2010年01月15日
部分日食が観えました
高知県で部分日食の見える日、芸西天文台で一般公開がありました。多くが学校の先生方で、お話の後、外に出て、折から始まった日食を観測しました。夕日の日食で、西の洋上に落ちていく夕日を肉眼でながめ、日食の進行して行く様子をありありと観察しました。西の足摺岬あたりでは欠けたままのだるま 夕日が見えるかも知れないと、想像していました。
夕日の日食は私には初めての珍しい現象でした。
写真は天文台の林の中に見た太陽を標準レンズで捉えました。午後4時50分ごろの映像です。

部分日食のまま沈む夕日
2010年1月15日16時50分頃
芸西天文台にて
夕日の日食は私には初めての珍しい現象でした。
写真は天文台の林の中に見た太陽を標準レンズで捉えました。午後4時50分ごろの映像です。

部分日食のまま沈む夕日
2010年1月15日16時50分頃
芸西天文台にて
2009年12月28日
小島鏡の思い出
今日12月28日は「第二池谷・関彗星」を発見した日です。
1967年の年末に近い寒波の襲来した寒い日、夜明け前の東南の空に発見しました。この彗星は、その後長く見え続け、私が写真観測を始めるきっかけとなった彗星ですが、其の頃、池谷さんの親友であった愛知県一色町の小島信久さんと知り合い、口径21cmの反射鏡を研磨して頂きました。この21cm F5の鏡は良く出来たパラボラ面で、西村製の赤道儀に載せ彗星や小惑星の観測に活躍しました。その後、観測所が芸西村に移転した矢先、”フィンレー周期彗星”を検出したことは忘れられません。その後間もなく、鏡は同じく小島さんの好意で、一回り大きな40cm F5の反射鏡となり、鏡筒部は全自作で、空の良い芸西の星空の下で活躍しました。この40cmは5個の周期彗星の発見に貢献しましたが、中でも大爆発によって一旦消えた?と目された”タトル・ジャコビニ・クレサク彗星”を1978年秋に検出したことは忘れられません。この年の観測は芸西だけしか無かった貴重な資料となりました。
1976年には、あの歴史に残る大ウェスト彗星を迎え、観測しました。ピントが良く合ったときの40cm鏡は素晴らしい映像の切れを見せてくれました。其の頃写真感材として、カーリングしやすいフィルムではなく、コダック社のガラス乾板を使用していました。従って平面性は完璧で、本来のレンズの性能は乾板によって初めてその実力が発揮できたのです。このウェスト彗星の写真は、新装となった東亜天文学会の機関紙「天界」の2010年1月号の表紙を飾りました。
数々の天体を観測し貢献したこの「小島鏡」はその後の60cmの台頭によって引退し、いま芸西天文学習館の教室に展示されています。メッキは白く濁っていますが、その光の中には、過去の数々の名場面が映し出されているのです。

学習館に展示されている40cm小島鏡と斜鏡
1967年の年末に近い寒波の襲来した寒い日、夜明け前の東南の空に発見しました。この彗星は、その後長く見え続け、私が写真観測を始めるきっかけとなった彗星ですが、其の頃、池谷さんの親友であった愛知県一色町の小島信久さんと知り合い、口径21cmの反射鏡を研磨して頂きました。この21cm F5の鏡は良く出来たパラボラ面で、西村製の赤道儀に載せ彗星や小惑星の観測に活躍しました。その後、観測所が芸西村に移転した矢先、”フィンレー周期彗星”を検出したことは忘れられません。その後間もなく、鏡は同じく小島さんの好意で、一回り大きな40cm F5の反射鏡となり、鏡筒部は全自作で、空の良い芸西の星空の下で活躍しました。この40cmは5個の周期彗星の発見に貢献しましたが、中でも大爆発によって一旦消えた?と目された”タトル・ジャコビニ・クレサク彗星”を1978年秋に検出したことは忘れられません。この年の観測は芸西だけしか無かった貴重な資料となりました。
1976年には、あの歴史に残る大ウェスト彗星を迎え、観測しました。ピントが良く合ったときの40cm鏡は素晴らしい映像の切れを見せてくれました。其の頃写真感材として、カーリングしやすいフィルムではなく、コダック社のガラス乾板を使用していました。従って平面性は完璧で、本来のレンズの性能は乾板によって初めてその実力が発揮できたのです。このウェスト彗星の写真は、新装となった東亜天文学会の機関紙「天界」の2010年1月号の表紙を飾りました。
数々の天体を観測し貢献したこの「小島鏡」はその後の60cmの台頭によって引退し、いま芸西天文学習館の教室に展示されています。メッキは白く濁っていますが、その光の中には、過去の数々の名場面が映し出されているのです。

