« 2008年06月 | メイン | 2008年10月 »

2008年08月31日

小惑星第一号が発見されました

 芸西天文学習館の新70cm反射望遠鏡が完成し、村岡、下元、関による「プロジエクト芸西」が発足してから、最初の成果とも言える小惑星2008 QV3が誕生しました。これは8月24日に70cmでパトロール中に見つかった微光の小惑星で、翌25日にも観測し、中野主一氏によって概略の軌道が計算されセンターに通報されました。芸西にとっては、実に十数年ぶりの成果で、これを支えたのは、下元さん、村岡さん等の努力によるものです。新小惑星は19等より明るいものは少なく、やはり口径70cmが有効に働いたといえます。
 この頃沖縄の石垣島天文台でも新小惑星が見つかったそうで、昨年夏、石垣島に講演に行って、南の島が地理的に夏場での発見に有利なお話をしたことが、或いは発見に貢献できたかもしれない、と独り勝手なことを思ったりしました。
 いずれにしても、新天体は今後永く追跡観測されて、ナンバーをもらい、また命名という夢が拡がってきました。


2008年08月21日

ムルコス彗星の思い出

 昔、お盆は私たちの高知市では旧暦で行っていました。丁度いまごろかもっと遅い時期でしたが、仏様を迎えたり、或いは見送ったりする日は、夜になると各家の門前で火を炊いて、お盆の行事を行っていたのです。その小さな松ノ木による火が消える頃には夜も更けて、そろそろ秋風を感じていたのでした。
 その懐かしいお盆の火の燃えていた頃の思い出です。
 近所の人たちが、門前の道路に「涼み台」をだして、夜な夜な夜の更けるのも忘れ、片手にうちわを持って、世間話に興じていたとき、あるお年寄りが突然、西の空に”ホウキボシ”を見つけて騒ぎになりました。彼らの話によると、正しく道路に沿った西の中天に長さ2尺ばかりの尾を引いた彗星を発見した、と言うのです。ホウキボシはまるで人魂のように青く輝き、夜が更けるまで消えなかった、と言います。涼み台の上での話は、当時の政治の話や、社会でのできごと、生活の不満。さては怪談から星の話になって終わるのが常でしたが、その晩はたまたまホウキボシが出ていて、世間話に一興を添えることとなったわけです。
 そのホウキボシというのが、その年(1957年)の8月初めに発見されたムルコス彗星(C/1957 P1)だったわけです。
 この明け方の空に突然肉眼彗星として君臨した「ムルコス彗星」はその後、暫くして西の空に悠々と見え始めたのですが、実はこの彗星を世界最初に発見した人は、当時横浜市に住んでおられた、倉賀野さんという方だったそうです。1957年の7月下旬、氏は富士山の八合目で日の出を待つ間に、薄明の空にうっすらと尾を引く同彗星を肉眼で発見され、後日東京天文台に報告されました。発見者を知る方々の間では、この彗星は暫くの間、「クラガノ彗星」という愛称で親しまれたそうです。1948年の「日食彗星」が、最初発見者のアメリカの飛行士の名前を取って「マックガン彗星」というニックネームで呼ばれたことを思い出します。

2008年08月15日

ペルセウス群の火球を見ました

 8月も中旬を迎えましたが、まだ夏たけなわです。
 11日から、ペルセウス座流星群に注目していましたが、ピークは何時だったのでしょうか、それほど顕著な出現に接するこたは出来ませんでした。
 8月14日の遅くから観測を始めて、翌15日の午前3時30分ごろ、北天にマイナス6等級の火球を目撃しました。わずか0.7秒ほどでしたが、あたりが明るくなるほどでした。
 思えば私が初めて彗星の捜索を始めた1950年8月13日の朝、物凄い同群の火球を目撃しました。まるで半月が現れた感じで、自分の影が地面にくっきりと映りました。まともに見ていたらさぞかし壮観だったでしょう。南天に魚のうろこ状の痕が、しばらくの間、克明に残り、異様な感じでした。これからの彗星捜索の前途の、波乱のようなものを予感しましたが、確かにそれから10年余、波乱と紆余曲折に富んだ捜索生活が始まったのでした。
 さて北の天の川は銀の砂をまいたように輝き、アンドロメダの銀河も肉眼でありありと眺められます。地上は夏でも天界はもう秋たけなわのような感じです。
 午前4時前にはまだ8月というのに秋の黄道光がほんのりと東天を細長く白く染めていました。神秘的な光芒は、まだ芸西の空に健在です。

ペルセウス座群の火球
2008年8月15日 3時30分
Nikon FM 28mm F2.8  Plest film