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2000年8月の日記

● 8月26日
 ハワイから帰ってきて早々、香川県丸亀市の藤井学園に出張しました。学校で70cm反射望遠鏡(西村製)とプラネタリウムが完成したことを記念しての観測会があり公演と指導に出かけました。70cmでは天王星やヘルクレスのM13球状星団。そして二重星のアルビレオなどを生徒たちに見せました。
 プラネタリウムは古い五藤製の手動式でしたが星空と観客の間に人間(解説者)が入って親近感がありました。今のプラネタリウムは大型化し自動化し、見る人の感情とはそっぽ向いて勝手に流れてしまいます。作ったソフトに頼っているので昨日起こった天文現象も入れられないのです。昔のプラネのように解説者が立ってお客さんの質問に答えながら星空を見るのは、例え星座がイビツで天の川がちゃっちであっても迫力があり楽しいものであることを再発見しました。
 夜は瀬戸内海の夜景の見える高層ホテルで久し振りに仕事を離れてくつろぎ、翌27日は近くの丸亀城に登りました。古い城郭を歩きながら石垣にしみ入るせみの声にふと秋を感じていました。
[望遠鏡の写真]

● 8月22日(ハワイにて)
 いよいよ日本航空機で帰途に着きました。帰りの飛行機はエアポケットのように稀に見るガラすきでした。自由に窓辺に座ってはるか眼下の太平洋のさざ波や無数に立ち上る入道雲を見ていました。思えばハワイでは思いがけない収穫がありました。例えば1965年10月20日、イケヤ・セキ彗星の太陽コロナ突入の写真がアメリカのライフ誌の記者によって写されましたが、どうやらこの貴重な世界にたった1枚しかないと思われる写真が、ダイヤモンドヘッドの頂上付近の岩山で撮影されたらしいこと。そして太陽コロナの中をくぐって約1時間後に暁天に見えたころ、スミソニアン天文台から見事な尾を引く写真が送られてきたのですが、それが雄大なマウナケアの裾野をバックに写されたものであることを知ったのです。マウナケア屹立する天文台群の空にかかるイケヤ・セキ彗星。もちろん時代は違うのですが、もしそんな光景が見られたとしたら.....。と私は一人夢のようなことを考えていました。
 収穫の多い意義深い旅でしたが、意外なこともありました。日本からホノルルに向かう定期便(全日空)の若いスチュワーデスと岡村・川添の両人が離陸時、椅子で向き合ったまま話をしていましたが、後で私のところへやって来て「彼女はすばる望遠鏡の事を全く知らない。」と言って驚いた顔をしていました。世界一のすばる天文台のことは今や世界的な話題になっているのに、こんな知的な人が知らないとは?天文をやらない人達にさえ多く聞かれるのに、今の若い人達には知識が偏って常識とさえ思われることさえ知らないこともあるのかと一寸淋しい思いがいたしました。

イケヤ・セキ彗星
1965年10月21日(日本時間)

● 8月21日(ハワイにて)
 早朝ヒロ市を発って飛行機でホノルルに向かいました。ハワイ島では天文台のあるマウナケアと第2の高山マウナロアの景観が実に印象的で、その両山に挟まれる様に展開するマウナウルの大火山や溶岩流の痕も雄大でした。
 飛行機が3000〜4000米の高度で飛行中、左側の窓からマウナケア山頂の一連のドームが白く光って見えました。ヒロ市は曇天だったのにやはり山上は良く晴れ太陽がいっぱいに輝いています。飛行機の高さとドームはほとんど水平で、改めて天文台の高さを実感として捕らえました。山頂で見た銀河(天の川)のあのまぶしいばかりの大光芒がまたしても思い出されました。