学習館に展示されている40cm小島鏡と斜鏡
2009年12月06日
高砂市で講演しました
小惑星「高砂」が実現したことで12月6日、当地の高砂市で命名の記念行事があり、同時に、「星を見つめて」と題して講演を行いました。非常に熱心な聴衆で、私自身が夢中で星の世界にのめり込んで行きました。多くは一般の成人でしたが、星をやっている方たちも目につき、後で有志が集まって、楽しい歓談のひと時を持ちました。
OAA会長の長谷川一郎氏夫妻、同じく地元で御世話をしてくださった大西道一氏ご夫妻、河野健三氏、「スガノ・サイグサ・フジカワ彗星」の発見者である菅野松男氏や姫路市の桑原昭二氏等のお顔も見え懐かしく思いました。
講演会を開いたとき、会場の中で意外な人と出会うことがあるものですが、今回もその例に漏れず、何人かの方が訪ねてく下さって、色紙にサインしたり、また昔の出来事を話し合いました。40年も前、東京で私に手紙を下さった魚住仁さんは当時の私の拙著「未知の星を求めて」と私の手紙を大事に取ってあって見せて下さいました。また地元のある女性は、今は珍しくなって希少価値の高い「イケヤ・セキ彗星写真特集」をプレゼントして下さり、今は遠くなった懐かしい時代を回顧しました。
写真は「イケヤ・セキ彗星写真集」と、1966年1月号の「天文ガイド」誌。上は当日高砂市の市長から戴いた感謝状です。

OAA会長の長谷川一郎氏夫妻、同じく地元で御世話をしてくださった大西道一氏ご夫妻、河野健三氏、「スガノ・サイグサ・フジカワ彗星」の発見者である菅野松男氏や姫路市の桑原昭二氏等のお顔も見え懐かしく思いました。
講演会を開いたとき、会場の中で意外な人と出会うことがあるものですが、今回もその例に漏れず、何人かの方が訪ねてく下さって、色紙にサインしたり、また昔の出来事を話し合いました。40年も前、東京で私に手紙を下さった魚住仁さんは当時の私の拙著「未知の星を求めて」と私の手紙を大事に取ってあって見せて下さいました。また地元のある女性は、今は珍しくなって希少価値の高い「イケヤ・セキ彗星写真特集」をプレゼントして下さり、今は遠くなった懐かしい時代を回顧しました。
写真は「イケヤ・セキ彗星写真集」と、1966年1月号の「天文ガイド」誌。上は当日高砂市の市長から戴いた感謝状です。

2009年12月04日
越前岬と大岐ノ浜が命名されました
越前岬と大岐ノ浜が命名されました。即ち、
(65716)Ohkinohama
(65894)Echizenmisaki
です。
いずれも芸西の旧60cm時代に発見した小惑星で暗い星です。
10年余り前だったでしょうか。私が福井県に講演に訪れた際、観光で見た越前岬あたりの荒海の情景が忘れられずに今度の命名となりました。
また「大岐ノ浜」は足摺半島の余りにも対照的な明るい南国的な海です。
命名するにあたってこんなエピソードがあります。
「東京の新宿に住む青山神春は美しい心を持った少女でした。ある日、南の青年が新しい彗星を発見した、というニュースを見て、独り星の世界に憧れました。そして3日にあげず青年に手紙を書きました。それは美しい散文詩でした。かみはるは大都会の汚れた空気のなかで、必死に美しいものを求めて生きようとしていました。そして宇宙という、これまでに考えたことの無かった世界が開けたのです。汚れを知らず、宇宙に一つの光を求めて生きる青年の姿に感動し、そして何時の間にか恋していたのです。それは神春が勝手に描いた理想の人間像であり偶像だったのです。
そんなある日私は夢を見ました。かみはると共に海を歩いていました。昼なのか夜なのか、あたりは暗く、私たちの歩くかなたに長い渚が月光に生えて、ただ白く光っていました。夢からさめてこれは一体どこの海岸だったろう、と思いました。
何年かたって足摺方面に向っていたとき大岐ノ浜を発見しました。それは土佐清水市の海岸でした。長い松林に沿ってややカーブしながら2キロに渉って伸びる海岸線は、正に夢に見た海そっくりでした。
大宇宙を愛し、詩を愛し、そして世の中に美しいものを見つめて生きようとした、けなげな少女神春を偲んでこの浜を命名したのです。」
天国へいった神春の魂は今もこの海を歩いています。

