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2009年07月26日

月下美人が咲きました

 2年前の2007年に一度咲いた花です。
 同じ鉢で今年また咲きました。
 夕方は写真(上段)のような蕾でしたが、その5時間後、下段の写真のように同じ蕾が満開となり、真夜中のたった3時間暗闇に美しい姿を見せました。
 2年前にはその名の通り、咲いた花の上空には満月に近い月が煌々と照っていました。今回は雲の上に淡い三日月がある状態で咲きました。しかし闇夜で月影はありませんでした。

♪ 暗い夜空に星一つ
   月下美人の花が咲く 
    今宵は月も出ぬそうな

 一体誰に見られるために白い美しい花を咲かしているのだろう?
昔、高知市の北のはずれから、電動の車いすに乗ってご婦人が教室に通っていました。花のある庭の片隅に車を停めて憩っていました。その人は数年前に亡くなりましたが、ひょっとするとその婦人の魂が花となって咲いたのではないかと思いました。私は、その方の好きだったという、フレスコバルディの「アリアと変奏」という曲を思い出していました。



2009年07月23日

部分蝕は雲間に見えました

 7月23日の日食の日、芸西天文台では一般に公開しました。
 夏休みに入ったばかりの子供たちや、その保護者、それに県下のマスコミ関係の人たち50人余りが、小高い丘の上の天文台周辺に集まり、この珍しい天文現象を見守りました。天文台の講師は5人で、めいめいいろんな方法で観測に挑戦しました。
 食甚の少し手前の10時55分、三日月状の太陽が雲間に一瞬顔を出し、あちこちでどっと歓声が挙がりました。薄い雲が適当に太陽の光を弱めて、その現象は肉眼で綺麗に眺められました。歓声を挙げたのは、人間ばかりではなく、気象の異常に気が付いたのか、傍らの林の中で、鶯が盛んに鳴き始めました。
 日食が終わりに近づく頃から、天候は回復に向かい始めました。
 写真は200mmの望遠で撮った部分食と、それを見上げる人たちです。


部分日食 2009年7月22日10時55分ころ
芸西天文学習館 関勉撮影



日食を見上げる参加者
芸西天文学習館にて

2009年07月22日

市民大学で講演しました

 高知市の「かるぽーと」で<自然科学コース>「宇宙のしくみと天体」というテーマでおよそ十年振りに開かれました。参加されたのは中、高年の男性が圧倒的に多く、ご婦人はやや少なく、学生の姿はほとんど眼につきませんでした。昔は天文や他の科学についても何かやると、その主流は学生が占めていましたが、世間で言う若者の”科学離れ”の影響がここでも出ているのでしょうか。参加者は多かったものの一抹の寂しさを感じました。
 私以外の講師のお話はかなり程度の高い”宇宙論”でしたが、それでも聞こうという熱心な市民の姿には心を打たれました。熱心な聴衆が相手でしたら、話しよく内容もいい方向に展開して行きます。講師から良いお話を聞くのは、こうした聴衆のマナーにかかっていると、いつも思うことです。
 およそ90分間、一方的に語り、質疑応答は行いませんでした。なぜなら、質問は、聴衆を代表するようないい質問が少ないからです。本を読んだり、近くの一寸した先輩に聞けば分かるような質問ではなく、その人ではないと答えられないような、いい質問を我々は期待しているのです。
 昔NHKの放送番組で有名なギタリストが登場して演奏し抜擢された少数の聴衆が質問する番組が昔ありましたが、出た質問は一女性の「何とかの曲のこの部分はどのように弾けばよいのでしょう?」と言った平凡な個人的な質問にがっかりさせられたことがあります。その演奏家がここまで育ってきたことについて、もっと真髄を追求するような良い質問を多くの聴視者が期待していると思います。
 今回の講演会の司会を勤められた高知女子大学長の大久保先生と控え室でお話するチャンスがありました。先生は天文の専攻で、時々論文を書いて、外国の会合にも参加されますが、外国の学者に「どちらからお出でましたか?」と聞かれたとき、高知県といっても分かりにくいので「ほらあのイケヤ・セキ彗星の国からやってきました、、、、」と答えると分かってもらえる、と言って私を喜ばして下さいました。
 写真は演台から見た熱心な参加者の姿です。


