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2004年07月29日

コメットシーカーの怪(5)

 それから10年が経過しました。小石木山の怪火のことは、何時とはなしに人びとの心の中から消えていきました。しかし私の心の中には、その不審火は何時消えるともなくチョロチョロと燃え続け、日と共に月とともにその疑念は深まるばかりでした。
 燃え盛る赤い炎に照らされ、不敵な笑顔さえ浮かべて立ち去って行った犯人。それは一体何処の何者なのか?何の目的の放火なのか。単なる世間への挑戦なのか?
 家から小石木山の頂上まで2Km、200倍の望遠鏡で見たとすると、なんと犯人は10mの距離から顔を見られていた事になるのです。まさか犯人も、この私に遠くから顔をはっきりと見られていたとは、夢にも思っていますまい。
 蒼い戦斗帽を冠り労働服を着た男の姿は、「どっかで見た顔だ。」と思いましたが、その時はどうしても思い出せませんでした。ところが事件は意外なところで急展開しました。
 それは夏も近いある晩春の午後でした。その日は日曜日で、私は例によって高知城下にくり広がる市場の見物に出かけました。八百屋あり、海産物あり、植木あり、骨董品あり、犬猫ありのさまざまな見世物(?)を、ただ歩いて見て回るだけでも結構楽しいし、時間もかかります。こうした”市ぶら”のなかに、ふと意外な人に遭ったり、珍しい物品を見たりします。それは漬物屋のテントの前を人にもまれながら歩いていた時でした。どっかで「オーイ関!」と何者かが呼ぶのです。「一体誰だろう?私を呼び捨てにする人間はよほど親しい人しかいないのだが....。」と思いながらあたりを見回したのですが、知った人なんか誰もいません。だまって行き過ぎようとすると、またしても「関やん、待ちたまえ。わっしだよ。」と何者かが呼ぶのです。その声にはどこかで聞き覚えがありました。しかし私の知っている人は誰もいず、テントの中には一人の戦斗帽を冠った農家らしい日焼けした中年の男が、じっと私の顔を見詰めているのでした。
 (つづく)

2004年07月23日

コメットシーカーの怪(4)

 今の自宅の観測所(MPC 370)は1950年代には15cmの反射を使用していました。その頃の高知市は人口18万人で公害も少なく、今の芸西より空は良かったほどです。観測所から東南に有名な筆山(ひつざん)があり、その右手に皿が峰、小石木山などの低い峰が連なっています。
 奇妙な事件は1950年代の終わりごろから起こり始めました。即ち火の気の無い深夜の皿が峰一帯の山で盛んに火事が起こり始めたのです。これはどうやら放火の疑いもあるとて毎夜消防や警察が張り込んでいましたが、怪火はまるで捜査陣の裏をかくように起こり続け、ついには同時に二箇所以上で発生したりして、どうもこの道のプロが時限装置を使って火事を起こし、遠くからそれを見て楽しんでいる様にさえ思えるのでした。そして犯人は遂につかまらず、永久に未解決の事件として、犯罪史に残るようになったのです。
 今から30年ほどの昔"草加次郎"と名乗る人物がいて、怪盗ルパンまがいに捜査網を撹乱して逃げまわっていましたが、どうやらこの放火魔も、それと共通に、犯罪を楽しんでいるようにさえ思えるのでした。
 『犯罪を予告する。警察の捜査網が迫ってくる。しかしそこには誰もいず、まんまと物取りを成功させた男の証拠のみが人をあざ笑うかのごとく残されている。』
 "草加次郎"の名は新幹線を利用した犯罪の大捜査を最後に、永久に姿を消す事よなりました。
 今回の放火事件で私はふと今は多くの人から、忘れさられたこの猟奇な事件を思い出したのです。ところが本当に誰も、放火犯を知らなかったでしょうか?
 1959年の暮れも近づいた12月上旬のことです。私は例によって自宅庭の観測所から夜明け前1時間の東南の空を捜索していました。ところが、その問題の山からパッと火の手が上がったのです。距離は直線で2Km。私は反射的にコメットシーカーを火事の方向にむけました。そこにはメラメラと燃え上がる赤い炎に映し出された犯人と思しき人物の顔があったのです!私はただちに望遠鏡の倍率を200xに上げてみました。戦斗帽を冠りナッパ服を着た農夫か、労働者風の中年風の男は火事を見届けると、風の如く現場から立ちさっていきました。
 (つづく)