大岐の浜
(65716)Ohkinohama
(65894)Echizenmisaki
です。
いずれも芸西の旧60cm時代に発見した小惑星で暗い星です。
10年余り前だったでしょうか。私が福井県に講演に訪れた際、観光で見た越前岬あたりの荒海の情景が忘れられずに今度の命名となりました。
また「大岐ノ浜」は足摺半島の余りにも対照的な明るい南国的な海です。
命名するにあたってこんなエピソードがあります。
「東京の新宿に住む青山神春は美しい心を持った少女でした。ある日、南の青年が新しい彗星を発見した、というニュースを見て、独り星の世界に憧れました。そして3日にあげず青年に手紙を書きました。それは美しい散文詩でした。かみはるは大都会の汚れた空気のなかで、必死に美しいものを求めて生きようとしていました。そして宇宙という、これまでに考えたことの無かった世界が開けたのです。汚れを知らず、宇宙に一つの光を求めて生きる青年の姿に感動し、そして何時の間にか恋していたのです。それは神春が勝手に描いた理想の人間像であり偶像だったのです。
そんなある日私は夢を見ました。かみはると共に海を歩いていました。昼なのか夜なのか、あたりは暗く、私たちの歩くかなたに長い渚が月光に生えて、ただ白く光っていました。夢からさめてこれは一体どこの海岸だったろう、と思いました。
何年かたって足摺方面に向っていたとき大岐ノ浜を発見しました。それは土佐清水市の海岸でした。長い松林に沿ってややカーブしながら2キロに渉って伸びる海岸線は、正に夢に見た海そっくりでした。
大宇宙を愛し、詩を愛し、そして世の中に美しいものを見つめて生きようとした、けなげな少女神春を偲んでこの浜を命名したのです。」
天国へいった神春の魂は今もこの海を歩いています。

