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2006年03月28日

足摺に行きました(2日目)

 足摺(あしずり)方面に旅して2日目、天気予報では曇りのち雨ということでしたが、この日は朝から見事な快晴に恵まれました。
 昨夜夕暮れ時に見た入り江の古い油絵のような景観が朝日を受けた海の景色は、何と新鮮な水彩画のように蘇りました。深い眠りに落ちていた入り江に朝日が射すと、いままで気づかなかった渚の風景が一層の輝きをもって活動を開始しました。
 朝10時に宿を出発し、半島の海岸にそって南の渚を走りました。途中で5年ほどの昔、一度訪れたことのある「臼ばえ」という釣りの名所に立ち寄りました。まるで竜宮城にでも来たのではないか?と、思われる美しい海と奇岩の屹立する景色には思わず息をのみました。釣り人のみの知る隠れた名所でしょうか。100メートルほどの高さの展望台からの景観は正に絶景です。そして少し東に走ると「叶え崎(かなえざき)」を過ぎ、足摺岬を回って四万十市(しまんとし)に達します。途中眺めた「大岐の浜(おおきのはま)」の美しさは何度見ても新鮮なものを感じます。昔、都会からの業者によって、この美しい海岸がリゾート都市に開発されようとしたことがあったそうですが、大自然の美しさはいつまでもそのままの姿で残って欲しいものです。夜になったら、この浜の空にはどのような星が展開されるだろうか。風景の綺麗な所に輝く星は、ことのほか美しいと言われています。いつか星の輝く夜に、この大岐の浜を訪れてみたいと思いました。

奇岩の乱立する臼碆(うすばえ)の海


夢のように美しい大岐の浜

2006年03月27日

足摺に行きました

 急に足摺(あしずり)半島の海が見たくなって、春うららの午後高知県幡多郡大月町(はたぐんおおつきちょう)にやってきました。この付近のイナン海岸は今からざっと20年も昔、かのハレー彗星がやって来た頃1度来た事があり、南の斜面に海の見える樫西(かしにし)公園なんかが、観測に絶好の場所でした。四国も最南端で熱帯性の樹木に覆われた半島は強い太陽に輝き、いかにも南にやって来たとの実感が湧いてきました。昔から土佐に伝わる”わらべうた”に「大月灘桃色」と言うのがあり、高知市付近でも子供たちによく歌われました。大月町付近の海は珊瑚の産地で蒼い海がももいろに輝いて見えるというのです。
 当時土佐を治めていた山内の殿様は珊瑚を幕府に献上させられるのを恐れて「大月の海で珊瑚が取れるのを言ってはならぬ」とのおふれをだしました。しかしいつの間にかそのことが徳川幕府の耳に入り毎年珊瑚を献上しなくてはならなくなったというもので、それは地元の海人(あま)が言いふらしたということになりました。大月灘に打ち寄せる波の音は、今もその事を語りついでいるように思われました。その夜泊まったホテルにもさすが見事な珊瑚のネックレスその他の装飾品が売られていました。
 近代的なホテル「ベルリーフ大月」の部屋から眺める海は正に絶景でした。入り江に打ち寄せる波は静かに砂浜と戯れ、沖には小さな島が見事な影絵となって慕色に浮かんでいました。夜になって低い山に囲まれた入り江に漆黒の闇が訪れました。なんという暗さでしょうか、見渡す限り一点のともし火もありません。空は曇っているのか、一つの星すら輝かず、全くの闇地獄です。空も海も真っ暗闇、背後の大月町あたりの灯りでかすかに空の一部が白く光っているのでしょうか。雲さえ真っ黒です。そして恐ろしいほどの静寂。「ああこのような暗い場所で観測ができたら、、、」と、ふと嘆息を漏らしました。
 明日は日本列島で黒潮の真っ先に到着する場所と言われる足摺半島の「臼はえ」という別天地に行ってみましょう。赤い奇岩が黒潮と激突する豪快な海岸で、特別に「気」の漂う場所でもあります。