筆山の月
自宅の観測所(MPC 370)から

2004年07月22日

隕石落下か?高知市揺らぐ

 あまりに異常な音だったので、びっくりしました。
 7月22日午前1時15分~17分頃、天地に何か異変が起こったような、大気の引き裂けるような音響とかすかな振動が走りました。その時私は3階の書斎でパソコンを操作していました。咄嗟に東の窓から外を見ましたが、深夜の空はただ暗く何も異常に気がつきませんでした。後で知ったのですが、その時妻は下(二階)でTVを見ていたそうですが、やはり音響に気づき、なにかが倒れたかと思ったそうです。
 さて事の次第が判明したのは、安芸市の漁港にいた横山 恵さん(ほか一人)の目撃情報です。私は音を聞いたとき、もしかしたら隕石の落下ではないかと思ったのですが、やはり横山さんらは、1時15分頃西方(高知市は安芸市から西方に約50Km)に3回ほどスパークしながら落ちて行く大火球を目撃し、その約1分後にズシーンと、地鳴りのような音響を聞いたそうです。まさか大流星とも思わず、横山さんは、「これはただ事ではない」と、怖かったそうです。以上の事から火球である事には99パーセント間違いないと思います。問題は、はたして隕石として落ちたかどうかと言うことでしょう。目撃談によれば、地上で花火のように散り暗くなったそうですが、地上で消えたのか、あるいは暗いまま地表または海に達したのか、その辺は判然しません。
 10年ほど前でした。芸西天文台の60cm反射望遠鏡の観測所ドームで観測中、突然ドームの中が昼間のように明るくなり、何分か後でゴーンという海鳴りのような不気味な音を聞いたことがあります。それは後で大火球であった事が判明しました。隕石とすれば、恐らく天文台の上を北から南に通過して、海に(天文台の2Km南は海)落ちたものと思われます。
 今回は深夜のでき事で目撃情報は少ないと思いますが、何か入りましたら続編でお届けします。

2004年07月12日

7月の山の思い出

 昨日四国地方の梅雨明けが発表になりましたが、今日の高知県は皮肉にも朝からどんより曇り、今にも雨が降りだしそうなお天気です。梅雨明けの日というものは、からりと晴れて見事な青空が輝くものですが、なんと頼りない梅雨あけ。2~3日ずれているのではないかとさえ感じます。昔の記録に頼るのではありませんが、高知県では20日を過ぎないと本格的な夏空がやって来ないものです。
 1951年の梅雨が明けた7月23日、私は一人で梶が森(1400m)に登りました。本格的な登山は初めてでしたが、山の青、空の藍、そして夜の星空の美しさを満喫しました。この頃の自然は公害というものを全く知りませんでした。7合目の寺に泊まったとき、二人の親子の登山者と遭遇しました。なんでも山の好きな土佐山田高校の物理の先生で時久さん。そして息子さんは確か進さんと言いました。私は名も無い平凡な一青年と言うことで別に名乗らなかったのですが、それから10年、1961年の10月に”関彗星”を発見した時山田町にお住いの時久先生が祝電を打って下さいました。山の美しい星空に見取れている私の姿が印象にあり、10年後に、連想を誘ったのでしょうか。
 私も山で会った人の事は、不思議と覚えているものです。石鎚山に近い東黒森山で会い、人生を語りあった中年の男性のこと。剣山に近い三嶺で道に迷った時、偶然夕闇の谷で出会った女性の登山者に下山への道を習ったとき、山を登り行く彼女の後姿が神神しくさえ見えました。
 夏山はいいですね。こうした良い思い出を大切にしたいです。