大岐の浜
2009年11月18日
しし座流星群の観測です
18日の午前0時、まさにしし座流星群の活動を開始するとき奇跡的に晴れてきました。天文台では他の観測を行いながらドームの中や、時には野外に出て、監視しました。午前4時半ごろ最も多く見られたような気がします。1時間に平均20~30個くらいは出現したようです。その間、2台のカメラを構えて4時間近くに渡って撮り続けましたが、明るい火球は少なく、1等星の流星を僅かに1個写し止めたに過ぎませんでした。改めて流星を撮影することの難しさを知りました。
彗星を発見する前の1950年代は私は流星の観測者でした。彗星を捜索する傍らに、当時和歌山県に居られた小槙孝二郎氏と連絡を取りながら観測に没頭しました。まだ多くが眼視観測の時代で、観測した流星は、専用の星図にその経路を記入して報告しました。その後写真観測に入りましたが、当時の感度の低いフィルムと、粗末な暗いレンズとの組み合わせでは、撮影に成功する事は奇跡でした。今回やっと1枚の撮影に成功して、ふと当時の苦闘を思い出しました。当時写真観測に成功した人として、小槇さんは天文誌に吉井耕一氏、坂本鉄馬氏、そして私の名を挙げてくれました。日本での流星観測の先駆者的な小槇さんは1962年ごろ私の家を訪ねてくださいました。「関・ラインズ彗星」の出現した頃で、天文冒険家の池幸一氏を交え、歓談したことは今も良く覚えています。
![[しし座流星群の写真]](http://comet-seki.net/Photo/D20091118.jpg)
流星(しし座流星群)
2009年11月18日 4時30分
アサヒペンタックスSP タクマー24mm F3.5
ISO-1600フィルム 固定撮影
彗星を発見する前の1950年代は私は流星の観測者でした。彗星を捜索する傍らに、当時和歌山県に居られた小槙孝二郎氏と連絡を取りながら観測に没頭しました。まだ多くが眼視観測の時代で、観測した流星は、専用の星図にその経路を記入して報告しました。その後写真観測に入りましたが、当時の感度の低いフィルムと、粗末な暗いレンズとの組み合わせでは、撮影に成功する事は奇跡でした。今回やっと1枚の撮影に成功して、ふと当時の苦闘を思い出しました。当時写真観測に成功した人として、小槇さんは天文誌に吉井耕一氏、坂本鉄馬氏、そして私の名を挙げてくれました。日本での流星観測の先駆者的な小槇さんは1962年ごろ私の家を訪ねてくださいました。「関・ラインズ彗星」の出現した頃で、天文冒険家の池幸一氏を交え、歓談したことは今も良く覚えています。
![[しし座流星群の写真]](http://comet-seki.net/Photo/D20091118.jpg)
流星(しし座流星群)
2009年11月18日 4時30分
アサヒペンタックスSP タクマー24mm F3.5
ISO-1600フィルム 固定撮影
2009年11月07日
アンデス山脈の上に輝く天の川
国立天文台の長谷川哲夫氏から、見事なアンデスの天の川の写真が送られてきました。
長谷川先生とは数年前に高知県の「教育センター」でアルマ計画に関する講演会があったとき初めてお目にかかりました。
アルマ計画とは、日本と北アメリカとヨーロッパ三国が共同でアンデスの山中に建設している電波望遠鏡のことです。長谷川先生はチリ、サンチャゴの国際ALMA建設事務所で副プロジエクトマネージャーを勤めて居られます。「国立天文台ニュース」189号によると先生が小学高学年のころ、私の拙著「未知の星を求めて」と出逢い、天文学の世界に憧れるようになった、と言う意味のことが本の紹介と共に出ています。私も小学の高学年のとき出遭った本があります。それは恩師に戴いた「天文学新話」と言う松隈健彦氏の本でしたが、いまさらのように一冊の本が人間の成長期に及ぼす力の大きさを感じます。
さて写真です。アンデス山脈の中腹にあるアタカマ観測所(標高3000m)で撮影された夏の天の川で、北は北十字たる白鳥座付近から、南は有名な「南十字」のはるかな南方の部分まで延々110度に渡って写されています。正に天の川のパノラマです。アンデス山中で見る星はあまりにも多くて、星座の形が描けず、ところどころにみられる多くの暗黒星雲の形から、いろんな動物の名が付けられたそうですが、そう言えば、南十字のそばに、通称「石炭袋」がポッカリと不気味な暗黒の口をあけています。そしてあの「宝石箱」の絢爛たる姿も対象的です。
2000年にはマウナケアの山頂に立って物凄い星の界に圧倒されました。ああ何時の日にか、アンデスの星空を仰ぐ日があるのでしょうか?
この写真は私が額を自作して、芸西の天文学習館に飾っておきます。
長谷川先生とは数年前に高知県の「教育センター」でアルマ計画に関する講演会があったとき初めてお目にかかりました。
アルマ計画とは、日本と北アメリカとヨーロッパ三国が共同でアンデスの山中に建設している電波望遠鏡のことです。長谷川先生はチリ、サンチャゴの国際ALMA建設事務所で副プロジエクトマネージャーを勤めて居られます。「国立天文台ニュース」189号によると先生が小学高学年のころ、私の拙著「未知の星を求めて」と出逢い、天文学の世界に憧れるようになった、と言う意味のことが本の紹介と共に出ています。私も小学の高学年のとき出遭った本があります。それは恩師に戴いた「天文学新話」と言う松隈健彦氏の本でしたが、いまさらのように一冊の本が人間の成長期に及ぼす力の大きさを感じます。
さて写真です。アンデス山脈の中腹にあるアタカマ観測所(標高3000m)で撮影された夏の天の川で、北は北十字たる白鳥座付近から、南は有名な「南十字」のはるかな南方の部分まで延々110度に渡って写されています。正に天の川のパノラマです。アンデス山中で見る星はあまりにも多くて、星座の形が描けず、ところどころにみられる多くの暗黒星雲の形から、いろんな動物の名が付けられたそうですが、そう言えば、南十字のそばに、通称「石炭袋」がポッカリと不気味な暗黒の口をあけています。そしてあの「宝石箱」の絢爛たる姿も対象的です。
2000年にはマウナケアの山頂に立って物凄い星の界に圧倒されました。ああ何時の日にか、アンデスの星空を仰ぐ日があるのでしょうか?
この写真は私が額を自作して、芸西の天文学習館に飾っておきます。
2009年10月30日
カノープスの思い出
今年もカノープスが高く見えるようになりました。いよいよ冬です。
この10月に天文台周辺の雑草刈りをやった関係で、天文台周辺の見はらしが実に良くなりました。カノープスは天文台の入り口から東南の空に悠々と見えています。そして沈むまでの長い時間楽しむことが出来ます。
前にも少し書きましたが、私が初めてカノープスを見たのは1965年10月22日の早朝でした。折から太陽に接近中の「池谷・関彗星」を追って須崎市の蟠蛇の森(ばんだのもり)に上がった時、初めてカノープスにお目にかかりました。当時”天文冒険家”だった土佐市の池幸一氏の誘導によって見たのですが、それはまるでシリウスのような高さ、そして青さ。私は咄嗟に大犬座のシリウスと思ったほどです。一体、この高さ、そして輝きはどうしたことだろう!?カノープスといわれる星のはるか下に地平線があり、その間、累々として星が、星座が続いているのです。芥川龍之介の小説「杜子春」に出てくる仙人に連れられて竹箒に跨り、蛾眉山と言う高い山に飛び、その岩山の頂上で珍しい星を眺める、あの情景を思い出しました。「ここはよほど高い山と見えて、北斗の星が茶碗の大きさくらいに輝いていました....。」と。実際カノープスの驚きはあれから40年以上経った今も忘れていません。
須崎市の「蟠蛇の森」に行けば不思議な星の世界がある。いつか彗星を追っかけたあの山に再び立って、カノープスを眺めたいと思っています。
ここ芸西でみるカノープスも捨てたものではありません。
そう、「蟠蛇の森」も星になりましたね。当時建てた「池谷・関彗星確認の地」という看板のことも懐かしく思い出されます。

