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2008年11月28日

岡林・本田彗星発見の地に立ちて

 岡林・本田彗星が発見されたのは、今から遠く1940年10月1日のことであった。ここ倉敷天文台の構内には一面にコスモスの花が咲き乱れ、秋は正にたけなわであった。
 午前4時、防寒服を纏った岡林滋樹氏はオットウエー製(イギリス)の口径70mm、30倍の屈折望遠鏡を庭の片隅に立て、町の空に上がってくる獅子座の方角に向かって水平に捜索を開始した。そして約30分が経過する頃、1度余りの視野のほぼ中央にほんのりと輝く白い8等級の彗星像を発見した。位置は正しく獅子座大鎌の中央であった。そこに星雲を見た経験はなかった。モーションを確かめにかかったが、やがて午前5時を告げる近くの製糸工場のサイレンが鳴り、空は大いに白んできた。
 当時は、アマチュアの発見はモーションを確認して報告すると言うのが鉄則であった。岡林さんは翌日を待って確認しようとしたが、あいにくの雨天となり、悪天は3日まで続いたのである。
 一方、広島県瀬戸村の山中に居た本田実氏は、岡林氏の大のライバルであり弟子でもあった。10月4日の早朝、15cm23倍の反射望遠鏡で明け方の空を捜索していた本田さんは、やはり獅子座の中に8.5等級の彗星を発見。確認を依頼するために、直ちに倉敷天文台に電話した。その頃、確認の作業を行っていた岡林氏から、10月1日の発見の事情を聞かされたのであった。こうして、日本人としては、わが国で最も早い、しかも連名の彗星が誕生したのであった。
 奇しくもその年の12月に太平洋戦争が勃発し、間もなく二人とも応召し、戦地に行った。岡林氏は1945年の「阿波丸事件」で非業の最期を遂げるが、本田氏は戦時下のシンガポールで再び奇跡の彗星発見を行うことになる。そのいきさつは拙著「未知の星を求めて」で詳しく記述した通りである。
 1947年に復員してきた本田氏は、戦後の暗い空に次々と彗星を発見し、貧しい日本のために気を吐いた。そして1950年にここ倉敷天文台に移転して、その後永い間、同天文台を守り続けることとなるのである。
 本田氏が逝去されて以来15年振りの倉敷訪問となった。近くの美観地区を歩いていたら、よくベレー帽を冠った本田さんと会った。今もどっかの路上で大股に歩いてくる本田さんと会えそうな気がした。倉敷川に映る白壁の風景も、柳の袂に居座る黒い人力車も昔のままだった。しかし倉敷のシンボルともいえる本田さんの姿はもう無かった。天文台はあいにくの休館日だったので誰も居なく閑散としていた。敷地の一部に「猫払い」のお面を発見した。そうそう20年も前、倉敷駅から歩いて天文台を訪ねていたら細い道で迷った。そのとき一匹の野良猫が出てきて歩きだした。猫に案内され、猫の歩いて行くとおりに付いていったら天文台の敷地に入った。天文台が猫の溜まり場になっていたのだ。
 本ドームの側に捜索の小さな白いドームがあった。ここは岡林さんが彗星を発見した場所に記念して作られたものであった。
 ああ68年前、この地で発見劇が演じられた。恐らく市街の空は想像を絶するほどの美しい星空があったはずである。その頃、私はたまたま高知市の自宅の二階の窓から、明け方の北の空を見ていた。人口20万の町の空は、一旦夜になると完全な星の世界になって、全天まるで燐光に輝くように星屑で埋まっていた。かつての本田さんや岡林さんは、このような理想的な星空の下で観測を続けて居られたのであった。


岡林・本田彗星発見の場所に立ちて