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2009年02月16日

忘れられぬ人

 毎年年賀状が来ている岡村啓一郎氏と池幸一氏から今年は来なかったので、ご病気ではないかと心配していたら、きょう岡村さんがポッコリ自転車に乗って来て、元気な姿を見せた。岡村氏は高齢を理由に芸西天文学習館(芸西天文台)の講師を辞退したが、傍から見るとまだまだやれそうな気がする。1980年代の、天文台始まって以来の古い講師であるので、もっと留まってもらいたいと思う。しかし夜、車に乗るのが危険なと言われると、あまり無理も言えないのである。2月26日に高知県文教協会で年に一度の講師会があり、それには参加すると言うことである。天文台の学習館には、彼の工作した、ウィリアム・ハーシェルの大望遠鏡の立派な模型が、氏の仕事の象徴として展示されている。
 一方、同年の池氏は10年ほど前に令息のいる千葉県に引越してから便りが途絶え勝ちである。思えば1962年の「関・ラインズ彗星」発見の時に知り合って、その後永い付き合いが始まった。彼も熱心なコメットハンターであったが、その後の30年間に収穫がなかった。1940年の「岡林・本田彗星」の時に、彗星に興味を持ち、捜索を始めたというから、彼の捜索の歴史は優に半世紀を経ているのである。その間、「池谷・関彗星」や「ハレー彗星」の出現に出遭い、実に縦横無尽の働きをした。特に池谷・関彗星が、太陽に0.006天文単位と接近し、危なくて観測できないとき、彼は持ち前の熱心さと奇抜さで終始彗星を見つめ、太陽をこすっていた頃の貴重な彗星の観測記録を残した。恐らく眼視では、彗星が太陽に突入する最後と出現する最初を世界で始めて確認した人であろう。
 その頃、車に乗っていなかった私は、よく自転車に乗って20kmほど離れた土佐市の彼の家を訪ねた。三階建ての屋上には3mのドームが光り、中には珍しい”池・ネオハックスカメラ”が座っていた。これは池氏が発案し、京都のある光学の専門家が完成させたという珍しい一種のマクストフカメラで、補正版は15cmでF2.5の明るさを誇っていた。無論新彗星のキャッチが目標であったが、一発の成功も無く幕をおろしてしまった。彼の家は電気商の老舗であった。
 久しぶりに彼の住んでいた土佐市の町を訪れた。天文台のあった建物は別の雑居ビルに変わり、偉容を誇っていた屋上のドームは姿を消していた。しかし、何時の日にか彼と登った石土森が、北の空に変わらぬ美しい姿で輝いていた。この半世紀、何事も無かったかの様に....。


中央が池幸一氏の天文台のあった建物

2009年02月10日

関・ラインズ彗星の思い出(2)

 彗星を発見しても、当時はすべてがスローでした。今のようにインターネットが発達しているわけではなく、FAXもなし。彗星の発見は、すべて至急電報で報告されたのです。
 家は貧乏な「ナメクジ長屋」です。電話も引いてなくて、事あるたびに自転車で、電報局に走りました。従って東京天文台から発見者の私に連絡するのに苦労したことが察せられます。
 発見から1週間が経って変化が起こりました。良く分からなかったのですが、先輩の本田実さんからの葉書によると、”関・ラインズ彗星”が明るくなることが報じられたのです。それと前後して天文台に入った国際天文学連合の葉書回報(IAUC)にカニンガム氏の軌道要素が報じられ、この彗星の近日点の通過は同年の4月1日、そのときの太陽中心からの距離(日心距離)が、なんと0.03天文単位となっており、この太陽に異常に接近することが、大彗星になる可能性を秘めていたのです。
 今回の発見について日本天文研究会の神田茂氏は「アマチュアとしては珍しい太陽から遠い空での発見」と言われました。大体コメットハンターの発見は、太陽の界隈に多いのですが、今回は太陽から180度近い、しかも南天マイナス40度での発見で、東京天文台の冨田氏や、OAAの長谷川一郎氏から、そのような位置を捜索した動機について盛んに聞かれました。その動機については前回の日記で語った通りです。
 この彗星の発見についてのエピソードを、もう一つ。この頃から土佐市高岡町(高知市から西に20km)に古くから住むという、池幸一氏なる奇怪な人物が登場してきたのです。彼は古くから天文に興味があり、1940年頃(大戦が始まる少し前)に出た”岡林・本田彗星”や翌年の「カニンガム彗星」を実際に観測したというから古い。今、この記事を読んでいる人で、それを見た人は恐らく皆無でしょう。私は小学3年生のとき、「小国民新聞」でカニンガム彗星が夕空で大彗星となる、という記事を読んだ記憶があり、池さんによると、それは秋11月の夕、わし座に尾を引いて悠々と見えていた、と言います。当時この新聞に連載していた海野十三(うんのじゅうざ)氏の科学空想小説「火星兵団」にも、この彗星のことが取り上げられて、私が彗星に興味を持つ動機となったのです。思えば、小学校の庭で大空を眺め、宇宙に興味を抱いていた少年が、成人したのち彗星を発見して憧れのカニンガム氏に軌道を計算してもらったとは....。人生とは誠に奇のものであり、また挿話の多いものであると思います。その奇なものの一つに「火星兵団」を書いた海野十三氏の生家を訪ねたことがあります。
 彼は主に東京で推理小説を書いたのですが、そのSF小説の走りとなった火星兵団は、生まれ故郷の徳島市の実家で、その構想を練った小説らしいのです。10年余り前のこと、私はこの海野氏の家を訪ね、その書斎の机に座ったことがあります。6畳の日本間で、周囲の襖に描かれた古い何かしら寂しい絵が、小説のなかで、地球からのロケットが火星に到着したとき、初めて眼にした四方の索漠とした風景に似ているように思いました。そうです、当時の小説には名士の挿絵があって、更に興味をそそったのです。
 月面に第一歩を記したはずの宇宙探検の一行が、灼熱の月面の大地に初めて見たのは、缶詰の空き缶であった、という発想は推理作家ならではの着想であり、次のストーリへの更なるサスペンスを誘います。
 1965年の”池谷・関彗星”は、太陽に0.006天文単位と接近しました。「関・ラインズ彗星」は言わばその前哨戦ともなったのでした。

