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2004年08月27日

 27日

 27日は天文台を公開しました。
 台風16号はなかなかやって来ません。雲の多い中13夜の月を見たり、「池谷・関彗星発見物語」の幻灯を見たりしました。この日は元、高知大学の山口先生も講師で来られ講話をして下さいました。天文台の講師陣は7人でそれぞれ特色を持っています。
 ところであのマックホルツさんがやりましたね。昔の偉い人たちがこうも次々と彗星を発見すると取り残された人(私)はやりにくいですね。努力しているがなかなか成果とならないと言うのが現実でしよう。今回のように発見しない時期が長く続くと、人はやめたように思うものですが、どっこい実は陰で黙々とやっていた、と言うのがマックホルツさんだったのでしょう!
 むかし北の人でリニア計画によってアマの世界は終わったように言って自分の観測もすべてやめた人がいましたが、これら一連のアマの彗星発見をどう思っておられるでしょうか。そのことを聞きたいですね。
 いくら成果を挙げても全くやめてしまうと、いずれ人から忘れられます。大事なのは、すぐ結果が残せなくとも永くやり続けることだと思います。「生涯現役」という言葉を良く聞きます。私の好きな言葉です。自分の好きな道はいつまでも黙々と歩み続ける。これが自然だと思います。そして栄光は永遠に輝きます。

2004年08月13日

 昨夜遅

 昨夜遅く天文台に来ました。ペルセウス群をかなり長いあいだ注目しましたが、平常より特に多いとは思いませんでした。
 思えば54年前の今日、口径10cmのコメットシーカーを引っさげて、高知市の自宅の屋根上で、彗星の捜索のスタートを切りました。まず自分の影が地面にできるほどの大火球が南天に飛びました。マイナス等級のペルセウス群流星でした。あの頃は今と比べて涼しい夏で、夜風に吹かれながら延々3時間半快適な捜索をやった事を覚えています。1948年の本田彗星から2年後、ようやく19歳の私が本田さんの後を追って発見を目指したわけです。前途の困難も苦労も、そしてまた不運も意識せず、ただひたすら目標に向かって邁進した、あの頃の純朴な自分が懐かしいです。
 今朝は60cmでの観測を終わって、スライドルーフの中で夜明け前の30分東天を捜索しました。早くもオリオン座が昇ってきました。スバルは高く、この付近に100年昔のバーナード第一彗星が行方不明のまま輝いているはずだと思いました。今はコマは飛び貧弱な核だけの姿となって暗い宇宙の中をさ迷っているのでしょう。午前4時、双子座の中にぼうすい状の(5分x10分角)白い雲があたかも彗星のような体で恒星にひっかかっています。それが何と5分も位置と姿を変えないのです。そして段々と南に移行し形を変えていきました。空に大きな雲は有りましたが、この様な小さな雲を見るのは初めてです。
 間もなくシリウスが昇ってくる。
 収穫の秋です。
 そして発見の秋です!

2004年08月12日

コメットシーカーの怪(7)

 それは1996年の晩秋の頃でした。朝刊の片隅に「ハッ」とする記事を見つけました。それはかのL君の死亡記事でした。私を驚かせたのは、死亡の告知だけではなく、その住所が高知市小石木町になっていたからです。(やはり彼は火事の現場の近くに住んでいたのだ!)しかしそれはもう考えない事にしよう。今はとにかく彼の冥福をお祈りすることだ。そして、彼は近くの山に農作物を作っていて、いつもそのでき具合を見に通っていたのだ。そして、たまたま起こった山火事を消そうと必死に努力していたにちがいない。「どうかL君よ、安らかに眠りたまえ」。
 さて年も明けてさまざまな事件を見てきた私のコメットシーカーは、折から接近中のヘール・ボップ彗星を迎えることになりました。アメリカの2人のアマチュア天文家によって発見されたこの彗星は、近来の大物彗星として、世界中の天文愛好家達に迎えられました。1997年の早春3月、私は小さなコメットシーカーとカメラをリュックに入れて南の高見山に登りました。昔あの不審火の盛んに起こった小石木山とすぐ隣合わせの峰続きの山で、怪しい火事はこの山でも盛んに起りました。
 北の眼下に高知市の見事な夜景を見ながら急な石畳を一歩一歩とゆっくり上っていると、妙な足音が付いて来るのに気が付きました。足を止めて耳をすましましたが別段何も聞こえません。歩いていると「カッツン、カッツン」とまるで松葉杖を突くような奇妙な音が何時までもいつまでもついて来るのです。(そう言えばL君は松葉杖をついていたっけ)その様な余計な事を思いながら山の小さな頂上につきました。おりからヘール・ボップ彗星はまるで海のような夜景の広がる北の山脈の上に堂々の姿を見せています。私は独り、恐怖も忘れて恍惚と見惚れていました。
 この時です、背中の後ろから、「なかなか綺麗じやのう!」と野太い声が響きました。「ハッ」として振り返ると、そこには古い戦斗帽を冠り杖を突いた男がヌーと立っています。(オオーッ、L君!?)私は驚きと恐怖で呆然と相手を見つめました。
 しかしそれは違っていました。L君とは似ても似つかぬ顔をした老人でした。男は近くの老人ホームに入っている人で、散歩の途中との事でした。筆山の「老人ホーム」も最近火事が多く、朝倉に引っ越す事になったとの事でした。ヘール・ボップ彗星のことを教えると、なんでも子供の頃夏祭りがあって、相撲大会を見ていたら太いホウキ星が頭の上にドッカリと光っていた。大正の末頃とかでしたが、何彗星だったのか詳しいことはわかりません。、昔はお年寄りからよく面白い星のお話しを聞いたものです。
 (つづく)