かるぽーとでの講演会の様子

2009年07月14日

発見と花

 梅雨が上がろうとして、まだ上がらないこのごろ、天文の仕事がないと、余計な事を考えたくなるものです。
 我が家の庭にネムの花が咲いては雨に打たれてしおれています。しかし心棒強い花と見えて、うたれても打たれても咲き続け、その美を表現しようとします。雨に咲く美しい花です。
 戦時中のラジオ歌謡で関種子の歌った歌に「雨に咲く花」という歌がありました。関種子は当時人気の絶頂にあって、私の敬愛した人でしたが、テレビの無い時代で、どのような人であったか、美声を聞くだけで、一度もお顔を知らずに終わってしましました。太平洋戦争がたけなわの頃に、よく歌った「南の国のふるさと」という歌を知る人はもう少ないでしょう。
 倉敷天文台は構内が秋になると、一面のコスモスの花で彩られていました。本田さんの書いた書物によると、1940年10月1日、この天文台に勤めていた岡林滋樹さんは、コスモスの花に包まれながら、明け方の4時30分、東天しし座の中に彗星を発見しました。即ち「岡林・本田彗星」の発見です。
 私ごとでは1956年10月6日の未明、観測所の周辺に咲いたコスモスの花を一輪、オーバーコートの胸のポケットに刺し、観測台に上がりました。そして、しし座のなかに「クロムメリン彗星」を発見したのでした。
 いつも秋がやってきてコスモスが一面に咲く頃になると、昔の発見のことを思い出し、「ああ観測のシーズンがまたやってきたのだ」と思います。コスモスは私の最も好きな花です。



2009年07月11日

第二池谷・関彗星の思い出(2) - コンパレーターの中の彗星

 コンパレーターとは、彗星や小惑星の写真を撮った時、その位置や大きさを測定する装置のことで、「XY座標測定器」とも呼ばれていました。しかし、今はCCD観測が行われるようになり、パソコンがそれに代ったために今ではほとんど用がなくなりました。
 旧、東京天文台には、当時数千万円もするというマン製の大型測定器が座っていましたが、いまは無用の長物になって、その行き先に困っている、と言う話も、第三者から聞いたことがあります。この日記の昨年の12月28日号で紹介した島津製作所製の乾板測定器は、1970年ごろの値段が50万円ほどで、到底一般に買えるような物ではありませんでした。其の頃、彗星の写真観測を始めた私は、なんとか、それまでのスケッチ等による概測ではなく、精密な位置観測がしたいと思いその入手に万全を尽くしましたが、遂に買えず諦めるより他はありませんでした。
 当時世界で、コンスタントに彗星の精密位置観測をやっている天文台はプロに限られて10箇所も無い有様で、もしここで、アマチュアが進出するならたいへんな貢献が出来るに違いない、というのが私の考えであったのです。しかし天文界の考えは保守的で、「アマチュアが精測なんかやるものではない」という考えが、プロ、アマを問わず、根強く存在したのです。アマチュアの世界的な進出による革命的な今日の状況を想像しなかったのでしょうか。”先見の明がない”とはこうしたことを言うのでしょう。
 しかし、私の理想は1967年に実現しました。明るい小惑星の測定を手始めに、其の年に発見された「第二池谷・関彗星」の精密位置観測を始めたのです。当然内外から多くの反響がありました。まずスミソニアンのマースデン博士が東京天文台に問い合わせてきたことは、前の日記で書いた通りです。日本と違って彼は、それを歓迎したのです。
 其の時使った手製のコンパレーターはなんと1500円程度の費用でできたとんでもない代物で、東京在住のアマチュア天文家も視察に来たほどでした。測定の光学部は手持ちの天文用のケルナー25mmのアイピースを使い、その焦点面にオリンパス製の精密な十字線マイクロメーター(ガラスに0.1ミリ目盛のスケールを刻んだもの)を貼り付けてありました。一種のスケールルーペです。この簡単な測定器で、当時、実に多くの彗星の位置観測を行い、当時のスミソニアン天文台から発行された、ハガキ型のIAIUCに載りました。測定には精密な恒星のカタログが必要でしたが、時を同じくしてスミソニアンから人工衛星の観測を目的とした「SAOカタログ」が発行され、アマチュアには大きな福音となったわけです。
 先日、周期約9年のスイフト・ゲーレルス彗星(64P/Swift-Gehrels)が埼玉県の門田健一さんによって早々と観測されましたが、その前回帰の1991年には芸西で観測していました。今、当時の原版を取り出して見ると、測定するための比較星が少なく苦労したことが伺われます。反射鏡では、位置測定のための比較星が少なく、しかも遠いとコマ収差の影響もあって、良い測定が出来ないのです。しかし今はGSCカタログの出現によって、その欠点は解消されたのです。 当時の論争に対する回答は結果で勝負する、という考えは今も燃え続けています。

 写真は今でもフィルムの測定に使われているニコンのコンパレーターです。


コンパレーター(左)と測定用PC(GSCカタログの星を表示)