2009年02月04日

関・ライインズ彗星の思い出(1)

 2月4日は立春です。いつもこの日が訪れると物干し台で発見した関・ラインズ彗星のことを思いだします。
 深夜、天文台の近くまでやってきて、お天気がはっきりしないので、下の農道で待機していました。南には少し晴れ間があって大犬からとも座あたりの星が見え隠れしていました。そこにとも座の2等星ゼータが異常に明るく輝いていました。1962年2月4日の発見劇は、この星の近くで火蓋が切られたのでした。


 「彗星の発見は無欲でなくてはならない」という言葉を度々聞きます。正に、その典型的な例が、この「関・ラインズ彗星」の発見であったと言っても良いと思います。そして彗星を発見するためのレンズは、光学的に、最高の品でなくてはならない、とは我々の大先輩の本田実氏の言葉です。当時私が使用していた口径87mm F7の屈折鏡は名手苗村氏の手になる会心作で、相性のいい35mmエルフレアイピースの助けもあって、実に剃刀の刃のような、鋭く明るく、そして立体感のある星像を見せてくれました。これによって、口径の割に暗い彗星まで識別でき、しかも名鏡の生みだす無類の星の美しさは、何時までも飽きることなく、わたしの心を星の世界に導いてくれました。これこそ発見のための大事な条件だったのです。そして1965年9月19日の朝、月光で明るい海へビ座の中に、かすかに光る彗星像を見分けたのも、この名鏡のお陰であると思います。この彗星は、私の人生の明暗を分けた意味でも、重要な発見であったと思っています。そうです、手のひらに乗るこの小さなレンズが、私の心の灯台となって、宇宙を照らしてくれたのです。
 1962年2月4日、夜遅く仕事から還った私は、門をくぐると中庭に設置した物干し兼天文台に上がりました。折から南天には、壮麗な冬の銀河が光の滝となって落ち、私のレンズは無心にこの光の滝の中を彷徨し始めたのです。いつもの決まりきった掃天の作業です。「早く彗星を発見したい、」という意欲は微塵もなく、私は名鏡に写る星座の美しさに陶酔し、ただ時間が流れて行ったのです。
 とも座の2等星ゼータの近くに、モーローとした彗星像をキャッチしたのは、間もなく日付が変わろうとする24時前のことでした。南の人家の屋根が視野(3.5度)の下の一部を占領するほどの位置の低さ、これは正に奇跡としか言えません。しかも、この南の地平線に低い位置を、もう1人アメリカのアリゾナ州で見ていようとは!!


 このような思いをめぐらしているとき一台のパトカーが赤い警ら灯を回しながら近づいてきました。なにか不審車とでも思ったのでしょう。これで2回目です。天文台まで後1キロ、ようやく晴れ始めた空に気を良くして、ドームまで行ってみることにしました。
(続く)


関・ラインズ彗星は南天 -40°の
とも座ゼータ星(2等)の近くで発見された