2016年09月11日

竜串が星になりました

 高知県も西部の足摺半島に近い海岸「竜串(たつくし)」が芸西天文台で発見された小惑星に命名されました。即ち(12335) Tatsukushi = 1992 WJ3 です。足摺の美しい海に突き出た巨大な奇岩が印象的で海中展望塔もあり、この辺の海に住む色とりどりの熱帯魚も海中でガラス窓越しに見ることが出来ます。私は30年ぶりにこの地を訪れ、感動を新たにするとともにその景観を宇宙でも輝かせてもらうことにしました。
 1986年には、この近くの海岸でハレー彗星の観測会も開かれました。多くの人を感動させ、青い海の彼方に消えて行った彗星がふと昨日のことの様に思い出されました。遠い水平線を見つめていると、死んだ友人が詠んだこんな詩を思い出しました。
(彗星)
永遠の瞬間を旅する者の事
何もかも青い海の彼方に泳いでいったよ
ボロボロの貝殻を渚に残して


竜串の海岸

2010年03月22日

お城は花盛り

 春爛漫とまでは行きませんが、高知城のある「高知公園」は桜満開で物凄い人出です。NHKで「竜馬伝」が放映され、地元では「出会い博」も開催されている関係もあって、特に県外からのお客さんが目立ちます。松の間に見えるお城は「大高坂城(おおたかさかじょう)」の名で小惑星に登録された「国宝、高知城」です。最後の殿様は山内容堂(やまうちようどう)公で、その頃城下に居た坂本竜馬(さかもとりょうま)は下級武士だった関係で、お城には出入りしなかったものと思います。名曲「荒城の月」のモデルとなったお城はいくつか有りますが、高知城もその一つではないか、と考えたのは作詞者の土井晩翠(どいばんすい)の親戚が高知市に有って、彼は度々このお城を訪ねたことがある、と思うからです。


高知城(大高坂城)

 夜は桜の下に無数のぼんぼりが灯されて、夜更けまで宴会を楽しむ人の姿が見られます。この紅いぼんぼりを見たとき幼なかったころの思い出が蘇りました。母に連れられて夜桜を見に来た記憶です。遠い記憶に残っているのは暗い夜空に浮かぶ紅いぼんぼりと、暗い夜道を手を引かれて帰った怖かった思い出です。一寸先も見えぬ闇のなか、監獄の白い高い塀の下を通るとき、傍らの草むらの溝で鳴いていたキリギスの高い泣き声が今での耳の底で泣き続けています。
 私が初めて星と出会った思い出は、それから5年後の小学校3年生の時でした。紅いぼんぼりと同じように、赤鬼山の上に輝く「オリオン星座」が凄絶なまでに眼底に焼き付いています。


高知公園のぼんぼり

2009年12月04日

越前岬と大岐ノ浜が命名されました

越前岬と大岐ノ浜が命名されました。即ち、
 (65716)Ohkinohama
 (65894)Echizenmisaki
です。
 いずれも芸西の旧60cm時代に発見した小惑星で暗い星です。

 10年余り前だったでしょうか。私が福井県に講演に訪れた際、観光で見た越前岬あたりの荒海の情景が忘れられずに今度の命名となりました。

 また「大岐ノ浜」は足摺半島の余りにも対照的な明るい南国的な海です。
 命名するにあたってこんなエピソードがあります。

 「東京の新宿に住む青山神春は美しい心を持った少女でした。ある日、南の青年が新しい彗星を発見した、というニュースを見て、独り星の世界に憧れました。そして3日にあげず青年に手紙を書きました。それは美しい散文詩でした。かみはるは大都会の汚れた空気のなかで、必死に美しいものを求めて生きようとしていました。そして宇宙という、これまでに考えたことの無かった世界が開けたのです。汚れを知らず、宇宙に一つの光を求めて生きる青年の姿に感動し、そして何時の間にか恋していたのです。それは神春が勝手に描いた理想の人間像であり偶像だったのです。
 そんなある日私は夢を見ました。かみはると共に海を歩いていました。昼なのか夜なのか、あたりは暗く、私たちの歩くかなたに長い渚が月光に生えて、ただ白く光っていました。夢からさめてこれは一体どこの海岸だったろう、と思いました。
 何年かたって足摺方面に向っていたとき大岐ノ浜を発見しました。それは土佐清水市の海岸でした。長い松林に沿ってややカーブしながら2キロに渉って伸びる海岸線は、正に夢に見た海そっくりでした。
 大宇宙を愛し、詩を愛し、そして世の中に美しいものを見つめて生きようとした、けなげな少女神春を偲んでこの浜を命名したのです。」