ホテルから見た大月灘の入り江

2006年03月06日

小岩井農牧場天文台を訪ねました

 岩手県を訪れて3日目、昨夜は花巻の温泉に泊まりました。あたりが一面雪景色の露天風呂で、暗い空には星が輝きとても寒そうでしたが、不思議と空気が暖かいのはどうしてでしょう。誰もいない静かな湯に浸かって空を仰ぎ、かつて宮沢賢治もこうして同じ湯に浸かり星を眺め創作の思いを練ったのではないか、と思ったりしました。
 6日の午前中は酒井栄さんの車、菅原寿さんの解説で、義経最後の地と言われる平泉の名所を見物し、午後は花巻の賢治の記念館を見学しました。
 その後立ち寄った雫石町の小岩井農牧場では昔OAAの会員で、コメットブレテンも読んでいたと言う狐崎幸一さんらとお会いし、天文の施設も見学しました。長さが10mを越えるようなヘベリウス式の空気望遠鏡や、珍しくNikonの20cm屈折赤道義の完璧な姿に感動しました。日本でこれが健在なのは5基くらいでしょうか。見渡す限り白に染まった牧場、その遥か彼方に真っ白に輝く雄大な岩手山。そして伝統あるニコンの望遠鏡。それはこの岩手県のシンボルであり、どっしりとして、日本のよきものを見たような良い気分でした。
 元は講演の旅でしたが、地元の人たちの暖かい友情と美しく雄大な雪景色が、強い印象として、いつまでも心に残りました。

小岩井農牧場天文台の20cm望遠鏡の下で

2006年03月05日

田中館愛橘博士が小惑星に命名されました

 今日は二戸市の田中館記念科学館を見学しました。同時に小惑星命名の記念行事があり、市長も参列してのTanakadate命名の報告を行い、その資料をお渡ししました。木村栄氏や寺田寅彦の先輩でもあったAikitu Tanakadateの星が誕生したわけです。人口3万人ほどの北の小さな町に聳える近代的な施設はまさに文化のシンボルです。寺田寅彦のような偉人を出しながら、科学者としての彼の業績を顕彰するような科学施設のひとつも無い土佐を思い、一抹の寂しさを禁じえませんでした。
 今日は地元のイーハトーブ宇宙実践センターの主催による懇親会が和やかに開かれました。国立天文台の先生も数名見え、中には神戸から駆けつけた山田義弘さんや、もと五藤光学の石井さんの顔もあり賑やかでした。地元の戸村茂樹さんが緯度観測所の元職員だった山崎正光さんのことを詳しく紹介し、今は入手不可能となった山崎さんの珍しい本を出し注目させられました。昭和の初めの頃の出版で、人気が高く10版を重ねたとあります。題は英文で書かれた「望遠鏡の作り方」でカラーの美しい表紙です。内容は反射鏡の研磨法をかなり詳しく書いてあり、同時に出品された中村要さんの「天体写真撮影法」と良い対照でした。
 地元の人によると山崎さんが緯度観測に従事した記録が無いということですが、あとで戸村さんが送ってくださった資料によると、山崎さんは二人一組による交代制で天文台の仕事に忙しかったことを述べておられます。そして水沢はお天気が悪くろくに彗星の捜索ができなかったことも書いています。しかし突如として起こった1928年10月27日の彗星発見。そのいきさつについてもかなり詳しく語っています。山崎さんはアメリカで1910年のハレー彗星を見るために磨いた8インチ(20cm)の反射望遠鏡で、その頃からすでに彗星の捜索をやっていたそうです。場所は留学先のリク天文台だったそうです。そしてその鏡は日本に持ち帰って独特のスタイルのコメットシーカーを作ったわけですが、山崎さん自身これを日本での第1号の鏡と言っていますので、研磨は確かに中村要氏より早かったようです。
 この鏡は今どこにあるのか?一説によると愛知県の親友だった山田達雄氏が買い取り、星野次郎氏によって修理研磨が行われたことになっていますが、詳細は不明です。山崎氏は捜索のとき、7インチに絞って使用していたといいますから、確かに鏡面の精度は良くなかったようです。1955年頃私が実際に覗いたところ、30倍のラムスデン式のアイピースは視野が狭く(1度10分)周辺のかなり崩れる像でした。1年くらいの捜索で彗星に行き当たったそうですが、私には奇跡としか思えませんでした。
 いずれにしても、それまで日本人ではだれもやらなかったことをやったことは偉大で、まさに天文人としての先覚者だったと思います。
 山崎氏のエピソードは尽きないですが、いずれまた語りましょう。