2009年10月30日午前2時
ニッコール85mm F2 15分露出 アクロス100フィルム
この10月に天文台周辺の雑草刈りをやった関係で、天文台周辺の見はらしが実に良くなりました。カノープスは天文台の入り口から東南の空に悠々と見えています。そして沈むまでの長い時間楽しむことが出来ます。
前にも少し書きましたが、私が初めてカノープスを見たのは1965年10月22日の早朝でした。折から太陽に接近中の「池谷・関彗星」を追って須崎市の蟠蛇の森(ばんだのもり)に上がった時、初めてカノープスにお目にかかりました。当時”天文冒険家”だった土佐市の池幸一氏の誘導によって見たのですが、それはまるでシリウスのような高さ、そして青さ。私は咄嗟に大犬座のシリウスと思ったほどです。一体、この高さ、そして輝きはどうしたことだろう!?カノープスといわれる星のはるか下に地平線があり、その間、累々として星が、星座が続いているのです。芥川龍之介の小説「杜子春」に出てくる仙人に連れられて竹箒に跨り、蛾眉山と言う高い山に飛び、その岩山の頂上で珍しい星を眺める、あの情景を思い出しました。「ここはよほど高い山と見えて、北斗の星が茶碗の大きさくらいに輝いていました....。」と。実際カノープスの驚きはあれから40年以上経った今も忘れていません。
須崎市の「蟠蛇の森」に行けば不思議な星の世界がある。いつか彗星を追っかけたあの山に再び立って、カノープスを眺めたいと思っています。
ここ芸西でみるカノープスも捨てたものではありません。
そう、「蟠蛇の森」も星になりましたね。当時建てた「池谷・関彗星確認の地」という看板のことも懐かしく思い出されます。

2009年10月30日午前2時
ニッコール85mm F2 15分露出 アクロス100フィルム
2009年09月19日
クロイツ族彗星の思い出
毎年9月の中旬が訪れるとクロイツ族の彗星がやってくる時期だ、と強く意識します。彗星界に一つの嵐を巻き起こしたこのグループの彗星は大犬座の東の天空からやってきたのでした。
今朝は格別それを意識して捜索したのではありませんが、15cm双眼鏡の視界はいつの間にか夜明け前の東南の天空に向いていたのです。1965年9月19日朝の発見は、大犬座のアルファ星とベーター星の東への延長方向と、ふたご座の同じくアルファ星とベーター星の東への延長線との交点に正しく現れたのです。つまり毎年9月19日にはこのグループの彗星は、必ずここから出てくるのです。フランスのリゴレ博士が日本でのたった1回の発見位置の電報を見ただけで、この彗星がクロイツ族のものであって、この年の10月21日に近日点を通過する事まで予言し、ピタリと当たったのはお見事でしたが、それにはそのような理由があったのです。そしてスミソニアンからの報道は彗星が20世紀最大の明るさになることまで早々と予測して、マスコミに流したのでした。
捜索しながら、空は1965年当時の高知市の空の方が、今の芸西よりはるかに良かったことを痛感していました。あの日は台風通過直後でもあり、下弦の月があったとは言え非常にクリヤーでした。光度が8等級とは言っても、当時の88mm屈折では限界の明るさでした。いまもし、あのときの彗星が現れても、この15cmで発見できるだろうか?との疑問を抱えながらの捜索となりました。
捜索は午前3時半から4時半までの1時間でしたが、空が完璧ではなく夜明け前には月と金星が並んで輝き、黄道光も射して9等星の発見が著しく困難と思われました。
昔発見した88mmの屈折のピントは素晴らしく良かったのですが、15cmの双眼鏡のピントも断然明るくて気持ちの良い視野です。今回はナビゲーターを取り付けての掃天となりましたが、電池の消耗がやや速いのと、四角い形の小型電池のリード線が切れやすく(ハンダ付けが取れる)万全ではありません。予備を持っていないと慌てることになります。しかし薄明の、星のない空で、位置の分かるのは最高の効果です。昔、倉敷の本田さんは、相当に明るくなった明けの白い空まで熱心に捜索していました。まだナビゲーターの無い時代で経緯台の泣き所を非常な観測者の努力と経験でカバーしました。熟練とは尊いものです。その熟練と経験は常に観測している人間にのみ備わっているのです。