 天国へいった神春の魂は今もこの海を歩いています。


大岐ノ浜

2009年06月23日

梅雨本番です

 2日ほど雨が続いてまた晴れ間です。午前中は見事な快晴に恵まれました。
 鏡川のほとりの散歩コースを歩いてみました。小惑星(4256)として星になっている川です。左下の岩場は子供の頃「赤石」と呼んで親しんでいた場所で、坂本竜馬も幼い頃この辺で泳いだであろうと言われています。私が第四小学校に通っている頃には、学校にプールが無くて、体育の時間には、よくこの川に通って泳ぎました。跳ねと跳ねとの静かな流れのところでは、競泳もやっていました。其の頃は今と違って上流にダムも無く、水流は豊かで、川底も深かったようです。水はすくって飲めるほどに清冽で冷たかったようです。そして中学の時には、高知市がB-29による大空襲にあって、燃える我が家を後にして逃れたのも、この鏡川でした。幼い頃から親しんできたこの川の水の美しさが永遠ならんことを願って、星に命名しました。
 今日の鏡川は若葉青葉を映して、とても綺麗に見えました。


鏡川

2009年06月08日

小惑星「大高坂城」が誕生しました

 写真は大高坂城(おおたかさかじょう)です。
 これは今の高知城のことで、今から約400年前の築城時には「大高坂城」と呼ばれていました。
 今回、芸西で発見された1993 BL2と言う小惑星に(26127)Otakasakajyoと命名されることになりました。
 初代の城主は山内一豊公で、土佐24万石のシンボルとして、今日まで市民に親しまれてきました。観光客も多く1987年には中央局のB.G.マースデン博士もここを訪れました。すぐ近くの城下町には有名な坂本竜馬の生まれた場所もあります。


大高坂城

小惑星「大高坂城」が誕生しました

 写真は大高坂城(おおたかさかじょう)です。
 これは今の高知城のことで、今から約400年前の築城時には「大高坂城」と呼ばれていました。
 今回、芸西で発見された1993 BL2と言う小惑星に(26127)Otakasakajyoと命名されることになりました。
 初代の城主は山内一豊公で、土佐24万石のシンボルとして、今日まで市民に親しまれてきました。観光客も多く1987年には中央局のB.G.マースデン博士もここを訪れました。すぐ近くの城下町には有名な坂本竜馬の生まれた場所もあります。


大高坂城

2007年06月11日

講師全員が星になりました

 今年の6月、芸西天文台の講師で、元・高知大学教授の山口信之(やまぐちのぶゆき)氏が小惑星に命名されましたので、天文台の8人の講師全員が星に名を持つことになりました。全国的にも珍しいケースと思われます。

Seki (3426) 関 勉
Okamura (4505) 岡村 啓一郎
Muraoka (5124) 村岡 健治
Kawazoe (7410) 川添 晃
Shimomoto (18365) 下元 繁男
Nobuyuki (27716) 山口 信之
Kimihiro (27739) 松木 公宏
Obatomoyuki (27740) 大庭 智行

 かっこの中は星の確定番号です。番号の若い順にならべました。
 一番上のSeki以外はいずれも芸西で発見したものです。
 これらの小惑星は天文台がCCDになればいつでも観測してパソコンのモニターで眺めることができるようになります。8人の講師の名は宇宙に永遠に輝きます。それと共に天文台も永遠に活動を続けます。

2006年11月27日

豆カメラと共に半世紀

 元ミノックスクラブの会長で、ミニチュアカメラの愛好家である金井 浩さんが小惑星に命名されました。(関勉の発見した小惑星一覧表参照)。金井さんは1915年東京生れの写真家で、既に星となっている「ミノックス」カメラの研究家です。若い頃、渋谷の駅で主人を待つ「名犬ハチ公」を度々見かけて頭を撫でたと言いますからその時代が感じられます。ミノックスカメラを中心に永い事写真を撮りつづけ、多くの傑作をものにされました。90歳を過ぎる今も現役で活躍されていることは素晴らしいことです。今年の5月、京都での撮影会でお目にかかり、同じ宿でお話を聞く機会があったことは光栄でした。
 さて私とミニチュアカメラの付き合いですが、戦前の小学生のころクラスメートの可愛い赤いがまぐちの中に入っている「ミゼット」を見たのが始まりでした。

