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2010年07月31日

月下美人が咲きました

 いつの日にかこの日記で紹介したことがあります。
 庭にある「月下美人」の鉢でつぼみが膨らみ始めたかと思うと、夜中に急に四輪の花が一斉に開花しました。前の時は月齢13夜の名月が煌煌と照っていました。今夜も明るい月があるはずですが、曇っているのか見えません。
 花は23時からたった5時間咲いただけで、陽の当たる朝にはもうしぼんでいました。だれも見ていない時間に密かに美しい花びらを咲かせる。目立ちたがり屋が多い中に、なんと美しい”こころ”の持ち主でしょうか。この花を見ている時、人間は陰で良い事をしなくてはいけない、とつくづく思いました。世の中がさぞかし明るくなることでしょう。
 写真はモノクロですが、花はその性格を象徴するような真っ白で、モノクロフイルムの見せ場です。


庭に咲いた月下美人

2010年07月25日

書家、関琴堂のこと

 かれこれ10年ほど昔の事でしょうか。小学時代の友人が上町1丁目にある総合病院に入院されたとかで見舞いに行った時の出来事です。門をくぐり、近代的な明るいロビーに入ったとき、そこの壁に古びた掛け軸がかかっているのに眼が止まりました。表装された書道の書は「健康十訓」と題して、健康に必要な食生活や体調管理に関する戒めですが、驚いたことに、今やかましく言われるこれらのことが、およそ1世紀近い昔に早くも論じられていたことです。そして更に驚いたことは、この字を書いた「雪峰(せっぽう)」の雅号です。「雪峰」とは、実は私の伯父(母の兄)の芸名だったのです。そうです、大正ロマンに時代を先走るようなことをやって世間を驚かした人です。
 関 琴堂(きんどう)は書家でした。松本芳翠(まつもと ほうすい)川谷横雲(かわたに おううん)の教えを受け、若いころから書道に邁進し、「筆林会」という塾を立ち上げて全国から会員を集めました。「筆林」という会誌を発行し、大正から昭和の初めにかけて会は全盛を極めました。遠く北海道や九州から教えをこうて訪れる人も居ました。しかし若いころからの持病(肺結核)が高じて昭和8年、36歳で病没しました。私の3歳のときですが、私は全く伯父を覚えていません。そして不思議な事に伯父の字は1枚も残されていないことでした。病院での掛け軸との対面は、正に始めての伯父の作品との出会いでした。
 近代的な病院が、そのロビーにこの古色蒼然とした掛け軸を敢えて掲げた事には、なにか私の知らない秘密があるに違いないと思います。この病院の初代の院長であった国吉氏と伯父、琴堂は何らかの関係があったのか...。伯父琴堂は大正年代に音楽や無線、蓄音機なんかに異常な興味をもち、あるものは自分で開拓して行きましたが、天文に関する資料は全く残されていません。1910年のハレー彗星接近の時には8歳で、当然彗星を見たはずですが、伯父が残した多くの品物の中には天文に関するものは何もありませんでした。


伯父 関琴堂(きんどう)雪峰(せっぽう))と掛け軸

2010年07月10日

忠犬エス物語

 果たして”忠犬”と言って良いのでしょうか。大正年代の初めごろ私の祖先は製紙工場を営んでいました。高知県に古くから伝わる和紙の手漉きです。明治時代に今の土佐市(旧、高岡町)で、和紙の手漉きを実験的に始めた私の祖父兄弟は、大正時代に入って高知市上町に進出し、かなり大規模な工場をもちました。そして昭和20年7月の高知市大空襲で工場が焼失するまでの間、かなりの繁栄をみました。
 その間の出来事です。母が飼っていた黒い子犬が成長した大正の始めころ夜中にけたたましく鳴き出したのです。普段と様子が違うので、母屋で寝ていた祖父が起きて、あたりを見回ったのですが、何も異常がありません。しかしエスは盛んに北の門の方を見てほえ続けるのです。「泥棒でも、、、」と不審に思った祖父は門の戸をあけてみると、道路を隔てた北側の工場から煙が立ち昇っているのです。火事です。エスはその匂いを嗅ぎ付けて主人に報せようと盛んに吠えまくっていたのです。火事は工場の釜場からでしたが、発見が早かったので、大事に至らず消し止めました。このほかにも鏡川に泳ぎに行ったとき、溺れていた人を見て吠えたとか、主人が忘れた杖に気づいて咥えて持って帰ったとか、”忠犬”としてのいろんな話を聞かされました。100年近い古い写真に犬の面影を知る事ができました。
 写真は大正9年5月、謎の人物が撮った製紙業時代の珍しい写真で、製紙業を始めた祖父兄弟が写っています。製品を大八車に満載して出荷するところです。このころ35mmフィルムはまだなく、写真はすべて名刺か手札大のカットフィルムだったようです。大正ロマンに近代的な物事に挑戦した謎の男、そして竜馬と同じ36歳で世を去った男のことは次回に登場します。


製紙工場と祖父兄弟
大正9年5月撮影

2010年07月07日

七夕の日の思い出

 今年の七夕は珍しく雨にならず、僅かですが星が見えました。今でこそ七夕を個人の家庭で祭ることは、少なくなりましたが、私が幼いころには、毎年、必ずお祭りをしていました。やはりその主役は母でした。少し迷信に偏るところがあったようです。
 中庭に立てた2本の竹を縄で結び、その下に祭壇のようなものを置いて、お供え物をしました。昼間のうちに沢山の色とりどりの短冊にお願い事を書いて吊るしました。夜風がさらさらと吹いて無数の短冊が揺れ、その上にお星様が輝いていました。そうです、そのころの七夕は旧暦で祭ることが習慣でしたから、8月中旬頃の梅雨はとっくに明けて、お天気の安定した頃だったのです。
 ここ上町の空には、まだ見事な天の川が懸かっていたころです。
 涼み台に座って、お年寄りから昔話を聞いたのも懐かしい思い出です。夜が更けると、秋の気配が忍び寄ってきて、肌寒くなりました。

 写真は1915年頃の我が家の中庭での七夕風景です。白い短冊だけしか見えませんか?どうか我慢して下さい。この写真は1世紀も経っているのです。右端に浴衣姿で黒い仔犬を抱いているのが母です。この犬、名前を”エス”と言って大人になって、家のために大活躍するのですが、それは後のお話です。

 それにしても一体、100年も前に誰がこの写真を撮ったのでしょうか?まだライカも生まれていなかった時代に、コンパクトカメラを自作して、現像、焼付けまで自分でやっていたのです。町には写真屋が、まだありませんでした。
 この謎の男は高知県で初めてヴァイオリンを弾きました。そしてラジオ受信機を自作し、遠距離の放送を受信しました。NHK高知放送局が、まだ開業していない時にです。この私の家系での風変わりな人物は後で登場します。一寸した夏の夜のミステリーです。


1915年頃の関宅の中庭
撮影者:関 琴堂