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2006年07月30日

黒い魔物

 今日は恒例の「夏の天文教室」がここ芸西村の天文台で行われました。暑い中40名近い参加者があり、つつがなく観測会が開かれました。特筆すべきは芸西で発見し高知新聞社が一般から星の名前を募集して決まった「おるき」の星の作詞作曲の試聴版が始めてここで音になってみんなに聞いてもらいました。いずれ8月にCDが高知新聞社の「おるき係り」から発売されるそうですが、今日集まった人たちは幸運にも一足先にこの音楽を聞くことが出来たわけです。
 そして同時に40年前キューバの人によって作曲され、まだ演奏されていなかった「Ikeya-Seki」の曲が披露されました。
 夜の観測では5日の月や木星が大変良く見えました。水がめ座の流星群もいくつか見られました。

 このように大勢集まってがやがややっているときには動物たちも恐れてなかなか出てこないようで、流石今夜は「森の主」の光る目玉もありません。観測会の晩にはいつも安心して作業が行えるのです。それにしても”闇に光る眼”の正体は何でしょうか? そして午前3時になると天文台の窓に映る黒い影の正体はなんだろうか?その疑問は長いこと解けず、恐怖は募るばかりでした。然しそれから間も無く午前3時の影は映らなくなり、日と共に月と共に黒い影のことは私の脳裡から忘れ去られようとしていましたある日のことです。

 訪れたその年の秋もようやく深まろうとしていた深夜のことでした。例によって私は60cm鏡を操作して小惑星の探索を行っていたのですが、突然深夜の静寂な空気を引き裂くような悲鳴が起こりました。どうやらそれはドームのすぐ上の例の”けものみち”附近で起こったようですが、得体の知れない動物のまるで断末魔の叫びのような物凄い声に「これはただ事ではない!」と私は咄嗟に怖い事も忘れて懐中電灯を片手で掴むとドアを開け、悲鳴のする方に一目散に駆け上がりました。それはまさしく”けものみち”の上でした。強力なライトに映し出された光景は、世にも信じられぬ恐ろしい光景でした。泣き叫ぶ動物の正体は1匹の子狸でした。最初は黒くて良く分らなかったのですが1頭の黒い大きな怪物が狸の腰のあたりにがっぷりと噛み付いているのです。なおも狸は盛んに悲鳴をあげつづけています。然し黒い怪物も流石突然やって来た第三者を見て恐れを抱いたでしょう。狸を食うのを諦めてずたずたと重い足取りでけものみちの奥のほうに消え去ったのです。
 「あの黒い動物は一体なんだったろう?」犬や猫の類ではない。鹿でも猪でも絶対にない....。しからば熊????ここまで考えて私は慄然としました。「天文台のある芸西の里に熊がでた。」そのような事はあろうはずもないのです。四国には高知県と徳島県の県境に近の深い山郷に確かに10頭くらいの「つきのわ熊」が居る事は確認されています。その一頭がえさを求めて麓まで降りてきたのでしょうか?つきのわ熊で無ければアナグマだったのでしょうか。もっともこの30年間に熊らしきものを見たことは他にありませんが、日本カモシカ(3~4頭の群れ)や狐、猪なんかは時々見かけています。然し夢かまぼろしか、あの黒いいかにも獰猛そうな熊そっくりの動物はあの時が最初でした。私が「森の主」と呼んでいた目の光る動物はこれだったのでしょうか。あの日から10年の歳月が流れましたが、疑問は日とともに月と共に深まるばかりです。

 さて話は飛びますが、かれこれ30年も昔のことでしょうか。お隣の徳島県祖谷(いや)の山中で野良仕事をしていた1人の男が妙なものを見ました。祖谷村は昔、平家の落人がここに隠れて生活したという大変に山深い場所で、今でも平家の子孫らしいみやびやかな人(女性)に出会ってはっとするときがあります。
 それは高さが8mほどの木の梢に着物の黒い帯びのようなものが引っかかっていて、不思議に思ったきこりは暫く眺めていました。ところが次の瞬間、その黒いまだらの帯はスルスルと動き出したと言うのです。なんとそれは長さが5メートルを越すような大蛇だったのです。「うやー、ヘビがでた!」と男は一目散に山を駆け下りました。
 この目撃談は当時の「高知新聞」にも発表されました。どうやら錦へびのようです。村に帰って男は、その事を報告しましたが「まさか四国に大蛇がいるはずは無い、それは何かの錯覚でしよう」と言ってなかなか信用してもらえなかったそうです。しかし昔そのような大蛇を見たと言う人も居て、村の人たちはその後その真実を立証しようと、それから山に作業に出る時は必ずカメラを持って仕事をしたそうです。然しその事件も、その後杳として噂は立ち消えてしまいました。

