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2009年04月25日

幻の”関・池彗星”

 望遠鏡制御用のパソコンの画面を見ていたら、その星図の中に22P/Kopff彗星が明け方のみずかめ座の中に輝いているのに気がつきました。それについて思い出は40年も昔に遡らねばなりません。
 「セキ・イケ彗星」などと言う彗星は無論ありません。しかし1960年代には生まれる可能性も無きにしもあらずでした。即ち高知市の私と土佐市(高知市から西約15km)在住の池幸一(いけ こういち)氏とは、お互いにライバルで、盛んに捜索合戦を繰り広げていました。
当時私は例によって口径9cmの屈折式コメットシーカーを使い、池氏は一回り大きい口径12.5cmの屈折を、彼独特の床の回転する天文台にこもって、主に夜明け前の東天を捜索していたのでした。空も良く、器械も満点、「今度彗星が現れたら、きっとわっしのものぞ、ふふふ、、、」と持ち前の大きい目をいつもギョッロと光らして意気込んでいるのでした。
 さて事件の起こったのは1964年4月25日の早暁のことでした。この朝、非常に良く晴れた星空を無心に捜索していた私は、午前3時半ごろ、みずかめ座の中にモーローとした9等級の彗星様天体を発見しました。星図には無論無く、明るい彗星の予報もありません。それから30分近く位置の観測を続けていたら、突然表の門戸をどんどんと叩く人がいます。びっくりして開けてみると、そこに顔面蒼白になった男が突っ立っています。明らかに池さんです。そして「関さん!とうとう見つけた!」と大変に高ぶった様子で言いました。
 私は(きっと池さんも同じものを発見したに違いない)と思って、部屋に入り、お互いの天体を照合すると、確かに池さんも私も同じ天体を発見したことになります。予報もありません。そこで池さんの提案で、この星に仮に”セキ・イケ彗星”と命名して、午前6時に東京に打電しました。その翌日には、浜松の池谷さんも発見して電報を打ちました。
 結果は有名な周期彗星の22P/Kopffが、増光したものであることが東京天文台からの返電で判明しました。当時コップ彗星がBAAのハンドブックに14等級の予報で出ている事は知っていました。しかし急激な突然の5等級の増光によって、まんまとだまされたわけです。そのような例は1955年のペライン彗星の時にもありました。新彗星の筈のムルコス彗星が、軌道の調査の結果、永い間行方不明中のペライン彗星であることが判明し”ペライン・ムルコス彗星”になったのです。
 それにしても50年近く彗星を愛し、探し続けた池さんは、今頃どうしているのでしょうか? 数々の彼の武勇伝を思うとき、その代償は余りにも小さく、その後、芸西で発見した小惑星に(21022) Ikeとして友情の命名をしました。
 1965年10月21日、「池谷・関彗星」が太陽にキッス?したとき、白昼暗室を作って、独特のアイデアで観測したことは永遠に残る良き思い出となりました。
 星を追って山に海に東奔西走、冒険好きで物好きだった池氏の隠れた功績は彼の星が頭上に輝く限り尽きません。