2009年07月05日

史跡探訪3

 坂本竜馬(さかもとりょうま)生誕の地は上町一丁目の電停の近くにあります。戦前はその生家はほぼ完全に残されていましたが、昭和20年7月4日の空襲で焼け落ちました。一軒西となりに小学の時のクラスメートが住んでいましたので、遊びに行って入ったことがあります。ガランとした空き家になっていました。
 1835年11月15日に竜馬がここで誕生したわけですが、其のとき有名なハレー彗星が夜空を賑わしていただろうことが想像されます。このホームページでも書きました。
 ここを訪れる観光客は多いのですが、施設は質素で、僅かに元高知県知事の書いた「坂本竜馬誕生の地」という碑が寂しく建っているだけです。


坂本竜馬誕生地の碑

2009年07月03日

シルバー大学で講演しました

 今日7月3日、高知城の近くの「高知文学館」のホールに講演に行きました。すぐ近くに聳える高知城は先日小惑星に命名して以来、初めて眺めました。朝日に映えるお城の姿は、特別に懐かしく、私には意味のある姿です。
 そうです、1961年10月12日、初めて彗星を発見して、お城の下の電報局に打電するためにやって来て、朝の6時、東京に打電を終えてホッとした時、北の上空に朝日に映えた高知城の凛々しく美しい姿がありました。やっと宿願を果たしたという心で見るお城の姿は、その白い城壁がただ美しく神々しくさえ見えました。あの日の感激を忘れず、いま高知城を”大高坂城(Otakasakajyo)”として星に命名したのでした。大高坂城(おおたかさかじょう)とは築城時の名です。
 文学館のホールには100名余りの熟年の聴衆が集まっていました。いま「シルバー大学」とか「老人学級」とかいった団体は多く、面白いことに、特に女性が熱心で、今回集まった会員も、なんと90パーセントが女性で占められていました。7月22日の日食のお話を冒頭に、色々な星の話をしましたが、講演が終わると意外な人が名乗り出て、良く懐かしい珍しい話が弾むものですが、今日もその例に漏れず、70歳が近いと思われるご婦人がつかつかと近づいてきて、「覚えていらっしゃるでしょうか?私は60年前にプラネタリウムで解説をやっていた中村で御座います」と語ったのです。
 思い出しました!1950年に高知市の帯屋町で私たち有志が手作りのプラネタリウムを製作して第2回目の”南国博覧会”に合わせて開業したときに解説をやってくれた数名の女性の1人でした。あのときのドームの中で木霊(こだま)した彼女の美声は今でも耳の底に残っていました。とたんに悲喜こもごも苦労して造ったプラネタリュウムの時代のことが、目まぐるしく私の脳裏を回転しました。その下りは「プラネタリウムと潜水艦」という変わったタイトルでこのホームページの「ほうきぼしと50年」に何回かに渡って載せてあります。猟奇に満ちた話です。この中村さんには久保内徳夫君という私と中学で同期の従弟がいたのですが、卒業して間もなく消息を絶ったので、心配していたのですが、その後病死したと言う話をきき愕然としました。中2の時にはすぐ近くに住んでいてよく遊び、ともに勉強しました。1945年7月4日の高知市大空襲や、翌年12月の南海大地震も共に体験した数少ない親友の1人でした。彼の父は牧師で家は小さな教会になっていました。クリスマスの日の早朝、観測をやっていましたら、突然賛美歌を歌う合唱が聞こえてきて身の引き締まるような神々しさを覚えたことを思い出します。レンズの中には数万光年彼方の散開星団が光っていました。


帯屋町筋から見た高知城とその大手門

2009年07月01日

史跡探訪2

 私の家から近い旧・築屋敷町(つきやしきちょう)には、坂本竜馬(さかもと りょうま)が剣術の修行に通っていた道場があったと伝えられています。ここは石垣の多い町並みで、その歴史は古く、戦前にはある時代劇のロケが行われたとのことですが、定かではありません。人が住んでいるのかいないのか、廃屋も多いこの通りを歩いていると、ふと屋敷の中から竹刀の音が聞こえて来るような錯覚を覚えます。
 竜馬は北辰一刀流(ほくしんいっとうりゅう)の使い手で、江戸の桃井道場では免許皆伝の腕前だったそうですが、実際に強かったのか、慶応3年11月15日には、京都四条大橋の近くの河原町の隠れ家であっけなく暗殺されてしまいました。
 刺客が襖を蹴破って侵入したときには、そこには正眼に構えた一寸の隙もない竜馬の剣が光っていた、、、、と言うのが剣豪竜馬のイメージですが、現実にはそうも行かなかったのでしょう。あれから150年経った町並は昔のままの風情を讃えて、夏の日に光っていました。

[旧・築屋敷町の風景]
旧・築屋敷町の風景