2004年07月11日

 高知県

 高知県香美群香北町(旧、在所村)の”在所隕石”落下の地に行ってきました。現場は物部川のすぐ北の低い山の麓で、有光さんと言う農家の庭に落下したのです。
 落ちたのは明治31年2月1日の午前5時10分頃で、地元の「土陽新聞」によると大砲を何発も連続して発射するような轟音が天地をゆるがし、あたかも花火を打ち上げたごとく空は朱に染まって、丸い人頭ほどの火の玉がゆっくりと落ちて行くのが目撃されたそうです。これは現地から40Km北の愛媛県との国境に近い「船戸」という山中の村で目撃された光景ですが、赫赫の音は高知県のほぼ全土に響きわたり、多くの人が寝巻き姿のまま外に飛び出した、と伝えています。
先に伝えた明治28年の土佐市での隕石落下も、これに劣らぬ大音響が響いた事を考えると、隕石落下と言うものは大変おっこうな現象を伴うものである事がわかります。実際香北町ホウの木の落下現場に立った時、遠い宇宙からはるばる旅して来た隕星が、この今、私が立っている場所に落ちたかと思うと鬼気迫る思いに打たれました。
 有光博美さんによって管理されている”落下の碑”は1982年頃、隕石の所有者である五藤斎三氏が建てたもので、あれから100年余、何も語らぬ現場の碑の傍で、ひっそりと美しく咲いた百合の花が印象的でした。
 花も人も今は何も知らない遠い昔のできごととなりました。しかしあの時から、変わらぬ山並みに物部川の流れはすべてを知っている。私に何かを語り告げようとしているように思えてなりませんでした。

物部川沿いの山麓の農家に落下


隕石落下地点の碑(1981年建造)

2004年07月10日

コメットシーカーの怪(3)

 1950年前後、本田さんの活躍によって日本の天文界は一つの彗星ブームとなりました。その頃本田さんの他に東京の角田喜久男(かくだきくお)氏、京都の原田参太郎(はらださんたろう)氏に松井宗一(まついそういち)氏、山口の浅野英之助(あさのえいのすけ)氏、香川県の川人武正(かわんどぶしょう)氏らが、それぞれ意匠を凝らしたコメットシーカーを自作して彗星を捜索しました。この少し後で花山天文台の三谷哲康(みたにてつやす)氏も加わって一大捜索合戦を展開する事になるのです。しかし、この時代実際に成功したのは本田さん一人で、このメンバーで発見した人はおりません。”彗星発見は本田さんに限る”という一つの神話が生まれたのです。機器は10cm~15cmの反射が多く、中には12cmF5の屈折が一台ありました。関西光学が15cmの反射式コメットシーカーを売りだしたのも、この頃だったと思います。実はもう一人Seki と言う新前の少年(?)が土佐の高知の片隅で10cmの反射鏡をひっさげて盛んに観測をやっていましたが、これはこのメンバーに入るほどの男ではありません。もう10年待ってください。
 さて今日の”コメットシーカーの怪”とは京都の原田参太郎氏の事です。事件は本田さんが ”Honda-Mrkos-Pajdusakova彗星”を発見した1948年12月4日の早朝のことです。
 原田さんは15cm反射鏡を使って夜明け前30分、東南のヒドラ座(うみへび座)付近を上から下に向かって水平捜索をやっていました。本人の言う事では、明らかに本田さんの視野より30分先行していたそうです。すぐ目前にあの新彗星が、発見を待っていたはずです。しかし彼の視野に飛び込んで来たのは、彗星の光芒ではなく、近所で起こった火事の赤い炎だったのです。当然彼は火を消しに走りました。そうこうするうちに夜が明け、その頃広島県の瀬戸村で本田さんが発見の凱歌を挙げていたのです。
 彗星の発見は努力が第一ですが、確かに運不運に左右されやすいものですね。
 原田さんは、その後どうされたでしょうか?ここからが大切なことです。
 さて次回は同じ火事でも私が関与した、とんでもない事件・・・そしてコメットシーカーの怪・怪・怪です。
 (つづく)

2004年07月07日

 七夕様

 七夕様です。実は昨日6日、曇りのち雨の予報でしたが、梅雨中の予報は当たりませんね。私はその日天文台に行って快晴の下、遅くまで天体の観測を行いました。そして星が見えないはずの七夕の夜、芸西では少しの間ですが天の河が見えました。その後も曇り雨の予報の日にカンカン照りになったりします。どうも梅雨の期間中は曇るものと言う観念に左右されやすいのでしょうか。当たりません。私はその日の天気を自分の目で確かめて天文台に向かいます。そして衛星の天気図を参考に自己判断。
 七夕の夜、織姫を写してみました

