2009年06月25日

古戦場の夏

 晴れ間の多い梅雨の一日、「池谷・関彗星」思い出の場所を訪ねました。遠くに見える山は、高知市の横内から見た河ノ森です。
 1965年10月22日、近日点を通過した直後の彗星を、前日の蟠蛇の森(ばんだのもり)に次いで観測した場所です。観測はマスコミを通じて一般に公開し、多くの市民が参加しての観測合戦を展開したのです。
 ”古戦場”とはそう言う意味での題目ですが、実は、この山は、実際の古戦場でもあったのです。戦国時代ここに城を構えて立てこもった軍勢は長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか)に攻められ、あっけなく落城したのです。こうして遠くから眺めても、お城のあった頃の二の丸、三の丸の跡がはっきりと残されています。
 さて肝心の彗星観測の成果ですが、彗星が近日点を通過して、17時間後に須崎市の蟠蛇の森での観測の成功に続いて、その24時間後には、ここでもその健在な彗星の姿を見ることに成功したのでした。
「おーい、見えたぞーっ」という歓声は天地に木霊(こだま)しました。
 其の頃、常に陣頭に立って指揮していたのは、世にも奇怪な”天文冒険家”の池幸一(いけ こういち)氏でした。彼は彗星が太陽に異常に接近中は、常に誰よりも熱心に見張りました。そして奇妙な”池式投影ボックス”まで作って、特殊な方法で太陽の側の彗星を観測したのです。彼は彗星の発見こそ無かったのですが、常に”縁の下の力持ち”的な存在として、世に貢献したのでした。
 (懐かしき池氏は一体いま何処にあるのだろうか?)。


遠くに見える山が河ノ森

2009年06月23日

梅雨本番です

 2日ほど雨が続いてまた晴れ間です。午前中は見事な快晴に恵まれました。
 鏡川のほとりの散歩コースを歩いてみました。小惑星(4256)として星になっている川です。左下の岩場は子供の頃「赤石」と呼んで親しんでいた場所で、坂本竜馬も幼い頃この辺で泳いだであろうと言われています。私が第四小学校に通っている頃には、学校にプールが無くて、体育の時間には、よくこの川に通って泳ぎました。跳ねと跳ねとの静かな流れのところでは、競泳もやっていました。其の頃は今と違って上流にダムも無く、水流は豊かで、川底も深かったようです。水はすくって飲めるほどに清冽で冷たかったようです。そして中学の時には、高知市がB-29による大空襲にあって、燃える我が家を後にして逃れたのも、この鏡川でした。幼い頃から親しんできたこの川の水の美しさが永遠ならんことを願って、星に命名しました。
 今日の鏡川は若葉青葉を映して、とても綺麗に見えました。


鏡川

2009年06月10日

黎明の鐘の音

 大高坂城(高知城)の三の丸には長い事眠り続けている鐘があります。正午を告げる大砲が引退した後、この鐘が朝夕の6時を告げる”時報”として永い事、市民に親しまれて来ました。当時は人口18万の小さな市街でしたから、当時の静寂な大気の中を、町の隅々まで響き、市民の心にホッとした慰安と明日への希望をを与えました。朝の鐘の音は、「さあ、これから仕事に出よう」と言う励ましの力強い鐘であり、夕べの鐘は、一日の仕事を終えた人へのねぎらいのやさしい鐘の音でもありました。
 1950年の12月だったと思います。其の頃自宅に近い工場の廃墟の屋根で観測していた私は、快晴の星月夜の下、収穫こそ無かったものの、美しい明け方の空を捜索できた、という満足感に浸っていました。たとえ発見が無くともコメットハンターとしての、最も充実した嬉しい時間なのです。少しずつ黎明の光が射し、やがて薄いピンク色の夜明けの活動が始まろうとする時、一つ二つと消え行く星影に別れを惜しむかのごとく、午前6時を告げるお城の鐘が響き始めました。その美しい鐘の音は市内一円に響くと共に、静寂な私の心の隅々まで染み渡り、この上ない慰安を与えてくれたのです。深い夜からやがて活気を取り戻す一瞬の隙間に響く高知城の鐘の音は今でも私の耳の中に残っています。
 鐘にそっと触ってみました。この鐘には60年以上の歴史がありました。黒ずんだ真鍮の冷たさに1950年ごろの苦闘した頃の夜中の寒さをふと思い出しました。そう、あの頃は寒さとの戦いが大変だった。それから収穫の無い10年間が過ぎたのでした。そして11年の歳月の流れた1961年10月、初めて発見した彗星が、この天守閣の上に輝いたのでした。観測の後にいつも聞いていた鐘の音は、この時にはもうありませんでした。発見の感動のあとに、あの鐘を聞きたかった....。
 二の丸まで降りたところで、1人の老人に会いました。老人は頭上の高い梢を見上げながら、「今年は、このはずく(・・・・・)の姿が見えませんね」と呟くように言いました。そういえば、昔は夜が深まると、梟の鳴き声が、盛んに鼓打つように聞こえていた。それは朝夕の鐘の音と共に2km離れた私の家まで聞こえていました。今は町も喧騒を極め、昔のように、かすかな梟の鳴き声に耳を欹てるような風情は無くなってしまいました。