 祖谷村の大蛇も芸西村の熊もこのまま永久に姿を消してしまうのでしょうか。

 さて次は身の毛もよだつような天文台での蛇の怪談「まだらの紐」です。

2006年07月24日

闇に光る目

 むかし「午前3時のブルース」という曲がありましたが、午前3時に決まって天文台のドアに映る黒い影の正体とは一体何者でしょうか?この黒い影の正体を暴く前に、私はこの天文台の置かれた環境について少々お話しなくてはなりますまい。
 天文台はここ芸西村和食(わじき)の標高120mの小山の上にあります。天文台から南2kmに蒼茫たる太平洋が望めます。天文台から東はすぐ谷になっており、いまは人の通らなくなった”けものみち”が谷底の底なし沼に通じているのです。この古い沼から何者かが這い上がって来るのではないか、という恐怖をいつも感じていました。
 ある晩のことです。夜遅く天文台にやって来た私は、普段とは違う道を選んで天文台のすぐ北側の頂上の広場に車を停めました。ここからは山道を上がるのと違って、楽にドームまで到着するのです。車から降りると昼間なら海の見える南側の斜面をほんの20mも降りるとドームに辿り着くのです。その時、幅1m余りの例の”けものみち”を渡るのですが沼に降りるその道は途中鬱蒼とした樹木に覆われています。


怪物の目が光ったけものみち
谷底の池に通じている

 50mほどの先に深い森が見えているのですが、懐中電灯を照らすと2つの蒼い目玉が浮かんだのです。森の中には何か得体の知れない動物が居る。それをわたしは「森の主」と呼んでいるのですが、その強力なライトの光を浴びて光る目玉は、犬や猫にしては大きいのです。天文台に通うわたしはいつも何者かに見られているような恐怖を感じていました。
 それから数時間経って観測が終わり、同じ道を通って車に帰るとき、もう一度同じ場所から森の中を照らしてみました。然しその2つの光る目玉は無くなっていました。明らかに移動したのです。この光るものは地上の物体ではない、明らかに動物のものです。いつかその森の主に会うことがあるかも知れない。と思いながら、それからかれこれ1年ほど経った秋の初めごろの出来事で御座いました。

2006年07月11日

天文台の怪談

 夏になると怪談がはびこります。夏祭りや見世物等の催しに行くと昔は大概”お化け屋敷”というのがあって、子供の頃にはこわごわ入ったものですが、今はそのようなものは殆ど見られなくなりました。小学生の頃の夏、学校で合宿して肝試しという授業?がありました。深夜宿直の部屋から二人一組になって、懐中電灯を持って一階と二階の廊下を一回りして帰ってくるという催しです。無論要所要所に仕掛けがしてあって、先生が幽霊になって出没するのですが、何も出ない長い廊下が却って怖かったりして、いまでもあの時の戦慄を思い出します。
 芸西の天文台も一種の肝試しの場所です。山の一番上の駐車場のところから暗く、ドームまでの50mほどの山道が怖いのです。右手は谷で、底の方からケダモノの鳴き声がします。左手は鬱蒼とした林です。そこに墓場の白い墓石が無いだけでも助かっています。ドームの中に隠れるとホッとするのですが、暗闇のドームのなかで観測をしていても外の様子が気になります。時々足音がして得たいの知れない鳴き声が響きます。あたりは死んだような静寂ですが、よく耳を澄ますと谷の底の人工の池に滴り落ちる水の音がチロチロと聞こえます。昔ここに人が飛び込んだとか、、、、。


天文台の下の底なし池
天文台の怪談はここから発生する

 ところが午前3時になるときまって妙な変化が起こります。ドームの入り口のドアは不透明のガラスで外の深夜の空気がボーッと幽かに写って光っているのですが、怖いものですから、観測中も私は何度もその白い光るガラス戸に注意するのです。何者かの影が映るのではないか、と言う恐怖です。そしたら、決まって午前3時になると黒い影が映るのです。それはまるで小さなクリスマスツリーのような頭の尖った形をした黒い影で、何十秒かでスーと消えて行くのです。(一体この時刻に何者だろう?)私は怖いので決してドアをあけません。やがて長い夜が終わり黎明の白い光にドームが包まれ始めた頃、密かにドームを抜け出して急ぎ足に山を下ります。車のなかに入りドアをピシャと閉めてから初めてホッとした安堵に支配されます。
 天文台はこうした一種の肝試しの場所でもあるのですが、それからとんでもない恐怖が襲ってきたのは間もなくのことでした。私はそれを決して現実のものとは思いたくない。全く信じられぬ出来事でした。 その黒い影は人ではない、、、!???

