2014年06月03日

彗星を見つける眼

 6月2日(UT)は「本田・ベルナスコニー彗星」C/1948 L1の発見された日です。
 当時、広島県瀬戸村に住んでいた本田実氏は、南方から復員後、間もなくの1947年11月15日、「本田彗星」C/1947 V1を発見し、続いて翌年の6月、今度は夏の空に矢次早に明るい彗星を発見したのでした。
 6月3日の朝、15cm反射望遠鏡で、一通りの捜索を終え後はじっくりと明けてくる東北の明るい空を肉眼で見つめているとき、突然ペルセウス座の中に幽かに尾を引いて朦朧と輝く彗星様の天体を発見したのでした。4等星と報告されています。
 今の空だったら、恐らく肉眼での発見は困難だったでしょう。当時は終戦から僅かに3年。私の住む高知市でも、一番明るい「はりまや橋」付近でも人口20万の灯火は暗く、アンドロメダの大銀河が肉眼で観察されたほどでした。まして本田さんの住む瀬戸村水越の山奥は、どんな星空だったのか、想像できるような気がします。
 本田さんは「木辺鏡」に心酔していた方で15cm F6.3の鏡に五藤製のケルナー40mmアイピースを使用していました。有効最低倍率の24倍です。視野は僅かに1.5°。その数々の彗星を発見したアイピースは訳あって、いま私が所有しています。本田さんは1950年になって倉敷市に移住して、ここでは口径10cmの双眼望遠鏡を使用するようになりました。アイピースは、第一の弟子だった私に譲渡されたという次第です。
 40mmアイピースを覗き込んでいるとき、彗星を発見した時の本田さんの感興が蘇るような気がします。本田さんはこのアイピースを特殊な”彗星を見つける眼”で覗き込んでいたのです。本田さんから伝授された”特殊な眼”についてはいつか講演のとき披露したいと思っています。そう、そのアイピースと特殊な眼はその後の「Comet Seki 1961 T1」を生んだのです。


C/1948 L1(Honda-Bernasconi)
1948年6月10日
スカルナテ・プレソ天文台撮影(提供)

2012年07月18日

早くも暁天に黄道光

 久し振りに暁天の捜索を行いました。
 夜明け前の午前3時、木星を中央に抱えた「おうし座」が昇ってきました。
 懐かしい星座です。1964年7月上旬、このヒアデス星団の中に「池谷彗星C/1964 N1」が発見されたことを思い出しました。7等星で短い尾を曳いていました。
 あのころ私は9cm 17xのコメットシーカーで捜索していました。いまは15cm 25xの双眼鏡を使って捜索しています。地平線に水平に動かしながら進みました。恒星はシャープに良く見えました。
 いまコメットハンターに残された道は、太陽のあちら側から逆行の軌道を辿って、突然明けの低空に現れてくる彗星を発見することです。眼視観測者の発見は、過去このようなケースでの発見が多いのです。私の最初の発見(1961年10月のC/1961 T1 = 1961 f)もそのような典型で、発見時に彗星は近日点の通過中でした。地平高度は薄明時で15度。

 無事捜索を終えて晴れ晴れしい気持ちで、明けて行く星空を肉眼で見る気分は格別です。過去、収穫の無い夜、如何にこのような多くの日時を費やしたことか。いま東に昇るおうし座は、早くも秋の黄道光の光芒に包まれていました。


すばる・木星・ヒアデス星団

2012年01月29日

P/2003 HT15 (LINEAR)の回帰を検出しました

 今回芸西チームによってP/2003 HT15という初めて回帰する周期彗星が検出されました。芸西の天文台としては1994年5月6日の「ブルックス第2彗星」以来実に18年振りのことです。これは新70cm反射鏡で10分露出を14枚も撮影した下元(しももと)さんと、その観測結果から軌道計算し、なお的確に判断してスミソニアンに報告した佐藤裕久さんの努力の結晶です。
 いまは世界的に望遠鏡が大型化し、70cmクラスの中口径で暗い星を検出することは困難となっています。望遠鏡の多くの欠陥を努力でカバーしていくというアマチュア精神が実って今回の結果を招来しました。