三の丸の鐘

2009年06月09日

高知城の日時計(お昼のドン)

 土佐24万石の最後の殿様、山内容堂公は多少天界に興味があったものと想像されます。山内家の蔵にはドイツのシュナイダー社製の天体望遠鏡も発見されました。また多くの渾天儀(こんてんぎ)は江戸時代の天文学者川谷薊山(かわたにけいざん)の作ったものと推定されます。お城の本丸のある庭には江戸時代の日時計が備え付けてあります。これは日時計というより一種の正午計で、子午線に沿って張られた針金の影が下の石に彫られた南北の溝と一致するとき正午と見たのです。
 この正午を合図にお城のある三の丸では大砲を一発ぶっぱなしていました。その音は市内一円に響き渡り、私たちは「お昼のドン」といって親しんでいました。この作業は昭和15年(1940年)ごろまで続けられました。昭和16年、太平洋戦が勃発すると、この野砲は軍に調達されました。そしてそれに変わる、実に優雅な音が午前6時と、午後6時に市民の耳に伝わることとなったのです。


日時計

2009年06月08日

小惑星「大高坂城」が誕生しました

 写真は大高坂城(おおたかさかじょう)です。
 これは今の高知城のことで、今から約400年前の築城時には「大高坂城」と呼ばれていました。
 今回、芸西で発見された1993 BL2と言う小惑星に(26127)Otakasakajyoと命名されることになりました。
 初代の城主は山内一豊公で、土佐24万石のシンボルとして、今日まで市民に親しまれてきました。観光客も多く1987年には中央局のB.G.マースデン博士もここを訪れました。すぐ近くの城下町には有名な坂本竜馬の生まれた場所もあります。