白昼「関・ラインズ彗星」を追う池幸一氏(左)と関
1962年4月撮影

2009年04月05日

地球33番地

 ここ高知市のほぼ中央を流れる江ノ口川の下流に近い弥生町に「地球33番地」という珍しい名所があります。
 これは東経と北緯がすべて33で交わる交点で、その正確な場所は川幅が30mほどの狭い流れの中にあります。ここに記念碑が建ったのは30年ほど前ですが、比較的最近、新しく地球儀の形をしたジュラルミン製の新しい記念碑が浮かび上がりました。
 1965年に「池谷・関彗星」を発見した頃に、この近くに或る新聞社の記者が住んでいました。彼は、事あるたびに取材にやってきていい文を書いてくれましたが、面白いことに自分の名刺に"地球33番地の近傍"と書いていました。なぜなら、この辺の町は、実にごちゃごちゃとした、分かりにくいところで、”地球33番地”の方がよほど分かりやすかったのでしょう。
 一度、彼の家を訪ねた時、間違って一つ南の通りの同じ場所に行きました。ところが、その家の庭に立派な赤道儀の天体望遠鏡が2台並んで座っていました。無論知らない家ですが、世間には人知れず、天体の観測をやっている方も居るものですね。無論私も最初の星「クロムメリン彗星」を発見した頃には、私は誰も知らないずぶの素人で、中央からの発見のニュースで知った高知新聞の報道副部長が、夜っぴて散々探し回って、私の家を探し当てました。そして、翌日の朝刊にニュースがやっと間に合ったそうです。
 そのような思い出を辿りながら、ポケットからスパイカメラのガミ16を出して撮影しました。エサミター25mm、f1.9レンズの描写はどうでしょうか。遠景の細かいディテールが見事に描き出されました。


地球33番地の記念碑
ガミ16で写す

 私の愛機Gami 16は、ミラノのガリレオ社の社長"ガリレオ・ガリレイ"氏に修理を依頼しなくても、まだまだ完全に動いているようです。


ミラノのガリレオ社の作ったスパイカメラのガミ16

2009年04月02日

荒城の月ファンタジー

 天文台に行く車の中で、FM第一放送を聞いていたら、ある日本の有名なソプラノ歌手が、日本古来の名曲「荒城の月」を独唱していました。久しぶりに聞くピアノ伴奏の素朴なこの曲はいいですね。本当に日本人の魂が通い、心の安住の地を得たたような気がしました。
 この土井・滝、名コンビの名作が、日本の音楽の教科書から消えるとき、それを惜しんで、私はある星に"Koujounotsuki"と命名して国際的に認可されました。作曲した滝廉太郎は若くしてこの世を去りましたが、詩人の土井晩翠は永く生きて多くの詩を残しました。
 荒城の月のモデルになった古城は、仙台の「青葉城」とか、九州の「岡城」とか言われていますが、私に言わせると、これはもしかしたら「大高坂城」即ち今の「高知城」ではなかったか?との淡い疑問を持っています。なぜなら晩翠の夫人は高知市の方で、晩翠は時々高知にやってきて、講演したり、また、山内容堂公の居城だった「高知城」を訪れたこたがあると想像されるからです。月の明るい晩に古城のほとりを歩いていたら、あの名詩に書かれている情景がそのまま再現されます。特に三の丸に近い、北側の石垣の径を歩いていたら、薙刀を持った武士が月光に影絵となって歩いて来るような錯覚も覚えます。そして月で明るい夜空に鳴き行く雁の群れ....。
 そうです、私の通っていた、旧制中学校はこの土井晩翠の作詞でした。

 ♪ 筆山吸江近くにありて
    明朗我らが環境うれし
     至誠を奉じて不断の励み
      学業報国我らが理想 ♪....。

 この歌詞は戦時中に作られたのですね。

 その大高坂城は今が桜の真っ盛りです。午前中のひと時、歩いてお城に上がってみました。見事です。花を見ていたら、県外からの観光客と思われる中年の女性から、
「坂本竜馬記念館はどちらに行ったらよいでしょう?」
と尋ねられました。
「私もそちらの方にかえりますから、途中までご一緒しましょう。」
と言って、案内することにしました。実は、1回も行ったことのないこの記念館は私の家から歩いて2~3分のところにあるのです。
 電車通りを歩いていたら、折りよく竜馬の生家の前に来ました。子供の頃は、ここが空き家になっていて、よくガキ大将らとほたえ(・・・)て遊びました。恐れ多くも坂本先生の生まれた家は戦前には子供の遊び場になっていたのです。目的の記念館はここから歩いてほんの200m。ここで観光客と別れて、家路に急ぎました。
 久しぶりの澄んだ青空に、道路脇の並木の桜が、早くも散り始めていました。


高知城と桜