[P/2003 HT15 (LINEAR)の検出画像]
P/2003 HT15 (LINEAR)の検出画像

2011年10月11日

彗星発見の条件

 毎年秋がやって来て10月11日が訪れると俄かに緊張で体が引き締まる思いです。生まれて初めて彗星を発見したのが今日だったからです。良いお天気でした。一日中茫然として青空を眺め、夢のような気持でした。
 しかしあれから丁度50年、なんと半世紀になります!
 「いま世界中で誰も知らない星が、この頭上に輝いているのだ。発見は本物だろうか?」と半信半疑の体で、心は渦巻き夢のような気持で一日を過ごしたのでした。
 夜明け前の4時50分でした。しし座のベータ星の近くに視野が差し掛かったとき、突然7等級の朦朧とした光体がよぎりました。既に薄明が始まっていました。
「光度は7等、視直径は僅かに2'、彗星独特の尾はなし。非常に小さな球状星団の様です」。
 口径僅かに88mm、15xのコメットシーカーですから、眼が鋭くないと見逃してしまいます。現に時を同じくして、私の高知市から西に15km、土佐市に住む池幸一(いけ こういち)氏が、私の譲った10cm25xの反射望遠鏡で同じしし座を捜索していましたが、見事に見逃していました。
 この微弱な彗星の発見を可能にしたのは88mmの対物レンズの性能でした。滋賀県の苗村敬夫(なむら たかお)氏の手磨きになるレンズは、抜群の切れ味で、その後このような優秀な対物レンズにお眼にかかったことはありません。これが苗村氏の記念すべき第一作と言うから驚きです。苗村さんは最近その努力が実って『現代の名工』に選ばれました。
 彗星の発見は星像の尖鋭なことが何より大切です。シャープな星影は細かな彗星像を検出するばかりか、覗く人の心までシャープにして、捜索に熱中さすのです。この時の私の成功はこの小さなレンズのお陰だと思っています。
 私にとって記念すべき第一の発見は、その後彗星の地球への急接近と言うことになり、日頃研鑽した軌道決定の腕の見せ所となったのです。「発見した彗星の軌道計算を自分でやってみたい」というのが私の夢でもありました。

2009年09月19日

クロイツ族彗星の思い出

 毎年9月の中旬が訪れるとクロイツ族の彗星がやってくる時期だ、と強く意識します。彗星界に一つの嵐を巻き起こしたこのグループの彗星は大犬座の東の天空からやってきたのでした。
 今朝は格別それを意識して捜索したのではありませんが、15cm双眼鏡の視界はいつの間にか夜明け前の東南の天空に向いていたのです。1965年9月19日朝の発見は、大犬座のアルファ星とベーター星の東への延長方向と、ふたご座の同じくアルファ星とベーター星の東への延長線との交点に正しく現れたのです。つまり毎年9月19日にはこのグループの彗星は、必ずここから出てくるのです。フランスのリゴレ博士が日本でのたった1回の発見位置の電報を見ただけで、この彗星がクロイツ族のものであって、この年の10月21日に近日点を通過する事まで予言し、ピタリと当たったのはお見事でしたが、それにはそのような理由があったのです。そしてスミソニアンからの報道は彗星が20世紀最大の明るさになることまで早々と予測して、マスコミに流したのでした。
 捜索しながら、空は1965年当時の高知市の空の方が、今の芸西よりはるかに良かったことを痛感していました。あの日は台風通過直後でもあり、下弦の月があったとは言え非常にクリヤーでした。光度が8等級とは言っても、当時の88mm屈折では限界の明るさでした。いまもし、あのときの彗星が現れても、この15cmで発見できるだろうか?との疑問を抱えながらの捜索となりました。
 捜索は午前3時半から4時半までの1時間でしたが、空が完璧ではなく夜明け前には月と金星が並んで輝き、黄道光も射して9等星の発見が著しく困難と思われました。
 昔発見した88mmの屈折のピントは素晴らしく良かったのですが、15cmの双眼鏡のピントも断然明るくて気持ちの良い視野です。今回はナビゲーターを取り付けての掃天となりましたが、電池の消耗がやや速いのと、四角い形の小型電池のリード線が切れやすく(ハンダ付けが取れる)万全ではありません。予備を持っていないと慌てることになります。しかし薄明の、星のない空で、位置の分かるのは最高の効果です。昔、倉敷の本田さんは、相当に明るくなった明けの白い空まで熱心に捜索していました。まだナビゲーターの無い時代で経緯台の泣き所を非常な観測者の努力と経験でカバーしました。熟練とは尊いものです。その熟練と経験は常に観測している人間にのみ備わっているのです。