大高坂城

2009年05月09日

神戸での講演会

 今日5月9日は神戸の三宮で「日本スペースガード協会関西支部」主催の第33回講演会があり講師として参加しました。
 会にはOAA会長の長谷川先生や、彗星の運動で”藪下理論”を発表された藪下先生の顔も見え、一般の人より、天文に精通された学究が多いと見受けました。講演のテーマは「新天体発見のよろこび」でしたが、延々3時間、熱心な聞き手の方たちの前でお話することとなりました。
 話は1965年の”池谷・関彗星”の話がメインとなりましたが、発見の話ばかりではなく、発見者、池谷薫さんの、隠された人となりについても、いろんなエピソードを語りました。1965年10月、池谷・関彗星が太陽に迫ったとき、キューバのホセ・カレーヨ氏によって作曲された幻の曲"Ikeya-Seki"も初めてDVDによって会場で披露されました。これは、昨年の秋、キューバで、作曲家の属するメンバーが演奏会を開いた時の収録で、会の余興とは言え、私には重大な意味をもつ事件でした。あの日から実に43年も経っての初演となったのです。
 芸西の60cm反射望遠鏡でのメインの観測となった小惑星発見の話とそのエピソードもよく聞いてくださいました。星への命名にはいろんなことがありました。中には、そっと涙ぐむ場面も。しかし星への命名はロマンがあっていいですね。会場では、いつものことながら地元へのプレゼントを忘れませんでした。そう、天下の名山「六甲山」を命名することとなりました。無論芸西で発見した星です。
 私を慕って最後の席までお付き合いくださった何人かのファンが居られました。地元の豆田勝彦さんも其の1人で、豆田さんとは40年来の文通によるお付き合いでした。何冊かの私の本を持ってきてサインもしました。拙著「未知の星を求めて」の1966年発行の初版本や神田茂先生の「彗星」の綺麗な本を、近くの古書店で簡単に買ってもってきていました。本の中に、清水真一氏撮影のペルチャー彗星他の写真が挟んであったとは一種のミステリーです。一体もう一つの大彗星は何だったのでしょうか? 本の持ち主らしい名刺もナゾ。
 会をなにかとお世話された大西道一さんご夫妻から帰りに戴いた本、神田茂氏の「彗星と流星」には思い出がありました。20代の若き日、この本をテキストとして、天体の軌道計算にとり組んだ日々がありました。多くの小惑星の軌道計算に没頭し、一日の大半を数式と対数表をにらみ苦闘した青春のいい時期でした。私の20歳代は計算と捜索がすべてでした。会ではそのようなお話もいたしました。
 翌日も快晴でした。三宮から伊丹の空港に向かう高速バスの窓から北にそびえる六甲山が見えていました。この山並みにいくつかの大彗星がかかった名場面があったはずだと思いました。この名山が星空にそそり立つ日も近いだろうと思いながら、神戸を後にしました。高知までの空路は晴れて、早くも夏を思わす入道雲が高く盛り上がっていました。これからの希望のシンボルの如く、、、、。

2009年04月25日

幻の”関・池彗星”

 望遠鏡制御用のパソコンの画面を見ていたら、その星図の中に22P/Kopff彗星が明け方のみずかめ座の中に輝いているのに気がつきました。それについて思い出は40年も昔に遡らねばなりません。
 「セキ・イケ彗星」などと言う彗星は無論ありません。しかし1960年代には生まれる可能性も無きにしもあらずでした。即ち高知市の私と土佐市(高知市から西約15km)在住の池幸一(いけ こういち)氏とは、お互いにライバルで、盛んに捜索合戦を繰り広げていました。
当時私は例によって口径9cmの屈折式コメットシーカーを使い、池氏は一回り大きい口径12.5cmの屈折を、彼独特の床の回転する天文台にこもって、主に夜明け前の東天を捜索していたのでした。空も良く、器械も満点、「今度彗星が現れたら、きっとわっしのものぞ、ふふふ、、、」と持ち前の大きい目をいつもギョッロと光らして意気込んでいるのでした。
 さて事件の起こったのは1964年4月25日の早暁のことでした。この朝、非常に良く晴れた星空を無心に捜索していた私は、午前3時半ごろ、みずかめ座の中にモーローとした9等級の彗星様天体を発見しました。星図には無論無く、明るい彗星の予報もありません。それから30分近く位置の観測を続けていたら、突然表の門戸をどんどんと叩く人がいます。びっくりして開けてみると、そこに顔面蒼白になった男が突っ立っています。明らかに池さんです。そして「関さん!とうとう見つけた!」と大変に高ぶった様子で言いました。
 私は(きっと池さんも同じものを発見したに違いない)と思って、部屋に入り、お互いの天体を照合すると、確かに池さんも私も同じ天体を発見したことになります。予報もありません。そこで池さんの提案で、この星に仮に”セキ・イケ彗星”と命名して、午前6時に東京に打電しました。その翌日には、浜松の池谷さんも発見して電報を打ちました。
 結果は有名な周期彗星の22P/Kopffが、増光したものであることが東京天文台からの返電で判明しました。当時コップ彗星がBAAのハンドブックに14等級の予報で出ている事は知っていました。しかし急激な突然の5等級の増光によって、まんまとだまされたわけです。そのような例は1955年のペライン彗星の時にもありました。新彗星の筈のムルコス彗星が、軌道の調査の結果、永い間行方不明中のペライン彗星であることが判明し”ペライン・ムルコス彗星”になったのです。
 それにしても50年近く彗星を愛し、探し続けた池さんは、今頃どうしているのでしょうか? 数々の彼の武勇伝を思うとき、その代償は余りにも小さく、その後、芸西で発見した小惑星に(21022) Ikeとして友情の命名をしました。
 1965年10月21日、「池谷・関彗星」が太陽にキッス?したとき、白昼暗室を作って、独特のアイデアで観測したことは永遠に残る良き思い出となりました。
 星を追って山に海に東奔西走、冒険好きで物好きだった池氏の隠れた功績は彼の星が頭上に輝く限り尽きません。