南天の天の川(マウナケア山頂にて)
さそり座のはるか南まで見えている。
28mm F2.8レンズ ISO400 露出3分



北の銀河
天文台はイギリス・オランダ・カナダ
50mm F2 ISO400フィルム 露出5分
 ホノルルは2回目でしたが午前中は有名な海岸のダイヤモンドヘッドに3人で上り、午後はホテルの近くの海で一人で泳ぎました。水着を持っていませんでしたが、やはりワイキキに来たからには一度は海水浴をしておかなくてはとズボンのまま飛びこんだのです。高知市の種崎の海水浴場で子供の頃泳いでから大波に揉まれるのは実に何十年ぶりかのことでした。

ダイヤモンドヘッドの遠望

● 8月20日(ハワイにて)
 ヒロ滞在の最終日、私達芸西天文台の3人はタクシーを借り切ってマウナ・ウルの火山の見物に出かけました。ヒロ市内は今日も雨。しかし車が西方に広がる広大なマウナ・ロアの裾野に近づくに従って雨は止み見事な晴天域に入りました。1969年頃大噴火したと言われているマウナ・ウルからの溶岩流の大地の中の道を車は走りつづけました。そしてついに南の海岸に達し、東方500mほどの海岸に白い噴煙が立ち昇っているのが見えました。足元に転がっている小さな火山岩を拾って眺めると、黄色や青の小さなガラスの結晶がくっついていました。川添氏によると溶岩が1000度以上の高温に達するとできる結晶で、まるで宝石のようにきらびやかな美しさでした。来るまで相当走ったつもりですが西方には依然としてハワイ島第2の高さを誇るマウナ・ロア(4100米)が悠然と聳えています。その裾野の長々とした緩やかな眺めは絶景です。丁度山の形に添うように白い雲が蔽っています。旅行の途中で沢山のクレーターや花や木を見ましたが、運転手のヒロ君は実に物知りで私達の知らないハワイ島の大自然を心行くまで説明してくれました。

火山岩とマウナ・ロアの裾野


マウナ・ウルの記念館にて
地質学者の川添氏(右)とヒロ君(左)

● 8月19日(ハワイにて)
 私たち芸西天文台の3人は団体から離れてもう1日ヒロに滞在することになりました。それはハワイ島第2の火山マウナ・ウルの近くの溶岩流を見学することと、すばる望遠鏡のあるマウナ・ケアの山頂の夜の星を見たかったからです。ヒロの宿を出発して町から離れて行くに従って天候は雨から晴天へと変化して行きます。その日は19時30分にヒロのホテルを出発しました。タクシーの運転手はマウナ・ケアに詳しい日本人でその名もヒロ君。雨の中の出発で山の天候を気にしていたのですが、ヒロ君は「大丈夫です任せておいてください」と自信満々です。暗いマウナ・ケアへの山道はすれ違うこともほとんど無く、1時間ほど経ってワイパーの停止したフロントガラスから1つの星が幽かに光り始めました。もう中腹のOnizukaが近いところです。そしてどれくらい経ったでしょうか。右側の窓から南を見るとガラス越しにさそりが光り始め物凄い天の川が展開してきました。「おお凄い!」私たちは始めてみるマウナ・ケアの星空に思わず快哉を叫ばずにはいられませんでした。地平線は見えません。ただ無数の星屑が消えることによってそこに天と地の境があることを教えてくれます。完全に電灯を消して星明りだけを頼りにヒロ君の運転する車は頂上を目指します。途中ハワイ大学の天文台員の乗用車がライトを細めて追い越して行きました。
 Onizukaから30分ほどで昼間すばるを見学し昼食のため休んだ高地に着きました。ここから北にすばるのドームが少し低く見えます。ドームには赤い幽かな灯がついています。ヒロ君は車外に出て突然消えてしまいました。10分ほど待ちましたが帰ってきません。四方は唯暗い闇で星以外は何も見えません。様子を確かめに少し車外へ出ましたが物凄い寒さと息苦しさに襲われ5分と辛抱することは出来ませんでした。しかし彼は帰ってきません。このまま4200米の頂上に取り残されてしまったら.....、と思うとぞーっとするような戦慄が押し寄せてきました。芥川竜之介の作品に「杜子春」というのがあります。仙人になりたくてすが目の老人に連れられて峨眉山という高い岩山に上るのですが、その文章に『ここは余程高い山と見えて北斗の星が茶碗の大きさくらいに光っていました』というのがあります。そして仙人になるための物だめしとして恐ろしい虎や大蛇そして槍を持った神将が現れて襲いかかってくるのですが、私達3人は峨眉山を思わす高い山頂に取り残され不安と寒さに耐えなくてはなりませんでした。
 それにしても私達の頭上に蔽いかぶさって来る天の川の明るさはどうしたことでしょう。まるで夏の日の入道雲の如くまぶしいばかり。そして私達の立っている岩山の靴の位置より低いと思われるさそり座のはるか南の微光星まで1等星のごとく輝いているのです!
 私達は辛抱できる限界と思われる僅か30分の間、暗闇の中三脚を立て必死になって星空を写しました。下山の車の中で誰かが今見た星空は明治時代のものですか?と言いました。明治時代にはたしかにこの様な物凄い銀河が見られたかもしれない。中国やメソポタミアで星を見て占ったり星座を考えたり。更に惑星の特徴にも気がついて、現代人よりも星を見て研究したこともわかるような気がしました。太古の人々が特に星に関心を示したのも、昼間の景色を眺めると同じような物凄い宇宙の景観がそこにあったのです。極自然の成り行きと考えられましょう。
 夏とは言え山頂は恐らく氷点下であったでしょう。それに冷気を叩きつけるような標高4200米の風。私達は早々に機材を片付けると退散しました。
 ヒロの町はまだ雨が降っていました。”天の川の写真はうまく写っただろうか?”と一抹の不安を抱きながら宿に着きました。