「1965年11月3日付けで南アフリカの新聞スター紙に
掲載されたヨハネスブルグ市上空のイケヤ・セキ彗星」
彗星は南半球が最も良く見えた。

2009年02月10日

関・ラインズ彗星の思い出(2)

 彗星を発見しても、当時はすべてがスローでした。今のようにインターネットが発達しているわけではなく、FAXもなし。彗星の発見は、すべて至急電報で報告されたのです。
 家は貧乏な「ナメクジ長屋」です。電話も引いてなくて、事あるたびに自転車で、電報局に走りました。従って東京天文台から発見者の私に連絡するのに苦労したことが察せられます。
 発見から1週間が経って変化が起こりました。良く分からなかったのですが、先輩の本田実さんからの葉書によると、”関・ラインズ彗星”が明るくなることが報じられたのです。それと前後して天文台に入った国際天文学連合の葉書回報(IAUC)にカニンガム氏の軌道要素が報じられ、この彗星の近日点の通過は同年の4月1日、そのときの太陽中心からの距離(日心距離)が、なんと0.03天文単位となっており、この太陽に異常に接近することが、大彗星になる可能性を秘めていたのです。
 今回の発見について日本天文研究会の神田茂氏は「アマチュアとしては珍しい太陽から遠い空での発見」と言われました。大体コメットハンターの発見は、太陽の界隈に多いのですが、今回は太陽から180度近い、しかも南天マイナス40度での発見で、東京天文台の冨田氏や、OAAの長谷川一郎氏から、そのような位置を捜索した動機について盛んに聞かれました。その動機については前回の日記で語った通りです。
 この彗星の発見についてのエピソードを、もう一つ。この頃から土佐市高岡町(高知市から西に20km)に古くから住むという、池幸一氏なる奇怪な人物が登場してきたのです。彼は古くから天文に興味があり、1940年頃(大戦が始まる少し前)に出た”岡林・本田彗星”や翌年の「カニンガム彗星」を実際に観測したというから古い。今、この記事を読んでいる人で、それを見た人は恐らく皆無でしょう。私は小学3年生のとき、「小国民新聞」でカニンガム彗星が夕空で大彗星となる、という記事を読んだ記憶があり、池さんによると、それは秋11月の夕、わし座に尾を引いて悠々と見えていた、と言います。当時この新聞に連載していた海野十三(うんのじゅうざ)氏の科学空想小説「火星兵団」にも、この彗星のことが取り上げられて、私が彗星に興味を持つ動機となったのです。思えば、小学校の庭で大空を眺め、宇宙に興味を抱いていた少年が、成人したのち彗星を発見して憧れのカニンガム氏に軌道を計算してもらったとは....。人生とは誠に奇のものであり、また挿話の多いものであると思います。その奇なものの一つに「火星兵団」を書いた海野十三氏の生家を訪ねたことがあります。
 彼は主に東京で推理小説を書いたのですが、そのSF小説の走りとなった火星兵団は、生まれ故郷の徳島市の実家で、その構想を練った小説らしいのです。10年余り前のこと、私はこの海野氏の家を訪ね、その書斎の机に座ったことがあります。6畳の日本間で、周囲の襖に描かれた古い何かしら寂しい絵が、小説のなかで、地球からのロケットが火星に到着したとき、初めて眼にした四方の索漠とした風景に似ているように思いました。そうです、当時の小説には名士の挿絵があって、更に興味をそそったのです。
 月面に第一歩を記したはずの宇宙探検の一行が、灼熱の月面の大地に初めて見たのは、缶詰の空き缶であった、という発想は推理作家ならではの着想であり、次のストーリへの更なるサスペンスを誘います。
 1965年の”池谷・関彗星”は、太陽に0.006天文単位と接近しました。「関・ラインズ彗星」は言わばその前哨戦ともなったのでした。