「1965年11月3日付けで南アフリカの新聞スター紙に
掲載されたヨハネスブルグ市上空のイケヤ・セキ彗星」
彗星は南半球が最も良く見えた。
今朝は格別それを意識して捜索したのではありませんが、15cm双眼鏡の視界はいつの間にか夜明け前の東南の天空に向いていたのです。1965年9月19日朝の発見は、大犬座のアルファ星とベーター星の東への延長方向と、ふたご座の同じくアルファ星とベーター星の東への延長線との交点に正しく現れたのです。つまり毎年9月19日にはこのグループの彗星は、必ずここから出てくるのです。フランスのリゴレ博士が日本でのたった1回の発見位置の電報を見ただけで、この彗星がクロイツ族のものであって、この年の10月21日に近日点を通過する事まで予言し、ピタリと当たったのはお見事でしたが、それにはそのような理由があったのです。そしてスミソニアンからの報道は彗星が20世紀最大の明るさになることまで早々と予測して、マスコミに流したのでした。
捜索しながら、空は1965年当時の高知市の空の方が、今の芸西よりはるかに良かったことを痛感していました。あの日は台風通過直後でもあり、下弦の月があったとは言え非常にクリヤーでした。光度が8等級とは言っても、当時の88mm屈折では限界の明るさでした。いまもし、あのときの彗星が現れても、この15cmで発見できるだろうか?との疑問を抱えながらの捜索となりました。
捜索は午前3時半から4時半までの1時間でしたが、空が完璧ではなく夜明け前には月と金星が並んで輝き、黄道光も射して9等星の発見が著しく困難と思われました。
昔発見した88mmの屈折のピントは素晴らしく良かったのですが、15cmの双眼鏡のピントも断然明るくて気持ちの良い視野です。今回はナビゲーターを取り付けての掃天となりましたが、電池の消耗がやや速いのと、四角い形の小型電池のリード線が切れやすく(ハンダ付けが取れる)万全ではありません。予備を持っていないと慌てることになります。しかし薄明の、星のない空で、位置の分かるのは最高の効果です。昔、倉敷の本田さんは、相当に明るくなった明けの白い空まで熱心に捜索していました。まだナビゲーターの無い時代で経緯台の泣き所を非常な観測者の努力と経験でカバーしました。熟練とは尊いものです。その熟練と経験は常に観測している人間にのみ備わっているのです。

「1965年11月3日付けで南アフリカの新聞スター紙に
掲載されたヨハネスブルグ市上空のイケヤ・セキ彗星」
彗星は南半球が最も良く見えた。
2009年09月12日
古里への道(2)
国宝「朝倉神社」の参道を出て、近くのJRの踏み切りを渡るとすぐ小川の道に出ました。幼い頃から度々通った懐かしい道です。この赤鬼山の麓を流れに沿って1キロほど北に歩くと、「中ノ谷」の父の実家にたどり着くはずです。昔は水車が廻り、夏には沢山の鬼ホタルが舞っていた静かな村だったのですが、私の行く手には巨大な高速道路の橋下駄がでんとすわり、小さな谷の村を跨ぐように道路が走っているのです。その巨大な橋げたの下で、地元の人らしい老婆に聞いて、やっと親戚の家の方角が分かりました。半世紀以上の間にいろんな近代的な建物や施設が出来て、村は全く様相を異にしていました。親戚の家も一部建て替えて昔の面影はありませんでした。しかし、戦時中私が生活した古い納屋の二階建ては、そのまま残っていました。