七夕の夜の夏の大三角
28mmレンズで撮影

2004年07月05日

コメットシーカーの怪(2)

 1966年5月、池谷薫(いけやかおる)さんと私は、天文台の冨田さんの案内で、埼玉県の堂平観測所を見学しました。その頃は空が良く南天のさそり座付近の天の川がよく見えました。
 91cm反射は多くの周期彗星の検出に活躍し、日本記録は無論世界的にも注目される活躍ぶりでした。冨田さんのほか下保さんも観測されていました。人工衛星の観測も熱心で、世界的な観測網の一環として、アメリカ製のベーカーナンシュミットカメラが配備されており、盛んに追跡が行なわれていました。
 実は私がここで見つけた奇妙な物は、そのファインダーです。口径20cmほどの屈折望遠鏡が取り付けられ(画面の右端)、カメラの案内役を勤めているのである。これぞあの幻のツァイス製のコメットシーカーの筒だったのです!トリプレットの完璧と思われるこのレンズは一体どのような星像を見せてくれたでしょうか。コメットシーカーのマウントから離れ、今はシュミットカメラのファインダーとして、立派にその役目を果たしていたのです。
 実は1961年3月、大阪でテンペル第二彗星の検出者である百済教猷氏の講演を聞く機会がありました。世界の珍しいコメットシーカーについて話されましたが、最後にツァイス製の機械について触れ、60cm屈折を購入したときついでに買わされたものだろう、と結論付けられました。しかし1949年ごろある科学雑誌に、このコメットシーカーが図解で詳しく紹介され、その頃実はこれを使う伏兵が存在したことが報じられています。
  (つづく)

ベーカーナン・シュミットカメラのファインダーとして取り付
けられたツァイス製20cmコメットシーカーの鏡筒(右端)

2004年07月02日

 高知市

 高知市より西北約150Kmの十和村に星神社があります。窪川町から北に四万十川に沿ってさかのぼること2時間、所どころ沈下橋の架かる清流の絶景を眺めながら、ようやく目的地に到着しました(写真1)。
 実はこの星神社、大昔落ちてきた隕石を御神体として祀ってあると聞きます。大正年代に移築したと言う古い神社で、大きいわりには荒廃が進み神官さんもいません。鍵のかかった祭壇の中に隕石が眠っているのでしょうか?
 神殿の前の広い庭を散策している時妙なものを発見しました。それはまるで落ちてきた巨大な隕石を形どったような石塔です(写真2)。「昭和3年御大典記念」と彫りこまれた丸い石は、もしかすると明治時代に落ちたと言われる大隕石を記念し形どったものではないか?とひとり考えたりしました。関係はないでしょうが、今の土佐市で明治28年に目撃された隕石の落下方向を延長すれば、ちょうどこの上空を通ることになります。
 むかし芸西天文台の3人のメンバーで、この十和村で宿泊して天体の観測会をやった事があります。そのとき村の教育委員会「会の主催者」の話で星神社の御神体が隕石である事を知ったのです。大切にしていて一般には見せないとの事です。
 神社のすぐ前は川です。巨大な隕鉄を思わすような赤茶色の石が何かのシンボルのようにドカンと置かれていました(写真3)。
 実は村に入るまえに、ちょっとした事で道に迷い、梼原川にそった狭い山道に長く入りました。行きつ戻りつしているうちに「中ノ島公園」と書いた絶景に遭いました。狭い清流に奇岩が点在し、まるで桃源に遡ったような不思議な感じ。冷たい水の中で熊が水浴びしていても不自然でない光景。人類が初めて探検し発見したような新鮮で感動的なこの風景は、決して探して行って見られるものではない偶然の出遭いによってもたらされる事が多いのです。誰もいない美しい光と音(せせらぎの)のなかで、私はしばし時間を忘れてたたずんでいました。

(写真1) 星神社


(写真2) 星神社の記念碑


(写真3) 巨大な隕鉄を思わす石