白昼「関・ラインズ彗星」を追う池幸一氏(左)と関
1962年4月撮影

2009年04月05日

地球33番地

 ここ高知市のほぼ中央を流れる江ノ口川の下流に近い弥生町に「地球33番地」という珍しい名所があります。
 これは東経と北緯がすべて33で交わる交点で、その正確な場所は川幅が30mほどの狭い流れの中にあります。ここに記念碑が建ったのは30年ほど前ですが、比較的最近、新しく地球儀の形をしたジュラルミン製の新しい記念碑が浮かび上がりました。
 1965年に「池谷・関彗星」を発見した頃に、この近くに或る新聞社の記者が住んでいました。彼は、事あるたびに取材にやってきていい文を書いてくれましたが、面白いことに自分の名刺に"地球33番地の近傍"と書いていました。なぜなら、この辺の町は、実にごちゃごちゃとした、分かりにくいところで、”地球33番地”の方がよほど分かりやすかったのでしょう。
 一度、彼の家を訪ねた時、間違って一つ南の通りの同じ場所に行きました。ところが、その家の庭に立派な赤道儀の天体望遠鏡が2台並んで座っていました。無論知らない家ですが、世間には人知れず、天体の観測をやっている方も居るものですね。無論私も最初の星「クロムメリン彗星」を発見した頃には、私は誰も知らないずぶの素人で、中央からの発見のニュースで知った高知新聞の報道副部長が、夜っぴて散々探し回って、私の家を探し当てました。そして、翌日の朝刊にニュースがやっと間に合ったそうです。
 そのような思い出を辿りながら、ポケットからスパイカメラのガミ16を出して撮影しました。エサミター25mm、f1.9レンズの描写はどうでしょうか。遠景の細かいディテールが見事に描き出されました。


地球33番地の記念碑
ガミ16で写す

 私の愛機Gami 16は、ミラノのガリレオ社の社長"ガリレオ・ガリレイ"氏に修理を依頼しなくても、まだまだ完全に動いているようです。


ミラノのガリレオ社の作ったスパイカメラのガミ16

2009年04月02日

荒城の月ファンタジー

 天文台に行く車の中で、FM第一放送を聞いていたら、ある日本の有名なソプラノ歌手が、日本古来の名曲「荒城の月」を独唱していました。久しぶりに聞くピアノ伴奏の素朴なこの曲はいいですね。本当に日本人の魂が通い、心の安住の地を得たたような気がしました。
 この土井・滝、名コンビの名作が、日本の音楽の教科書から消えるとき、それを惜しんで、私はある星に"Koujounotsuki"と命名して国際的に認可されました。作曲した滝廉太郎は若くしてこの世を去りましたが、詩人の土井晩翠は永く生きて多くの詩を残しました。
 荒城の月のモデルになった古城は、仙台の「青葉城」とか、九州の「岡城」とか言われていますが、私に言わせると、これはもしかしたら「大高坂城」即ち今の「高知城」ではなかったか?との淡い疑問を持っています。なぜなら晩翠の夫人は高知市の方で、晩翠は時々高知にやってきて、講演したり、また、山内容堂公の居城だった「高知城」を訪れたこたがあると想像されるからです。月の明るい晩に古城のほとりを歩いていたら、あの名詩に書かれている情景がそのまま再現されます。特に三の丸に近い、北側の石垣の径を歩いていたら、薙刀を持った武士が月光に影絵となって歩いて来るような錯覚も覚えます。そして月で明るい夜空に鳴き行く雁の群れ....。
 そうです、私の通っていた、旧制中学校はこの土井晩翠の作詞でした。