50mm F2 30秒露出
天文台は左から、すばる、ケック第1、ケック第2

● 8月18日(ハワイにて)
 マウナ・ケア山麓のヒロの町は雨の多いところです。高い山に貿易風がぶつかって雲が発生し、いつも厚い雨雲に覆われています。地元の人の話では2日に1日は雨天だそうで私達が滞在した4日間は全部曇り又は雨でした。しかしその雨雲の上に従えている高い火山を想像してください。
 午前8時30分、私達16人は2台の専用車に分乗してマウナ・ケア目指して出発しました。いつもヒロの町を離れるに従って晴れ始めます。小さな町を抜けるとやがて山への一本道となります。道路はあまり広くないですが舗装されています。行き違う車も少なく30分も走ればもう標高は1000米以上。左右に広大な火山台地の眺望が開けます。前方にははるかにマウナ・ケアの雄大な山の稜線が延々と延びています。大溶岩流の中を砕いて1本の道が果てしなく続いているのです。途中、生き物と言えば低いところに牛の牧場があっただけで、それから上は捨て犬が一頭。後は何も居ない。まるで月世界のような荒涼たる天地です。
 私達は途中標高2800米のところにある鬼塚記念館に立ち寄って小憩しました。空気が薄くなるため体をならすのですが、ここにはマウナ・ケアに天文台を持つ各国の宿泊施設があり、私が到着するのを知ってここで働く2人のアメリカ人が訪ねてきてくれました。
 さてOnizukaから上は舗装の無いガタガタ道です。残りの1000米を一気に4WDが駆け上がります。あちこちに事故車が放置されていますがこの難路を上がろうとして失敗した車です。遠くから白い点として光っていたドーム群もついに眼前に巨大な威容を見せてきました。その中で角いひときわ大きいドームがすばるです。とうとう世界で1番宇宙の果てに近い天文台にやってきたのです。周囲に一面に広がる火山岩の大地を踏みしめて巨大なドームを見上げました。その上には昼間でも夜を思わすような青黒い大空が高く光っていました。
 ドームの中では日本天文学会の中桐正夫氏(ヒロ在住)の非常に丁寧な説明があり、超巨大でミクロンの精度の要求される一見相反する条件が見事にクリアーされて世界の第1線に立つすばる望遠鏡の偉大さに改めて感心しました。すばるは日本を中心とする全世界の最高の技術が結集して数々の新機軸を発明してつくりあげたテレスコープと言っても過言ではないでしょうか。
 薄い空気で気分が悪くなって私は床にしゃがみ込みました。さて、マウナ・ケアの夜の星空はどんなものでしょうか?マウナ・ケアの星を見たい!その私達の願望がかなうのでしょうか。
次の日記をお楽しみに!!