終戦前後の3ヶ月を過ごした家
中学生のころの私は、無論天文は知らずに、ラジオ少年でした。上町の自宅では毎日の空襲に備えて、中庭の防空壕に鉱石ラジオを持ち込んで情報を聞いていました。そして田舎に疎開した時には外国の放送が聞ける短波受信機を自作して、密かに日本向けの放送を傍受していました。外国からの短波放送を聴くことは、国から硬く禁じられていました。なぜならでたらめの多い大本営発表とは全く違い、本当の戦局が知れたからです。国民の多くが、劣勢な戦局を知ったら、戦う士気が失われると言う事で、禁じられていたのです。常に家の周辺や街中では特高や憲兵の鋭い目が光り、もし違反したものは容赦なく投獄されました。しかし(本当の戦局を知りたい、、)の好奇心は、あえて困難で危険な短波受信機の自作へと進んで行きました。
上町の自宅の近くに「最善社」というラジオの老舗があって、度々足を運んで、自作のための材料を買いに行きました。短波を受信するためには、その短い周波数に同調するためのコイルの巻き方に秘密がありました。何回か失敗をくり返しながら、やっと「ピー」という発信音に混じって、海外からの放送が聞こえたときには、躍り上がって喜びました。
「日本ノミナサマ、今日ハナツカシイタンゴノ調ベトトモニ正シイ現在ノ戦局ニツイテオ知ラセシマス」といったアナウンスでアメリカや、南方の敵性国からの放送が盛んに入ってきました。そして致命的ともいえるポツダム宣言受託のニュースは、疎開先の納屋の二階で密かに聞きました。「日本破れたり」のニュースは、誰よりも早く入手したのですが、この家から出征した2人の兄弟の兄(わたしの従兄弟にあたる)が南方で戦死との悲報が同時に入って、慟哭しました。
私が立って懐かしい二階を眺めている足下の小道に赤い彼岸花が一輪咲いていました。ここには昔清らかな清水の湧き出ていた場所で、道の側に水貯めの桶と、ひしゃくを置いてありました。戦死した従兄弟と遊びながら水を汲んで飲んだ思い出が蘇り、私は思わずその一輪の花に手を合わせて拝みました。

赤鬼山のふもとを流れる小川

終戦前後の3ヶ月を過ごした家
上町の自宅の近くに「最善社」というラジオの老舗があって、度々足を運んで、自作のための材料を買いに行きました。短波を受信するためには、その短い周波数に同調するためのコイルの巻き方に秘密がありました。何回か失敗をくり返しながら、やっと「ピー」という発信音に混じって、海外からの放送が聞こえたときには、躍り上がって喜びました。
「日本ノミナサマ、今日ハナツカシイタンゴノ調ベトトモニ正シイ現在ノ戦局ニツイテオ知ラセシマス」といったアナウンスでアメリカや、南方の敵性国からの放送が盛んに入ってきました。そして致命的ともいえるポツダム宣言受託のニュースは、疎開先の納屋の二階で密かに聞きました。「日本破れたり」のニュースは、誰よりも早く入手したのですが、この家から出征した2人の兄弟の兄(わたしの従兄弟にあたる)が南方で戦死との悲報が同時に入って、慟哭しました。
私が立って懐かしい二階を眺めている足下の小道に赤い彼岸花が一輪咲いていました。ここには昔清らかな清水の湧き出ていた場所で、道の側に水貯めの桶と、ひしゃくを置いてありました。戦死した従兄弟と遊びながら水を汲んで飲んだ思い出が蘇り、私は思わずその一輪の花に手を合わせて拝みました。