2009年02月04日

関・ライインズ彗星の思い出(1)

 2月4日は立春です。いつもこの日が訪れると物干し台で発見した関・ラインズ彗星のことを思いだします。
 深夜、天文台の近くまでやってきて、お天気がはっきりしないので、下の農道で待機していました。南には少し晴れ間があって大犬からとも座あたりの星が見え隠れしていました。そこにとも座の2等星ゼータが異常に明るく輝いていました。1962年2月4日の発見劇は、この星の近くで火蓋が切られたのでした。


 「彗星の発見は無欲でなくてはならない」という言葉を度々聞きます。正に、その典型的な例が、この「関・ラインズ彗星」の発見であったと言っても良いと思います。そして彗星を発見するためのレンズは、光学的に、最高の品でなくてはならない、とは我々の大先輩の本田実氏の言葉です。当時私が使用していた口径87mm F7の屈折鏡は名手苗村氏の手になる会心作で、相性のいい35mmエルフレアイピースの助けもあって、実に剃刀の刃のような、鋭く明るく、そして立体感のある星像を見せてくれました。これによって、口径の割に暗い彗星まで識別でき、しかも名鏡の生みだす無類の星の美しさは、何時までも飽きることなく、わたしの心を星の世界に導いてくれました。これこそ発見のための大事な条件だったのです。そして1965年9月19日の朝、月光で明るい海へビ座の中に、かすかに光る彗星像を見分けたのも、この名鏡のお陰であると思います。この彗星は、私の人生の明暗を分けた意味でも、重要な発見であったと思っています。そうです、手のひらに乗るこの小さなレンズが、私の心の灯台となって、宇宙を照らしてくれたのです。
 1962年2月4日、夜遅く仕事から還った私は、門をくぐると中庭に設置した物干し兼天文台に上がりました。折から南天には、壮麗な冬の銀河が光の滝となって落ち、私のレンズは無心にこの光の滝の中を彷徨し始めたのです。いつもの決まりきった掃天の作業です。「早く彗星を発見したい、」という意欲は微塵もなく、私は名鏡に写る星座の美しさに陶酔し、ただ時間が流れて行ったのです。
 とも座の2等星ゼータの近くに、モーローとした彗星像をキャッチしたのは、間もなく日付が変わろうとする24時前のことでした。南の人家の屋根が視野(3.5度)の下の一部を占領するほどの位置の低さ、これは正に奇跡としか言えません。しかも、この南の地平線に低い位置を、もう1人アメリカのアリゾナ州で見ていようとは!!


 このような思いをめぐらしているとき一台のパトカーが赤い警ら灯を回しながら近づいてきました。なにか不審車とでも思ったのでしょう。これで2回目です。天文台まで後1キロ、ようやく晴れ始めた空に気を良くして、ドームまで行ってみることにしました。
(続く)


