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2009年06月28日

史跡探訪1

 梅雨の中休みの晴れた日、竜馬(りょうま)ゆかりの地を訪ねました。
 その最初が高知市上町2丁目にある「竜馬(りょうま)記念館」でした。私の家から直線で100mくらいの距離にあります。しかし私はまだ一度も入ったことがありません。余りにも近くですから、いつでも見られる、という安易さのためでしょう。中は竜馬の生い立ちや、その活躍の様子が分かりやすく展示されています。建物は日本風で屋根瓦には、其の裏に竜馬を敬愛する有志が自分の名前を書いて寄付をした、という話が残っています。
 この記念館から竜馬の生まれた家まで、徒歩で2分足らずの目と鼻の先にあります。次はそこを訪ねて見ましょう。
 写真は旧、水道町2丁目の竜馬記念館です。

[竜馬記念館の写真]

2009年06月25日

古戦場の夏

 晴れ間の多い梅雨の一日、「池谷・関彗星」思い出の場所を訪ねました。遠くに見える山は、高知市の横内から見た鴻ノ森(こうのもり)です。
 1965年10月22日、近日点を通過した直後の彗星を、前日の蟠蛇の森(ばんだのもり)に次いで観測した場所です。観測はマスコミを通じて一般に公開し、多くの市民が参加しての観測合戦を展開したのです。
 ”古戦場”とはそう言う意味での題目ですが、実は、この山は、実際の古戦場でもあったのです。戦国時代ここに城を構えて立てこもった軍勢は長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか)に攻められ、あっけなく落城したのです。こうして遠くから眺めても、お城のあった頃の二の丸、三の丸の跡がはっきりと残されています。
 さて肝心の彗星観測の成果ですが、彗星が近日点を通過して、17時間後に須崎市の蟠蛇の森での観測の成功に続いて、その24時間後には、ここでもその健在な彗星の姿を見ることに成功したのでした。
「おーい、見えたぞーっ」という歓声は天地に木霊(こだま)しました。
 其の頃、常に陣頭に立って指揮していたのは、世にも奇怪な”天文冒険家”の池幸一(いけ こういち)氏でした。彼は彗星が太陽に異常に接近中は、常に誰よりも熱心に見張りました。そして奇妙な”池式投影ボックス”まで作って、特殊な方法で太陽の側の彗星を観測したのです。彼は彗星の発見こそ無かったのですが、常に”縁の下の力持ち”的な存在として、世に貢献したのでした。
 (懐かしき池氏は一体いま何処にあるのだろうか?)。


遠くに見える山が鴻ノ森

2009年06月23日

梅雨本番です

 2日ほど雨が続いてまた晴れ間です。午前中は見事な快晴に恵まれました。
 鏡川のほとりの散歩コースを歩いてみました。小惑星(4256)として星になっている川です。左下の岩場は子供の頃「赤石」と呼んで親しんでいた場所で、坂本竜馬も幼い頃この辺で泳いだであろうと言われています。私が第四小学校に通っている頃には、学校にプールが無くて、体育の時間には、よくこの川に通って泳ぎました。跳ねと跳ねとの静かな流れのところでは、競泳もやっていました。其の頃は今と違って上流にダムも無く、水流は豊かで、川底も深かったようです。水はすくって飲めるほどに清冽で冷たかったようです。そして中学の時には、高知市がB-29による大空襲にあって、燃える我が家を後にして逃れたのも、この鏡川でした。幼い頃から親しんできたこの川の水の美しさが永遠ならんことを願って、星に命名しました。
 今日の鏡川は若葉青葉を映して、とても綺麗に見えました。


