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2007年04月29日

明るい人工衛星

 今日は芸西天文台の公開の日で大庭(おおば)講師とともに25名ほどの参加者を対象に観測会を開きました。あいにく満月に近い月明がありましたが、気流がよく安定して金星や土星等の惑星が美しく見られました。
 19時25分でした、明るい人工衛星が西北の空に現れて丁度頭上を通過し東南東の室戸岬の方に飛んで行きました。明るさはなんと木星くらい(マイナス2等)、オレンジ色で飛行機特有の明滅はありません。またこの方向に飛ぶ旅客機はありません。爆音も聞かれませんので、恐らく大気圏内に接近してきた人工衛星だと思います。人工天体は1959年ごろから見てきたのですが落下寸前の衛星以外にはこのような明るいものは見た事がありませんでした。
 21時に観測会が終了して、西空のC/2007 E1マックノート彗星を観測しました。15等星くらいに落ちていました。

2007年04月18日

早くも夏の天の川

 春4月中旬とはいえ、異常に寒い一日でした。梶が森天文台のある大豊町の山は完全な雪景色となったようです。
 このような日は星も冴え夏の天の川が恐ろしいばかりに地上に迫り、暗いおとめ座付近にはかすかに対日照も見える位でした。
 60cm反射望遠鏡による一連の位置観測を終えて朝の1時間を捜索しました。途中入ってきたマックホルツ1彗星は8.5等星でコマは2.5分角、かすかに尾が放出されているように見えました。
 アンドロメダ座のM31も久々の対面でしたが、空の透明度が高いので驚くほどの大きさでした。この日はナビゲータの面倒な設定をやりましたので、薄明の低空でも安心して捜索できました。


夏の天の川
4月19日3時撮影 ISO400フィルム 30分露出
24mm F3.5 レンズ

2007年04月08日

彗星会議を終えて

 彗星会議は2日間の日程を無事に終えて4月8日の夜帰宅しました。天文に熱心な人ばかりの集まった良い会だったと思います。私の講演は拙いものでしたが、特にいま”リニア計画”によるプロの掃天によって、アマチュアの捜索者が脅威を感じていることについて2つの実例を示し、眼視観測も熱心に続けていれば必ずチャンスがやってくることを強調しました。
 2つの例とは最近発見された眼視的彗星のレビー彗星(C/2006 T1)とマックホルツ彗星のことです。これらの彗星が発見されるまでの約1年半前からの位置推算表を示し、太陽と彗星の位置関係から、これらがプロの捜索の目を掠めてうまくコメットハンターの目に止まったことを説明しました。そして眼視発見の可能性は、確かにプロの捜索が始まってから三分の一程度に減少したと考える。しかしリニア計画が実行され始めた約10年ほど前から眼視発見は着実に続いており、それほどペースは落ちていないこと。アマはプロと違って毎年必ず成果を挙げていかなくてはならないという制約はなく、一生に1つでも2つでも良い、宇宙に自分の名の付く彗星が輝けば素晴らしいとの思いから始めた人が多く、そのようなチャンスは今後いくらでもあることを強調しました。
 昔、リニア計画の発表を知っただけで「アマの世界は終わった」と敗北して行った人がいますが、やめてしまえば折角の努力も水泡に帰し業績も忘れられてしまいます。生涯研究を続けてこそ、その人の業績は永遠に輝くのです。
 講演が終わったあと、国立天文台の福島英雄先生から、沖縄の石垣島天文台の望遠鏡「ムリカブシ」の小惑星への命名に関しての記念の額を戴いたのは光栄でした。
 帰りの乗り物の中では、多くの人の温かい心に触れたことが八海山の美しい雪山の風景と重なっていつまでも私の心に残っていました。


彗星会議の記念写真
立看板の真下に主催者の村上茂樹氏、その左に関勉

2007年04月07日

彗星会議が開かれました

 4月7日から8日にかけて新潟県の八海山セミナーハウスで開催され成功裡に終わりました。
 国立天文台の学者やほかの研究機関の学者、学究、アマチュア天文家など一同に会しての会議はまことに有意義であり、彗星天文学の発展に大いに寄与したと確信しています。今回の主催者である村上茂樹氏を始めとする地元の方々の貢献も大きく、また熱心な参加者の影での支援もあって、つつがなくそして楽しく開くことが出来ました。
 懐かしい昔の発見者も居られ、また高知市で第二回目の会議のとき出席され、私の家にも来られたと言う高尾明さんを始め何人かの方と、実に35年ぶりにお会いできて感無量でした。昔、彗星の捜索を始められた方が今もって現役で観測研究を続けられている姿に頭が下がる思いでした。多くの人と記念写真を撮りました。そして懐かしい昔の本にサインをしました。研究発表は彗星の物理関係が多かったのですが、普段聞くことの出来ない先生方の貴重な講義を聞くことができました。
 7日の夜は少し晴れて、同会場に設置された60cm鏡を覗くことができました。北にすぐ八海山の雪山が聳える標高500mの場所で空の条件はかなり良いと見ました。
 彗星会議はこうした研究もさることながら、普段滅多に会うことの出来ない人との楽しい会合の場であることにも大いなる意義を感じました。
 次回は木下さんらの担当で広島県で開催されます。


研究発表の会場風景

2007年04月06日

白秋の歌った砂山の海に立って

 彗星会議が新潟県であって、その前日の4月6日に新潟市にやってきました。実は新潟市の海岸(奇居の浜)に北原白秋の「砂山」の記念碑が在るということで、それを見たかったのです。
 「砂山」は私が小学4年生のとき、受け持ちの岡本啓先生が教えてくれた歌でした。音楽の時間に「今日は先生の一番好きな歌を教えてあげましょう。私が独りで寂しいとき、いつも歌っております。」と前置きしてピアノを弾きながら歌って下さいました。

 海は荒海むこうは佐渡よ
  すずめ鳴けなけもう日が暮れた
   みんな呼べよべお星さまでたぞ

 「砂山」という題ですが、なんと素朴で美しい歌でしょうか。白秋が若いころ新潟市の師範学校に講演を依頼されてやってきたとき、見た海岸の風景を詩にしたものです。
 岡本先生は昆虫の専門家で、学科の理科の時間には大自然の中で昆虫の新種を求めて研究する楽しさを余すことなく私たち学童にお話して下さいました。私が自然に興味を持つようになり、遂には星が好きになったのも、この岡本先生のお陰であると確信しています。それが私の幼少期の大きな出会いでした。科学や音楽に秀でさては体育も得意な岡本先生は私たち学童の憧れの的でした。
 しかし学園での平和な生活は長くは続きませんでした。折から日中戦争の最中で、まもなく太平洋戦争が起ころうとする時期、先生は応召して戦火の中国大陸に渡っていかれたのです。沢山の学童や関係者に見送られながら校門を抜け消えて行った先生の後ろ姿はあれから半世紀以上経った今も私の眼底に焼き付いています。不出来だった私を励まし、夢を与えて下さった岡本先生は、永遠に消息を絶ったのでした。
 その先生の愛した「砂山」の作詞の元となった海を見たかったのです。白秋の見た海は晴れていたのか、曇っていたのか。歌詞に歌われた「ぐみ原」や砂山の面影はまったくなく、開発された無骨な防波堤に荒波が何事もなかったように打ち寄せ遥か遠くに佐渡の山がかすかに煙っていました。
 「ああ岡本先生!」
 私は海に向かって心の中で力強く叫びました。あたりにはいつの間にか蒼然たる夕闇が迫り、打ち寄せる潮騒の音のみがいつまでも響きわたっていました。


「砂山」の碑の前に立ちて