関・ラインズ彗星は南天 -40°の
とも座ゼータ星(2等)の近くで発見された

2008年10月11日

私がチャンスを掴んだ日

 1961年10月11日、午前5時、高知市の空には雲一つない快晴の下、秋の星が燦然と輝いていました。
 人口25万の町の空は、静寂そのもので、わずかに地平線上には白い薄明が忍び寄ろうとしていました。
 そのとき、私はただ無心にレンズの中を横に流れていく無数の星星をみつめていました。確かに何も考えていなかった。地上わずかに10度。かなり白くなった薄明を押し返すように私は捜索を続けていたのです。
 このときチャンスが訪れたのです。尖鋭な星の像とともに、研ぎ澄まされたような私の心に白いほんのりとした彗星が映ったのです。それまで、ただ暗黒の水面下を蠢いていた私の人生の転機の瞬間でした。明るい光の輝く水面上に躍り出た瞬間でした。人生は訪れるチャンスによって変わる、まことに奇なものです。私が、その光芒を見た途端に「彗星!」と判断したのは、長い捜索の訓練によって、その星座「しし座のβ星の近く」には彗星と間違うような天体はないことを重々知っていたかなのです。新彗星「C/1961 T1」は7等級で、十分明るかったのですが、コマがわずかに2′と小さく、良好な光学系でないと、結構見逃してしまいそうな小天体でした。そうです、微光星と識別できないのです。
 私に一つの転換期を与えてくれた彗星は、800年ほどの周期で太陽系の果てまで旅立ちました。発見から47年経った今年の同じ日、私は芸西村の施設のなかで、やはりコメットシーカーを操りながら、あの時と同じしし座を見つめていました。無論彗星は見えませんでした。しかし、あの日から半世紀もの間、好きな星を見つめてこられたという充実感が、コメットシーカーを覗く私の心を埋めていました。
 あのときの9cmのコメットシーカーは、今も時々星を見せてくれます。しかし実戦から引退したものの、時々、私の講演会についていって演壇に座って、私の話を盛り上げる役目を演じてくれます。レンズはあのときの彗星の姿と、感激を忘れないのです。


9cmコメットシーカー

2007年02月13日

芸西天文台の夜

 昨日、今日と天文台にやってきました。
 夜半過ぎには月が出ますが、実に透明な星月夜で60cm反射望遠鏡による写真掃天の後、久し振りに東天をパトロールしました。東南の空は月があるので避けて真東から東北にかけて捜索しました。
 遠く1967年の2月に2つ目の「関彗星」を発見したのは今東天に輝くヘルクレス座でした。あの頃は12cmの双眼鏡を使って、位置の確認には方位環と高度環を使用して計算によって地平座標から赤道座標に切り替えて位置を出していましたが、今夜はナビゲーターを巧くセットして赤経、赤緯をダイレクトに読み取っています。途中ヘルクレス座のM13が入ったとき、その表示は星図上で非常に良く一致していました。今はあの頃のように11等の彗星の発見は無理かも知れません。しかし長期戦は覚悟の上で日常の日課としての掃天をやっています。
 早くも東北の空から一際明るい「ヴェガ」が顔を出し、壮麗な白鳥の十字架が山並みに大きく横たわるようになりました。
 ああ、なんと美しい天の川だろう!あらゆる観測のなかで、彗星の捜索ほど星空の美観を満喫できるものはありません。
 今年の4月には新潟県で第37回目の「彗星会議」が開かれます。いま捜索している方々と捜索の喜びや苦労、そして未来への希望について話し合いたいです。私も10年やって捜索に敗れた人間です。コメットハンターの苦悩はよく理解しています。