鏡川

2009年06月10日

黎明の鐘の音

 大高坂城(高知城)の三の丸には長い事眠り続けている鐘があります。正午を告げる大砲が引退した後、この鐘が朝夕の6時を告げる”時報”として永い事、市民に親しまれて来ました。当時は人口18万の小さな市街でしたから、当時の静寂な大気の中を、町の隅々まで響き、市民の心にホッとした慰安と明日への希望をを与えました。朝の鐘の音は、「さあ、これから仕事に出よう」と言う励ましの力強い鐘であり、夕べの鐘は、一日の仕事を終えた人へのねぎらいのやさしい鐘の音でもありました。
 1950年の12月だったと思います。其の頃自宅に近い工場の廃墟の屋根で観測していた私は、快晴の星月夜の下、収穫こそ無かったものの、美しい明け方の空を捜索できた、という満足感に浸っていました。たとえ発見が無くともコメットハンターとしての、最も充実した嬉しい時間なのです。少しずつ黎明の光が射し、やがて薄いピンク色の夜明けの活動が始まろうとする時、一つ二つと消え行く星影に別れを惜しむかのごとく、午前6時を告げるお城の鐘が響き始めました。その美しい鐘の音は市内一円に響くと共に、静寂な私の心の隅々まで染み渡り、この上ない慰安を与えてくれたのです。深い夜からやがて活気を取り戻す一瞬の隙間に響く高知城の鐘の音は今でも私の耳の中に残っています。
 鐘にそっと触ってみました。この鐘には60年以上の歴史がありました。黒ずんだ真鍮の冷たさに1950年ごろの苦闘した頃の夜中の寒さをふと思い出しました。そう、あの頃は寒さとの戦いが大変だった。それから収穫の無い10年間が過ぎたのでした。そして11年の歳月の流れた1961年10月、初めて発見した彗星が、この天守閣の上に輝いたのでした。観測の後にいつも聞いていた鐘の音は、この時にはもうありませんでした。発見の感動のあとに、あの鐘を聞きたかった....。
 二の丸まで降りたところで、1人の老人に会いました。老人は頭上の高い梢を見上げながら、「今年は、このはずく(・・・・・)の姿が見えませんね」と呟くように言いました。そういえば、昔は夜が深まると、梟の鳴き声が、盛んに鼓打つように聞こえていた。それは朝夕の鐘の音と共に2km離れた私の家まで聞こえていました。今は町も喧騒を極め、昔のように、かすかな梟の鳴き声に耳を欹てるような風情は無くなってしまいました。


三の丸の鐘

2009年06月09日

高知城の日時計(お昼のドン)

 土佐24万石の最後の殿様、山内容堂公は多少天界に興味があったものと想像されます。山内家の蔵にはドイツのシュナイダー社製の天体望遠鏡も発見されました。また多くの渾天儀(こんてんぎ)は江戸時代の天文学者川谷薊山(かわたにけいざん)の作ったものと推定されます。お城の本丸のある庭には江戸時代の日時計が備え付けてあります。これは日時計というより一種の正午計で、子午線に沿って張られた針金の影が下の石に彫られた南北の溝と一致するとき正午と見たのです。
 この正午を合図にお城のある三の丸では大砲を一発ぶっぱなしていました。その音は市内一円に響き渡り、私たちは「お昼のドン」といって親しんでいました。この作業は昭和15年(1940年)ごろまで続けられました。昭和16年、太平洋戦が勃発すると、この野砲は軍に調達されました。そしてそれに変わる、実に優雅な音が午前6時と、午後6時に市民の耳に伝わることとなったのです。


日時計

2009年06月08日

小惑星「大高坂城」が誕生しました

 写真は大高坂城(おおたかさかじょう)です。
 これは今の高知城のことで、今から約400年前の築城時には「大高坂城」と呼ばれていました。
 今回、芸西で発見された1993 BL2と言う小惑星に(26127)Otakasakajyoと命名されることになりました。
 初代の城主は山内一豊公で、土佐24万石のシンボルとして、今日まで市民に親しまれてきました。観光客も多く1987年には中央局のB.G.マースデン博士もここを訪れました。すぐ近くの城下町には有名な坂本竜馬の生まれた場所もあります。


大高坂城