左 中村要氏の「天体写真術」    
右 山崎正光氏の「望遠鏡の作り方」


科学画報昭和4年3月号
に載った山崎正光氏
の発見記(戸村茂樹氏提供)

2006年03月04日

水沢の天文ファンと交流しました

 奥州市水沢区での天文公演を終え、岩手県の多くの天文愛好家と懇親の機会を得ました。会を開催するにあたって地元の酒井栄氏や、元国立天文台の大江昌嗣先生に大変なお世話になりました。会場には学生よりも、一般の人々約250人が集まり、会の終わったあとに色々な熱心な天文のファンと交流することができました。
 池谷・関彗星の発見のことも語りましたが、特筆したいのは41年前にハバナ市の「ホセ・M・カレヨ」さんによって作曲された"Ikeya-Seki"の曲が、この会場で初めて演奏されたことです。パソコンによっておたまじゃくしを拾って演奏するという、極めてユニークなものでしたが、原曲のピアノの音が高らかとこの会場に響き渡り、太陽に大接近したあのときの彗星の面影を彷彿とさせました。そして講演する私の頭にも、彗星を語る思いもよらない発想が浮かび熱弁することができました。
 岩手県に滞在した3日間で人と交わした名刺はざっと30枚で、多くの人と会えて見聞を広めることができたのは大きな収穫でした。
 78年前、山崎正光技官が彗星を発見したのはこの水沢で、その資料は少ないですが、熱心な地元の方が保存していた文献に意外なものがありました。
 天文台構内で78年前山崎技官が捜索していたらしい場所に立つと一面の銀世界で、今は遠くなったが、遥かに霞む岩手山がその事実をしっかりと物語っているようでした。
 この夜の懇親会である古い地元の天文家が、山崎さんを語る意外な珍しいものを持ち出してきました。
 では、今日はこの辺で。明日は花巻の宿です。

地元の星の会の人々と懇親会
3月3日撮影


国立天文台の先生方を中心とする水沢区の人々と懇親会
3月4日撮影

2006年03月03日

木村記念館を見学しました

 永い間夢に描いていた旧・水沢の緯度観測所にやってきました。
Z項で有名な木村栄(きむらひさし)博士の活躍した古い建物や「木村記念館」も見学しました。酒井栄氏の案内、国立天文台の亀谷氏のご説明で、今の新しい施設の多くを見学しました。恒星の視差を測る巨大な電波望遠鏡が曇り空の中、宇宙に向って稼動している姿に時代の変遷を感じました。木村記念館には博士が就任当時使っていた古い机がそのまま残されていました。Z項発想はこの机に座っている時、何気なく引き出しを引き出したとき、その中から生まれたといいます。私も同じように座って引き出しを引いてみました。何もありません。そうです"Z"項には特別に理論はなく、XとYからなる観測式に、実験的にZという補正項をつけただけだったのです。それによって観測の結果が他と良く調和する事になったわけで、原理は簡単でも素晴らしい発見です。そして机の上には、木村博士が多くの観測式を最小自乗法で計算する時使用したという五つ球のソロバンが置かれていました。
当時天文台の技師だった山崎正光氏によると博士はソロバンの名人だったそうです。
 あれから80年! 全く同じに復元された清楚な部屋は緯度変化に徹した博士の象徴でもありました。天井の黄色い電灯に照らされた古い机に、何事も一筋に生きる事の大切さを学んだような気がしました。
[木村博士の机に座る関(木村記念館)]
木村博士の机に座る関(木村記念館)