場はこの写真のあたりに在ったと想像されます。見えている立派な石垣の家は山崎さんといって、むかし土佐女子中学の先生をしていました。私が10年余り前に犬を連れて散歩していたとき、この家の主人に良く会っていました。
 1948年ごろだったと思います。明方の空に「マックガン彗星」という明るい肉眼星が出現したとき、素早く見つけてラジオで解説していました。翌日の朝刊にも出ましたが、実によく観察してコマや核の様子、其れに尾の長さもチャンと角度で表現して報告していました。そのころ私はまだ駆け出しでその大彗星は見ることが出来ませんでした。
 それから13年経って「関彗星 1961 R1」を発見したとき、この山崎さんから手紙が届き、昔の彗星のことが語られていました。「一度望遠鏡を見せていただきたい」と綴っていましたが、結局そのチャンスはありませんでした。一度も会って語る機会がありませんでした。
 家は閑散として人の気配は在りません。この住宅街は年々過疎が進んでいます。ようやく散り始めた花びらの落ちる音が聞こえそうな静寂に包まれていました。




2010年04月04日

ぶら上町

 いま高知市では”であい博”が催されており、NHK TVの「竜馬伝」の人気もあって、多くの観光客が訪れています。特に私の住んでいる上町(かみまち)地区は、竜馬誕生の地のあることから、案内人の付いた”ぶら上町”の団体が目を引きます。上町には竜馬に関連する施設として生誕の地、の他に竜馬の祖先が商売をやっていた「才谷屋(さいたにや)」の跡とか、竜馬が少年の時に通った剣術の道場のあった「築屋敷(つきやしき)町」とか、最近出来た「竜馬資料館」なんかがあり、いずれも私の家から歩いて5分以内の場所です。「竜馬郵便局」もありますが、これは最初に局が電車通りの、竜馬生誕地のすぐ隣に出来た関係で命名された局で、とくに謂れはありません。入り口に竜馬の銅像が待ち受けています。私の通っていた第四小学校も生誕地の近くにあって、校長室には有名な竜馬の肖像画があります。非常に大きな有名な画家による絵で、昔は講堂の高い壁に掲げてありました。私たちは、何かの時には、ここに集合して、校長のお話しを聞いたり、映画を見たりしました。そんな時竜馬がいつも私たちを見下ろしていました。幼い頃から「竜馬」とは日本に夜明けをもたらした偉い人だ、という認識が備わっていたのです。第四小学校は120年の歴史があり、ここから多くの偉人が育って行ったと聞きます。