2006年08月21日

スイフト・タットル彗星の思い出

 8月15日の終戦の日が過ぎ、夏の高校野球が終わる頃には、お天気も安定し、そろそろ秋の兆しが見えてくるものです。暑い屋根瓦に染み込む蝉の声も心なしか静かで、威勢の良いつくつくぼうしの声が混ざるようになります。
 今年のペルセウス座流星はお月様もあった関係で眼視では余り見ることが出来ませんでした。
 この流星群の母彗星は「スイフト・タットル彗星」と言って130年ほどの周期を持っていますが、この彗星が最初120年の周期と見られていたのですから、1960年代から多くのコメットハンターによる捜索が試みられました。芸西でも60cm反射望遠鏡が完成する前の1980年には、写真的に相当探したようで103a-Oのプレートを使った掃天写真が24枚見つかりました。無論正規の位置から外れていますが、当時1枚が800円近くもした高価なコダックのガラス乾板をふんだんに使ったことを見てもいかにこの捕り物が大掛かりでその発見が価値高いものであったかがわかるでしょう。
 一旦現れたら肉眼的な大彗星です。そして大きな軌道はこの彗星を何ヶ月にも渉ってみせてくれます。しかし最初の周期(120年)を5年ほど過ぎて見つからないとみると気の早い学者が「もう既に通り過ぎてしまったのだ」と言い始めました。しかし眼視的な明るい彗星がやってきて何ヶ月も天空上にある時、今の多くのコメットハンター達が見落とすことは万に一つもないと考えます。この様な事は観測をやらない人の考えです。私は当時OAAの「天界」等で「必ず現れるから熱心に捜索するよう」と盛んに宣伝していました。
 そして最初の予報から遅れること約10年、スイフト・タットル彗星は予測どおり悠々と現れ、暫くのあいだ”夜空の女神”の名を欲しいままにしたのです。先にバーナード2彗星が100年越しにリニアによって確認されましたが、これはスイフト・タットル彗星に比べると大変に暗い小さな天体でした。もしリニアが引っ掛けていなくとも眼視捜索者の誰かの目に止ったと思います。この彗星は最大9等級に達し7x50の双眼鏡で見えたと言う報告もあります。
 彗星が約10年遅れて現れたお陰で芸西では60cmの完成に間にあい、尾を引いた美しい姿を撮影する事ができました。

2005年10月11日

 今年も秋たけなわの

 今年も秋たけなわの10月11日がやってきました。今から44年前の今日、初めて新彗星の発見に成功しました。あの日は見事な秋晴れの1日でしたが、今日は秋雨前線の停滞する小雨の日になりました。
 あの頃は10年余りやった捜索の仕事に敗れ人生に迷っていた頃でした。それまで長い間愛用した15cm反射望遠鏡と訣別し、新たに開発した口径88mmの屈折式広角コメットシーカーのテストを兼ねた最初の捜索の日でもありました。
 午前4時30分、東の低い屋根の上にしし座が大半の姿を現していました。この広角コメットシーカーは薄明の中、短時間に出来るだけ広い天空を捜索する目的に製作されていました。視野は3度半、30分もあれば東天の大半を捜索し尽くすほどでした。筒は地平線に対して水平に移動し高い高度から次第に地平線へと移動する最もオーソドックスな方法です。こうして午前5時過ぎ捜索を終了するのですが、午前4時50分、鏡筒はしし座のある一点に静止したまま夜明けを迎える事となったのです。そうですそこには異常が認められたからです。即ち5時が近くなって、うす明るくなった薄明を押し返すようなつもりで捜索していた私の視野に突然ほんのりとした白い光体が浮かんだのです。過去10年の修行と経験はそれを迷う事なく即座に新彗星と断定しました。
 その後発見していつも気づく事、それは「今日も何にも考えずに捜索に専念出来たなあ、、、、、」ということでした。実際15cmを使っていた若い時代は必死にやったものの心がいつにならず常に動揺していました。つまり発見を意識しすぎて、見えるべきものも見えていなかったのです。それにもう一つ、素晴らしい切れの88mmコメットシーカーは私の心を統一さすに十分な星像を展開してくれたのです。この苗村レンズと、エルフレ33mmアイピースの相性もとても良かったのです。私から15kmほど西の町のIさんは同じ朝、10cm、25倍の反射で同じ天空を捜索しながらこれを見逃しています。視直径2′のこの小さなコマは8等星といえどもレンズと眼が良くないと恒星にまぎれて見逃します。それに精神の統一と言う事も大事でしょう。
 この最初の発見はその後の私に大きい自信と一つの捜索の在り方を教えてくれた意義ある発見でした。
 この雨が上がればやりましょう。いつまでも現役で仕事を続ける人間にのみ、生きることの喜びと輝きがあるのです。