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2008年10月21日

池谷・関彗星の曲

 今年の10月21日も朝から見事な快晴に恵まれました。
 今から、ちょうど43年前の今日、「池谷・関彗星」が太陽のコロナの中に突入したのです。あの時も今日のような、雲一点も見当たらない快晴でした。空には何か白い粉のようなものが、盛んに浮遊していました。そして、今日と違っていたのは、朝から私の自宅の観測所にたくさんのマスコミが押し寄せてごった返していたことでした。
 摂氏100万度もあろうと言う太陽コロナの中を彗星が通過する。誰しも今日が、池谷・関彗星の終焉の日と見込んで、半ば興味と不安を持って九天を仰いでいたのです。一足早いハワイからは彗星がバラバラになって、砕け散るのを目撃したと言うし、本家の日本でも、乗鞍岳のコロナ観測所では、早朝からコロナグラフで、太陽接近中の同彗星を捉えていたものの、午後1時15分、遂に彗星はコロナの中で、蒸発消滅した、との観測発表が行われ、私たちに大いなるショックを与えたのです。そのとき、彗星の光度は満月よりも明るいマイナス12等と発表されましたが、それは、最後を見届けた倉敷天文台の本田実氏の観測でした。
 それから一週間程たって、池谷・関彗星は、明け方の空に意外な姿となって現れてくるのですが、実はその健在な姿をあたかも予言するかのように、彗星の姿を音楽で表現した人がいました。それは、日本からはるかに遠く離れた南半球の人で、彼は太陽に突入していく彗星の姿を見て、即興的に「イケヤ・セキ」と言う曲を作曲したのです。この彗星は南半球で特によく見えて、途上国では「世界のおわりか!?」と騒いだようです。そして、ネパールのカトマンズでは時の国王も参列して、真面目な”厄除け祭”を、行ったことがNHK1のテレビで放映されました。キューバのホセ・カレーヨさんも、おそらくそのような気持ちで、半ば慄きながら、白昼の空に舞う彗星の姿を曲に残したに違いありません。
「イケヤ・セキ」の曲は、間もなく私の元に送られてきましたが、これは完全なプロの手になる作品で、おたまじゃくしの配列は力強く華麗に宇宙を舞う彗星の姿を見事に捉えていました。カレヨさんも私と同じように、彗星の健在を信じていたのでしょうか?
 時は移って、あの日から40年、「イケヤ・セキ」の曲は実際に演奏されることはありませんでした。ホセ・M・カレヨさんとは一体どのような方であろうか、そしてどのような思いをこめて、この曲を作曲したのであろうか。ややもすると、この事件は謎のまま永遠に消え去ろうとしていたのです。
 そのようなときに一つの朗報がもたらされました。あるテレビ局の番組で、タレントの”ポストマン”が、はるばるとキューバーまで、ホセ・カレヨ氏をたずねていくことになったのです。果たして40年の歳月を経て今なお作曲家として現地で健在なのか、ポストマンは、当時のイケヤ・セキ彗星の写真と、私のメッセージを提げて旅立ったのです。メッセージの中には、「イケヤ・セキ」作曲者として、彼の名を星に命名したこともしたためてあります。「どうか私のメセージが無事彼の元に届きますように、、」と、祈るような気持ちです。
 彗星が音楽になったことは、おそらく前代未聞のことでしょう。願わくばホセ・カレヨさんの楽団によってこの曲が演奏され、それを聞く機会が与えられますように、、、、。私は南国キューバの美しい星空の下で、その曲が演奏されている光景を夢に見ています。
 ”走れポストマン”彼はいま何処にあるのだろうか。

ポストマンの中村氏(向かって右)と共に

2008年10月11日

私がチャンスを掴んだ日

 1961年10月11日、午前5時、高知市の空には雲一つない快晴の下、秋の星が燦然と輝いていました。
 人口25万の町の空は、静寂そのもので、わずかに地平線上には白い薄明が忍び寄ろうとしていました。
 そのとき、私はただ無心にレンズの中を横に流れていく無数の星星をみつめていました。確かに何も考えていなかった。地上わずかに10度。かなり白くなった薄明を押し返すように私は捜索を続けていたのです。
 このときチャンスが訪れたのです。尖鋭な星の像とともに、研ぎ澄まされたような私の心に白いほんのりとした彗星が映ったのです。それまで、ただ暗黒の水面下を蠢いていた私の人生の転機の瞬間でした。明るい光の輝く水面上に躍り出た瞬間でした。人生は訪れるチャンスによって変わる、まことに奇なものです。私が、その光芒を見た途端に「彗星!」と判断したのは、長い捜索の訓練によって、その星座「しし座のβ星の近く」には彗星と間違うような天体はないことを重々知っていたかなのです。新彗星「C/1961 T1」は7等級で、十分明るかったのですが、コマがわずかに2′と小さく、良好な光学系でないと、結構見逃してしまいそうな小天体でした。そうです、微光星と識別できないのです。
 私に一つの転換期を与えてくれた彗星は、800年ほどの周期で太陽系の果てまで旅立ちました。発見から47年経った今年の同じ日、私は芸西村の施設のなかで、やはりコメットシーカーを操りながら、あの時と同じしし座を見つめていました。無論彗星は見えませんでした。しかし、あの日から半世紀もの間、好きな星を見つめてこられたという充実感が、コメットシーカーを覗く私の心を埋めていました。
 あのときの9cmのコメットシーカーは、今も時々星を見せてくれます。しかし実戦から引退したものの、時々、私の講演会についていって演壇に座って、私の話を盛り上げる役目を演じてくれます。レンズはあのときの彗星の姿と、感激を忘れないのです。


9cmコメットシーカー