マウナ・ケア中腹のOnizuka記念館にて



マウナ・ケア山頂に建つスバル天文台



ついにすばる望遠鏡の下に立ちて

● 8月17日(ハワイにて)
 22時、関西空港からハワイに向けて出発しました。OAA(東亜天文学会)関係の16人です。私達の芸西天文台から岡村啓一郎、川添晃と私の3人が参加しました。思えば今から半世紀も昔の1948年、パロマー山の天文台が完成し宇宙の果てに向かって活動を開始したときには貧乏な日本にとって正によその国の出来事であり、私達にとっても高嶺の花でした。ハッブル博士等による画期的な大発見もただ指をくわえて見ているだけ。まさか日本が世界のトップに立つなんて夢想だにしませんでした。いよいよ明日はすばる望遠鏡の下に立てる。マウナ・ケアの標高4200米の頂上に立てる。星は見られなくても数々の発明と新機軸を駆使して完成した20世紀最大のテレスコープを見上げるのだと思うと機中ではなかなか眠られず、5時間後早くも射し始めたハワイの黎明の光を私はただじっとして眺め、はやる心を押さえていました。
 ホノルルに着くとすぐアロハ空港290便に乗り換えてハワイ島に向かい、現地時間の13時、ヒロの町に着きました。ここですばる望遠鏡本部を見学し、若い従業員の丁寧な説明で室内を見学しました。フロントにはスバル望遠鏡で撮った天体写真がたくさん飾られてあり、先に消滅したリニア彗星もありました。スバル望遠鏡製作の苦心談は昨年秋の富山市での元小平台長の講演で沢山聞いていましたが、若い台員の説明で改めて感慨を新しくしました。終わって御礼を述べ名刺を渡すと『知っていました』と言われました。
 これからヒロのホテルに入り明日はいよいよハワイ島の最高峰マウナ・ケア頂に上がります。4200mとはどんな空気なのか?”すばる”が待っている!

機上から見たハワイ諸島の夜明け



ヒロのスバル望遠鏡本部にて

● 8月18日(日本にて)
 いよいよスバル望遠鏡を見に行く日がやってきました。今頃は、もしかするとマウナケアの山に居るかもしれません。そして巨大な望遠鏡を見上げて快哉を叫んでいる頃かもしれません。
 思えば私が天体に興味を持ち始めたのは1947〜8年のパロマー山天文台が完成して間もなくの頃でした。噂に聞く200インチの威力にただ驚くばかり。アメリカではハッブルという名使い手を得て天文学が大きく前進しました。貧乏な日本には海の向こうの出来事は全く関係のない正に高嶺の花的な存在でしたが、あれから実に半世紀も経って今や日本が世界の頂点に立とうとは全く夢想だにしなかったところです。
 パロマーではできなかった宇宙の涯への挑戦を、そして他の恒星界での惑星の発見を。更にビッグバンの大昔の宇宙誕生の様子を捕らえる日が来るかも知れません。スバル望遠鏡はそうした世界の天文ファンの希望に応えてくれるでしょう。

● 8月14日
 満月前でしたが天文台で一般公開がありました。対象は高知医科大学の小児科学教室の人たちで、体に障害を持つ子供たちと父兄や関係者40人でした。20cm屈折(60x)で明るい火口の光条や月面ヘリ近くのクレーターを楽しむことができました。また幼児が多かったので子供向きのスライド映写も行いました。多くの子供たちが大変興味を持ち、また付き添いの若いお母さんから喜ばれ、帰る時には何人かの人と感激の握手をしました。子供達には出逢いが大切です。私もそうであったようにこうしたことがきっかけとなって科学の道に進む人が出るかもしれません。
 天文台が出来る時には県の多くの反対がありましたが、こうして多くの人々に喜ばれている現状を見る時、天文台が実現したのは正解であったと思っています。