2006年07月10日

飛行船の幻想

 梅雨のまだ上がらない午後、自宅の屋上に上がって東の空を見ていたら、一機の飛行船が珍しく空を浮遊していました。
 私がまだ幼少の頃、高知市の空に大きな白い飛行船が現れて、祖父が屋上で見せてくれた記憶があります。1935年頃でしょうか、白い巨体が夕日の空に彗星の如く棚引いていた印象です。
 当時は飛行船は国と国をつなぐ交通の重要な役割を果たしていました。そして日本では軍事的にも使われたようです。然し火災による事故が絶えませんでした。私が高校生のころ、国語の教科書に寅彦と飛行船のことが書かれていました。寅彦は研究室ではいつも煙草を吹かしながら冗談ばかり言っていました。そんなある日、珍しく真顔の寅彦が入ってきて「実は軍部から重大な仕事を依頼された、皆真剣に取り組んでくれ」と言って事のしだいを説明しました。それによると当時たくさんの軍用の飛行船が作られましたが空中で爆発して墜落する事故が相次いだそうです。外国ではドイツからアメリカへの定期船がアメリカに到着した空港の上で炎上し、大惨事を引き起こした有名な事件があります。
 寅彦らの研究班は遂に無線用のアースを機体に取り付けたことが原因で、船体には燃えやすい水素がつめられていたため機体の金属の繊維が火花を散らして水素ガスに引火したそうで、飛行船とは危ない乗り物だったわけです。
 それから何年かたって、太平洋戦争の始まったばかりの頃、やはり夕日の西の空に、白く細長いものが輝き、夕日と共に沈んで行った事を思いだします。私はやはりそれは飛行船とばかり思い込んでいましたが、よく考えると、その頃は飛行機が発達して飛行船の時代ではありませんでした。戦時中「パラスケ・ボプロス彗星」と言うのが白昼見えたと言う記録がありますが、まさかそれではありますまい。”パラスケ・ボプロス”とは彗星を機上から発見した飛行士のことです。
 高知市の上空に現れた飛行船は当時のことを回顧するように市街の上を漫遊していました。山の緑は輝き、白い雲は湧き夏たけなわです。


筆山(高知市)の上空を飛ぶ飛行船

2006年07月07日

七夕様の思い出

 今年の七夕も星が殆ど見えませんでした。しかし夜半になって西南の空に沈んで行く月と木星がはっきりと輝きました。そして天頂にはいつもより蒼い織女が光っていました。梅雨の中の職女星は特に青く感じるのですが、気のせいでしょうか。所詮梅雨の晴れ間で観測出来るような状態ではありませんでした。
 子供の頃の七夕様は旧暦で祭っていましたので、いつも空はよく晴れて天の川が市内でも見られました。夜風に騒ぐ竹の短冊がサラサラと音をたてて、まるで天の川のせせらぎの音を聞いているようでした。今の8月の中旬頃の事でしたでしょうか。半月が西に沈む頃には、風が肌寒くなって、中庭の涼み台から座敷に入りました。そのような時、玄関前の道路の涼み台では、近所の老若男女が集まって、夜が更けるまで話に夢中になったものです。
 土佐の昔話に怪談。お年よりたちによって貴重な昔の話が子供たちに伝えられ残されて行ったものですが、今ではこのようなチャンスはなく、学校では教えられないような土佐の昔の出来事は消えて行く運命となりました。高知市のここ上町で人魂や蜃気楼を見た珍しい話も、こうした涼み台での集まりでお年よりから聞いたお話でした。台風が近い夜なんか、集まってきた近所の人のなかに気象学者がいて、「皆さん風の中心を教えてあげましょうか。風の吹いてくる方向を背にして左手を挙げた方向が台風の中心です。」と言っていたことが印象に残っています。昭和10年頃のことでしょうか。驚く無かれ、その頃は台風の予報なんか出ていなかったのです。今のようにレーダーは無いし、気象観測用の飛行機も飛んでいない。無論気象衛星や報道するテレビもない。台風の発生する南方は大戦前夜の敵国なのです。われわれは風が吹き出してから初めて「しけが近づいているらしい」としかわからなかったのです。その頃私の祖父が体験して語ってくれた路上を転んでいく”きつね火”の話なんか鬼気迫るものがありました。

 さてさて雨が降って観測のない退屈ないまどき、時折、土佐の怪談でもお話ししましょうか。また明日をお楽しみに。