 ♪ 筆山吸江近くにありて
    明朗我らが環境うれし
     至誠を奉じて不断の励み
      学業報国我らが理想 ♪....。

 この歌詞は戦時中に作られたのですね。

 その大高坂城は今が桜の真っ盛りです。午前中のひと時、歩いてお城に上がってみました。見事です。花を見ていたら、県外からの観光客と思われる中年の女性から、
「坂本竜馬記念館はどちらに行ったらよいでしょう?」
と尋ねられました。
「私もそちらの方にかえりますから、途中までご一緒しましょう。」
と言って、案内することにしました。実は、1回も行ったことのないこの記念館は私の家から歩いて2~3分のところにあるのです。
 電車通りを歩いていたら、折りよく竜馬の生家の前に来ました。子供の頃は、ここが空き家になっていて、よくガキ大将らとほたえ(・・・)て遊びました。恐れ多くも坂本先生の生まれた家は戦前には子供の遊び場になっていたのです。目的の記念館はここから歩いてほんの200m。ここで観光客と別れて、家路に急ぎました。
 久しぶりの澄んだ青空に、道路脇の並木の桜が、早くも散り始めていました。


高知城と桜

2009年02月16日

忘れられぬ人

 毎年年賀状が来ている岡村啓一郎氏と池幸一氏から今年は来なかったので、ご病気ではないかと心配していたら、きょう岡村さんがポッコリ自転車に乗って来て、元気な姿を見せた。岡村氏は高齢を理由に芸西天文学習館(芸西天文台)の講師を辞退したが、傍から見るとまだまだやれそうな気がする。1980年代の、天文台始まって以来の古い講師であるので、もっと留まってもらいたいと思う。しかし夜、車に乗るのが危険なと言われると、あまり無理も言えないのである。2月26日に高知県文教協会で年に一度の講師会があり、それには参加すると言うことである。天文台の学習館には、彼の工作した、ウィリアム・ハーシェルの大望遠鏡の立派な模型が、氏の仕事の象徴として展示されている。
 一方、同年の池氏は10年ほど前に令息のいる千葉県に引越してから便りが途絶え勝ちである。思えば1962年の「関・ラインズ彗星」発見の時に知り合って、その後永い付き合いが始まった。彼も熱心なコメットハンターであったが、その後の30年間に収穫がなかった。1940年の「岡林・本田彗星」の時に、彗星に興味を持ち、捜索を始めたというから、彼の捜索の歴史は優に半世紀を経ているのである。その間、「池谷・関彗星」や「ハレー彗星」の出現に出遭い、実に縦横無尽の働きをした。特に池谷・関彗星が、太陽に0.006天文単位と接近し、危なくて観測できないとき、彼は持ち前の熱心さと奇抜さで終始彗星を見つめ、太陽をこすっていた頃の貴重な彗星の観測記録を残した。恐らく眼視では、彗星が太陽に突入する最後と出現する最初を世界で始めて確認した人であろう。
 その頃、車に乗っていなかった私は、よく自転車に乗って20kmほど離れた土佐市の彼の家を訪ねた。三階建ての屋上には3mのドームが光り、中には珍しい”池・ネオハックスカメラ”が座っていた。これは池氏が発案し、京都のある光学の専門家が完成させたという珍しい一種のマクストフカメラで、補正版は15cmでF2.5の明るさを誇っていた。無論新彗星のキャッチが目標であったが、一発の成功も無く幕をおろしてしまった。彼の家は電気商の老舗であった。
 久しぶりに彼の住んでいた土佐市の町を訪れた。天文台のあった建物は別の雑居ビルに変わり、偉容を誇っていた屋上のドームは姿を消していた。しかし、何時の日にか彼と登った石鎚森が、北の空に変わらぬ美しい姿で輝いていた。この半世紀、何事も無かったかの様に....。


中央が池幸一氏の天文台のあった建物