当時のミゼットを思わす豆カメラのシャラン

 幅18mmくらいの裏紙のついたフィルムを使って12枚ほど撮影していましたが、シャッターは1/25とバルブしかなく、レンズも固定絞りの定点撮影でしたが、思ったよりは良く撮れていました。このころから豆カメラへの病み付きが始まったのですが、当時は太平洋戦争勃発の前夜で、カメラやフィルムの入手の大変難しい時代でした。その頃大映系の「あなたは狙われている」という、スパイ映画が上映され、その中で登場したスパイカメラのフィルムを苦心して入手するシーンが印象的でした。
 何とか豆カメラが欲しいほしいと思いながら、場末の闇市を見回っていると、古い兵隊靴の横に「グッチー」が置いてあるのを見つけ、母にねだって購入しました。今思えばこれほど嬉しかったことは他にありません。有頂天になって、母や、クラスメートの顔を写して周りました。お陰で貴重な二度と取れない写真を撮影しました。修学旅行で京都に行った時、坂本竜馬が遭難した、河原町の近江屋の取り壊される前の写真を撮りました。戦争が激しくなってから、ますますフィルムの入手が困難になりましたが、自宅の中庭に掘った防空壕の写真はこのグッチーで写したものが、悲惨な当時を語る唯一の資料となっています。

1945年春、中庭に掘られた防空壕

 そうです!この壕の上に、戦後になって星を観測するための櫓が出来たのです。かつて敵機に慄き空を見上げていた同じ場所で、平和な戦後今度は星を仰いで新しい彗星を発見する事となるのです。  いま私の手許にあるポンコツの豆カメラは、そのまま私の歴史でもありました。戦時中高い所から高知市街を撮影していて、特高(特別高等警察)にスパイと間違えられカメラを没収された事なぞ懐かしい思い出です。当時はスパイでなくても、高い場所からの俯瞰撮影が禁止されていたのです。

2006年11月11日

小惑星「ムリカブシ」が誕生しました

 小惑星「むりかぶし」が誕生しました。
 芸西天文台で1993年1月16日に発見した小惑星13989に「Murikabushi」と命名しこのほどIAU(国際天文学連合)の小惑星センターで承認されました。
 「むりかぶし」とは沖縄地方の「星の群れ」を意味する放言で、先に完成した石垣島天文台の105cm反射望遠鏡のニックネームとなっています。
 国立天文台が民間の協力を得て運営されるという、今までにない珍しい、そして微笑ましい光景に感動した関が提案したもので、「むりかぶし」の星は石垣島天文台のシンボルとして今後永久に天文台の空に輝くことになり、星の輝く限り天文台は不滅です。
 今後沖縄の空に光るこの天体を是非石垣島天文台のテレスコープでキャッチして欲しいと思います。そしてこの天文台を愛する石垣島の人々に夢をもって戴きたいと思います。
 私は沖縄を知りませんが、いつの日にか、石垣島を訪ねてみたいと思っています。

2006年03月05日

田中館愛橘博士が小惑星に命名されました

 今日は二戸市の田中館記念科学館を見学しました。同時に小惑星命名の記念行事があり、市長も参列してのTanakadate命名の報告を行い、その資料をお渡ししました。木村栄氏や寺田寅彦の先輩でもあったAikitu Tanakadateの星が誕生したわけです。人口3万人ほどの北の小さな町に聳える近代的な施設はまさに文化のシンボルです。寺田寅彦のような偉人を出しながら、科学者としての彼の業績を顕彰するような科学施設のひとつも無い土佐を思い、一抹の寂しさを禁じえませんでした。
 今日は地元のイーハトーブ宇宙実践センターの主催による懇親会が和やかに開かれました。国立天文台の先生も数名見え、中には神戸から駆けつけた山田義弘さんや、もと五藤光学の石井さんの顔もあり賑やかでした。地元の戸村茂樹さんが緯度観測所の元職員だった山崎正光さんのことを詳しく紹介し、今は入手不可能となった山崎さんの珍しい本を出し注目させられました。昭和の初めの頃の出版で、人気が高く10版を重ねたとあります。題は英文で書かれた「望遠鏡の作り方」でカラーの美しい表紙です。内容は反射鏡の研磨法をかなり詳しく書いてあり、同時に出品された中村要さんの「天体写真撮影法」と良い対照でした。
 地元の人によると山崎さんが緯度観測に従事した記録が無いということですが、あとで戸村さんが送ってくださった資料によると、山崎さんは二人一組による交代制で天文台の仕事に忙しかったことを述べておられます。そして水沢はお天気が悪くろくに彗星の捜索ができなかったことも書いています。しかし突如として起こった1928年10月27日の彗星発見。そのいきさつについてもかなり詳しく語っています。山崎さんはアメリカで1910年のハレー彗星を見るために磨いた8インチ(20cm)の反射望遠鏡で、その頃からすでに彗星の捜索をやっていたそうです。場所は留学先のリク天文台だったそうです。そしてその鏡は日本に持ち帰って独特のスタイルのコメットシーカーを作ったわけですが、山崎さん自身これを日本での第1号の鏡と言っていますので、研磨は確かに中村要氏より早かったようです。
 この鏡は今どこにあるのか?一説によると愛知県の親友だった山田達雄氏が買い取り、星野次郎氏によって修理研磨が行われたことになっていますが、詳細は不明です。山崎氏は捜索のとき、7インチに絞って使用していたといいますから、確かに鏡面の精度は良くなかったようです。1955年頃私が実際に覗いたところ、30倍のラムスデン式のアイピースは視野が狭く(1度10分)周辺のかなり崩れる像でした。1年くらいの捜索で彗星に行き当たったそうですが、私には奇跡としか思えませんでした。
 いずれにしても、それまで日本人ではだれもやらなかったことをやったことは偉大で、まさに天文人としての先覚者だったと思います。
 山崎氏のエピソードは尽きないですが、いずれまた語りましょう。

