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2006年12月15日

久し振りで梶ヶ森に上がりました

 標高1400mの梶ヶ森には山荘があって60cmの反射望遠鏡を備えた天文台があります。12月15日に、ここからNHK高知放送局による中継のテレビ番組があって出演しました。梶ヶ森には凡そ光害を知らない美しい星空と大自然があって、山頂近くには極めて清冽な地下水が豊富に湧き出ています。
 温かい日でしたが夜の山では摂氏1度以下に下がりました。この日は奇跡的に晴れ、物凄い星空が頭上に展開されました。それまでのお天気が余りにも悪かったので、観測は半ば諦めていたのですが、この日は朝から快晴で、東京の局から取り寄せてたという、超高感度テレビカメラが、余す事なく、冬の星空を捉えて家庭に送りました。あのスバルも、双眼鏡で見る程度に星がモニターに現れて驚きました。スリットの間から見る星空は漆黒にまるで研ぎ澄まされたようなバックに星が輝き、この空だったら60cmでも20等星が写るでしょう。牡牛座あたりがボーッと光っているのは黄道の灯りで、秋の明け方に見る黄道光と同じ性質の光とみました。そう言えば10年ほど前にしし座流星群の観測会があった時、夜半に天頂に見える対日照が夕方早くも東の低空に輝いていたことを思い出しました。対日照は冬の天の川の最も淡い輝きより更に何分の一か暗い光芒ですから、如何に梶ヶ森の空が暗いかが分るでしょう。この日はたまたま高知工科大の先生が来てテレスコープを操って居られました。
 私も近くだったら度々通いたいのですが、いかんせん片道2時間の行程と、今も狭い頂上への道が難関となっています。しかし天文台をもつ大豊町経営の宿舎の居心地はいいですね。それに夜明けの太陽と眼下の吉野川を蔽う雲海が見事です。
 私がこの山に初めて登ったのは20歳の頃でした。当時は車の道はなく、JRの豊永の駅で降りて、延々4時間も歩いて登りました。山の7合目に古いお寺があって宿泊して、あくる朝の3時から山頂を目指しました。同じ寺に時久さんという山田高等学校の先生親子が泊まられていて、一緒に登山しました。それから10年の時が流れて、私が最初の彗星を発見した時、時久さんは私のことを憶えていて、お祝いの手紙を送ってくださいました。山で会った人は忘れられないものです。

2006年12月09日

一領具足の碑

 初冬の好天の一日、高知市の景勝の地、桂浜にある「一領具足の墓(いちりょうぐそくのはか)」を見たくて車で走りました。南国土佐の海は冬でも壮大な明るさを称えています。その太平洋を見渡す元、浦戸城址の近くに墓がありました。
 一領具足とはNHKの大河ドラマでも放映していたように、戦国時代に四国を統治していた長曽我部元親(ちょうそかべもとちか)の家来で、普段は農業を営みながら、いざ戦争という時、武器を手にして戦った兵士のことです。
 関ヶ原の戦いのあと元親(もとちか)は豊臣(とよとみ)の軍勢に敗れ城(浦戸城)明け渡しとなったとき、元の、主君に忠誠を誓った民兵たちが一揆を起こし、遂にはニ百数十名の兵士が騙し打ちにあって、殺されたところです。種崎の浜(たねがさきのはま)は「千松公園(せんしょうこうえん)」とも呼ばれ、沢山の松が乱立する美しい砂浜です。私も小学生の夏、ここにキャンプを張って海水浴に親しんだことがあります。桂浜から浦戸大橋を渡れば種崎です。
 民兵たちが処刑された日は晴れていたのか、曇っていたのか。あれから400年の歳月を経て、今もあの日と同じ浜風が、磯に打ち寄せる波の音を送り、殺された民兵たちの叫び声を伝えているようでした。
 良く晴れた空に、ここ種崎から桂浜に懸る浦戸大橋が大きい虹の弧を描いていました。桂浜で彗星会議が開かれた1972年ごろには、橋が未完成のまま、中央でドッキング寸前であったことを思い出しました。会議は長宗我部元親公の居城であった「浦戸城址」で開かれたのでした。

一領具足の地蔵
(参詣の花が絶えない)