● 8月12日
 満月に近い月があって夜明け前の僅か1時間でしたが、いくつかのペルセウス群の流星を観測しました。夜明け前の30分は例によって捜索です。特にぎょしゃ座の多くの散開星団は20倍のコメットシーカーに美しく映りました。彗星の発見はそれを意識してもなかなかできるものではない。こうして星の美を探勝する気持ちこそ大切なのです。
 オリオンがすっかり昇って均斉のとれた美しい姿をのぞかせるようになりました。フジのフィルムを使ってオリオンのM42が青白く写りましたが、このフィルムの方が肉眼で見た感覚に近いようです。ベテルギウスのオレンジ色も良い。
[昇るオリオン座の写真]
昇るオリオン座
Nikon FE 28mm F3.5

● 8月11日
 月が西に沈んでから良く晴れました。満月が南の土佐湾に沈んでいく光景は海が黄金色に光って正に絶景です。
 今朝は久し振りに落ち着いて東天を捜索しました。低い空でカニ星雲M1も良く見えました。オリオンのM42が入ってきたときには思わず快哉を叫びました。夜空は早くも秋の気配です。

● 8月9日
 この日夜の花火大会を皮切りに高知市を中心とするよさこい祭りが始まりました。高知県では1番暑い頃で、よさこい祭りが終わり甲子園の野球大会が終わるとそろそろ秋の気配を感じ始めます。昭和22年、終戦後初の花火大会が鏡川のほとりで開催されたとき初めて見に行ったのですが、それ以来会場に行ったことはありません。時々上町の自宅の屋上からこうして眺めるだけです。
[よさこい祭り花火大会]

● 8月6日
 好天の暑い日が続きます。毎年芸西村の天文台で開校しているアストロ教室の生徒とその父兄たち40人が、8月6日那賀川町の天文台を見学しました。昼間のことですから太陽の黒点やフレアーを大型の画面で見たり、堀さんの解説で113cmの大反射鏡で昼間のアークトゥルスや下弦の月を眺めました。9月23日〜24日には同科学館で年1回の”星まつり”が開かれます。
[那賀川町天文台見学会]

● 8月4日
 今朝は空気も良くさわやかで、実に空の透明度も高く暗く、ふだんより星が10倍も多く見えました。アンドロメダが中天に高くなり星座はもう秋です。イプシロン21cmで10分間、作業の間にM31に向けました。隣のさんかく座M33の大渦巻きも肉眼でかすかに見えます。夜明け前の30分を12cmコメットシーカーで探索。オリオンの大星雲が懐かしい。三つ星の近くの散光星雲M78(約8等)も視野に入ってきました。国道を帰るとき、北の御在所岳の空を彩る日の出前の輝きが実に鮮やかで、まるで日食中のコロナのようでした。星の美しい朝は幸せです!
[アンドロメダ座M31,M32など]

● 8月1日
 眠れないまま午前4時に目が冴えました。屋上に上ってみると、木星と土星が群がる雲の間に強く光っていました。もう45度も上っています。スバルもそのそばに幽か。ネオンの遠く輝く街の上に早くもオリオンが昇り久々にベテルギウスの赤い光を見ました。思わず「おお、オリオン!」と叫ばずにはいられませんでした。もう45年も昔になりますが、今は亡き本田実さんがオリオンの少し南のエリダン川の中に新彗星を発見されたのも今ごろでした。夏中明るく輝いて多くの天文ファンを喜ばせてくれました。
 先日(5月)倉敷の科学館に行ったとき同彗星を発見した口径10cmの双眼式コメットシーカーが展示してあるのを見ました。手作りの無骨な格好でいかにも実践向きの兵器という印象でした。手製の粗末な天体望遠鏡で世界最初に発見する!この痛快な精神は本田さんから池谷さんまで受け継がれていきました。



Copyright (C) 2000 Tsutomu Seki. (関勉)