左 中村要氏の「天体写真術」    
右 山崎正光氏の「望遠鏡の作り方」


科学画報昭和4年3月号
に載った山崎正光氏
の発見記(戸村茂樹氏提供)

2005年09月21日

’野口英世’さんが小惑星に命名されました

 昨日の夕、天文台に行きました。目的は先の台風13号による被害の修理と夕空の満月後初の観測でしたが、あいにく雲が多くて観測になりませんでした。60cm反射望遠鏡は故障から後、リモコンが使えたり使えなかったりしています。これはどうやらスイッチのあるリモコンボックスの中の接触不良が原因らしいですがはっきりした事は分かりません。昨晩は正常に働いていました。いつ故障が起こるかも知れぬと言う何か爆発物の処理でもしているような、ヒヤヒヤものです。とくに大事な観測中はいつガイドが不可能になるかも知れないという不安が大きくのしかかっています。
 今朝福島県の佐藤裕久さんからのFAXで、かねてからIAUに申請してあった野口英世さんの名が芸西で発見した小惑星(9964)に命名されたことを知りました。ただしアメリカ人には日本人の名は難しいのか、HideyoがHideoになっていました。早速訂正を申しいれたのですが。
軌道計算ではマースデン氏の先輩に当たる廣瀬秀雄さん(元東京天文台台長)が居られ、その名に馴染みがあったのかもしれません。外国では日本人の名を良く間違えるらしく、その廣瀬先生の談によると、往年盛んに軌道計算をやっておられた日本の長谷川一郎氏と古川麒一郎氏のご両人が同一人物になっていたそうです。お二人の名前をローマ字で並べてみると、なるほどと思わせられます。
 Itirou Haswgawa
 Kiitirou Hurukawa
ざっと見ると大変良くにています。古川さんは頭文字を"F"ではなく"H"を使われましたので余計雰囲気が似てしまったのです。ご両人とも世界的な軌道の研究者であられることは周知の通りです。
 いずれにしても私が小学生のころから尊敬し愛していた苦難の大医学者、野口さんの名が星空に永遠に輝くことになったことに大きな喜びを感じます。

2005年04月13日

 昨12日下元繁男(

 昨12日下元繁男(しももと しげお)さんが久しぶりに来られ話が弾みました。
このホームページに多大の協力をして下さっている下元さんと、オーストラリア在住の加藤英司(かとう えいじ)さんの名が芸西天文台で発見した次の小惑星に付きました。かねてからIAU(国際天文学連合)に申請してあったもので、お喜び申し上げます。
(10094)Eijikato =1991 DK  1991 Feb.20 by T. Seki (Geisei)
(18365)Shimomoto=1990 WN5 1990 Nov.17 by T. Seki (Geisei)
 写真は加藤さんの小惑星を発見した年(1991)のもので、二重露出(1回露出し、少し時間を空けてテレスコープ(望遠鏡)を僅かに北にずらし、もう1度露出)することによって、太陽系の移動天体が容易に見つかるわけです(他の恒星に比べて小惑星は斜めに移動して写っている)。彗星もこのような方法でパトロール(捜索)しています。芸西では1982年以来約1500個の小惑星を検出し、この中の222個が確定(ナンバーがつけられる)しています。芸西では今もパトロールを続けていますが、明るいものはほとんど発見され尽くして、18等以下の暗いものに僅かな望みがあります。
 これら2つの星は夏頃に衝を迎えて接近します。16等弱で小さい望遠鏡でも撮影できそうなのが魅力です。
[小惑星(10094)Eijikatoの発見写真]
小惑星(10094)Eijikato の発見写真
1991年2月23日
3時7分から14分間と3時22分から16分間の二重露出
芸西天文台60cmF3.5反射望遠鏡 TP6415フィルム