赤鬼山のふもとを流れる小川
2009年09月03日
古里への道(1)
8月15日の終戦の日が過ぎても、私たち一家は戦災によって荒廃した上町の家に帰る気になれずに、暫らく父の故郷に滞在することになりました。9月に入っても連日のように晴天が続き、夜は見事な星空が頭上に展開しました。終戦後はここから学校に10キロほどの道を歩いて通いました。電車もバスも空襲でやられて、交通は全く麻痺していました。
あれは確か終戦の前の日だったと思います。夜中にB-29の爆音が聞こえてきて庭で空を見ていた父が「しまった!ここへ落ちた」と大声で叫びました。空中で何かが光ったそうです。すると「ザーッ」という爆弾の落ちる独特の音が聞こえ始めました。私はどうしていいやら分からず、土間で中腰になっていると、外の山の方で「カーン」という大きい音が木霊 しました。(爆弾にしてはなんだか変だな)と思い、翌朝外に出てみると、家の北側の山の斜面に、一面に白い紙が落ちていました。手に取ろうとすると父が「あぶない!爆発する」と叫びました。しかしそれは爆弾の一種ではなく、ただのビラのようでした。
「日本ノミナサマ、今日ハ私タチハ爆弾ヲ落トシニキタノデハアリマセン。お国ノ政府ガ申シ込ンダ降伏ノ条件ニツイテオ知ラセシマス...」
という書き出しで、日本がポツダム宣言を受託して、無条件降伏することになったことを綿々と難解な日本語で書き連ねてありました。高知市の中央を狙って落としたものが、行き過ぎて、市の西北の私たちの小さな村に落ちたのです。無論私たちは敵のデマ宣伝だと思い込み信用していなかったのですが、しかしその事実は、翌日の玉音放送によって現実のものとなったのでした。こうして9月に入った最初の満月の夜は何時に無く美しく冴えて、15歳の少年だった私はただ無心に歩きました。新時代への不安と期待の入り乱れた彷徨でもありました。
戦中から戦後にかけての一時期を過ごした故郷のことは忘れられず懐かしく、今回再び訪ねてしまったのです。戦時中父がよく自転車で通ったコースを通ってみました。JR朝倉駅に近いところに朝倉神社があり、父はよくその境内から北に入っていました。朝倉神社は昔のままにありました。父はこの神社を「木の丸様」と呼んでいましたが、昔は神殿の前に立派な台を置いて石を祭ってあったそうです。今になって(もしや隕石ではないだろうか、、、?)との期待もあったのですが、それらしいものは見つかりませんでした。まず参道の巨大な杉の木には驚かされました。樹令は恐らく千年はあるでしょう。かなり長い立派な杉の参道が続いて、やがて神殿が現れました。神殿の側壁に中国の風景らしい大きな立派な絵が書いてありました。私も幼い頃から父に連れられて、この道を何度も歩いて田舎に通ったことでした。(はたして郷里の家は見つかるだろうか?)不安を抱えながら神殿を拝み、幼い頃の記憶を頼りに歩き始めました。

巨大な杉の老木のある参道

珍しい絵の書いてある神殿
あれは確か終戦の前の日だったと思います。夜中にB-29の爆音が聞こえてきて庭で空を見ていた父が「しまった!ここへ落ちた」と大声で叫びました。空中で何かが光ったそうです。すると「ザーッ」という爆弾の落ちる独特の音が聞こえ始めました。私はどうしていいやら分からず、土間で中腰になっていると、外の山の方で「カーン」という大きい音が
「日本ノミナサマ、今日ハ私タチハ爆弾ヲ落トシニキタノデハアリマセン。お国ノ政府ガ申シ込ンダ降伏ノ条件ニツイテオ知ラセシマス...」
という書き出しで、日本がポツダム宣言を受託して、無条件降伏することになったことを綿々と難解な日本語で書き連ねてありました。高知市の中央を狙って落としたものが、行き過ぎて、市の西北の私たちの小さな村に落ちたのです。無論私たちは敵のデマ宣伝だと思い込み信用していなかったのですが、しかしその事実は、翌日の玉音放送によって現実のものとなったのでした。こうして9月に入った最初の満月の夜は何時に無く美しく冴えて、15歳の少年だった私はただ無心に歩きました。新時代への不安と期待の入り乱れた彷徨でもありました。
戦中から戦後にかけての一時期を過ごした故郷のことは忘れられず懐かしく、今回再び訪ねてしまったのです。戦時中父がよく自転車で通ったコースを通ってみました。JR朝倉駅に近いところに朝倉神社があり、父はよくその境内から北に入っていました。朝倉神社は昔のままにありました。父はこの神社を「木の丸様」と呼んでいましたが、昔は神殿の前に立派な台を置いて石を祭ってあったそうです。今になって(もしや隕石ではないだろうか、、、?)との期待もあったのですが、それらしいものは見つかりませんでした。まず参道の巨大な杉の木には驚かされました。樹令は恐らく千年はあるでしょう。かなり長い立派な杉の参道が続いて、やがて神殿が現れました。神殿の側壁に中国の風景らしい大きな立派な絵が書いてありました。私も幼い頃から父に連れられて、この道を何度も歩いて田舎に通ったことでした。(はたして郷里の家は見つかるだろうか?)不安を抱えながら神殿を拝み、幼い頃の記憶を頼りに歩き始めました。

巨大な杉の老木のある参道

珍しい絵の書いてある神殿