自宅から見た高見山
中央右が小石木山


高見山から見た高知市街とヘール・ボップ彗星
1997年3月1日 19時30分から20秒間露出
PENTAX 6X7 105mm F2.4

2004年08月10日

 昨夜8

 昨夜8月9日は天文台の公開日でした。夕方は雲が多く有りましたが、夜更けと共に良く晴れてきました。当夜の参加者は40人で、高知新聞社の記者とカメラマンの2人も参加しました。実は私は当番でなく、ほかの目的があって観測中の写真を撮ってもらったのです。芸西の天文台をつかさどる、県・生涯学習課の中内さん親子の姿も見えました。
 暗い彗星が見つかっていますが、夏は中々困難です。ドームの中が30℃もあります。
 秋になれば暗いのに挑戦します(気温が高いと写りが悪い)。
 朝方にはスバル(プレアデス星団)も高くなって、いよいよ捜索の秋の到来が近い事を思わせます。60cm反射望遠鏡ではいつもスバルを中心に掃天していました。最近小惑星の発見が無いのはCCDに押されているからで、もし60cm+CCDになれば、暗い小惑星捜索をまた始めます。たくさん発見しなくても、ナンバーの確実に取れるような観測を着実にやって行きたいです。衝から少し外れていますが、60cmの砲筒は、いよいよスバルの黄道付近を掃天して行きます。鬼が出るか蛇がでるか?掃天くらい面白いものは無いですね。

 近くの”竜馬郵便局”で発行するチラシに「星空の宴」を連載しています。今回No.7の原稿を届けました。局の総務主任三原幸雄さんは星が好きで、天文台にお子さんを連れて見学に来られたことがあります。この郵便局は、以前は局長以下女性ばかりの郵便局として有名でした。物語を連載するのは2回目(10年前に「星と私」を26回連載)ですが、完結すればいずれHPの「ノンフィクション劇場」の第二話としてお届けしたいと思っています。

2004年08月01日

コメットシーカーの怪(6)

 おかしい?「関やん」なんて私を親しげに呼ぶのは、小学の時以来いないはずだがと思って声のした方を見ると、そこには相変わらず古ぼけた戦斗帽を冠り、汚れた作業服を着た男がテントの中からじっと私を見つめているのです。その時私は「ハッ」としました。そして背筋を冷たい物がドッと走る思いでした。その男は、あの小石木山の火事の現場にいた男とそっくりだったのです。そして彼の次の言葉が更に大きな衝撃となって降りかかって来たのです。
 「関君、しばらくだったね。忘れたかい?中学の時ほら、あんたと机を並べていたLだよ。」
 「えっ、君はあの時のL君?!」
 私はあっけに取られてじっと彼の顔を見つめました。日に焼けて年齢よりは相当老けて見えますが、それは確かに古いクラスメートのL君であり、同時に火事場の男のイメージを連想させるのです。あの時どっかで見た顔とはこんな事だったのか。私はしばし呆然として、彼の言葉を聞くだけでした。彼は勉強も良くしましたが、学校では悪いことをしてほたえる(騒ぐ)仲間でした。中学校2年生のとき悪さがたたって退学となりましたが、その後予科練を志願し、乙種飛行予科練習生として入隊し、昭和20年霞ガ浦で終戦を迎えたそうです。
 「あの時はひどい空爆にあってね。ホラこの足。」
 と言って自分の左足を指差しました。なんと彼は義足をはめ、松葉杖をついていたのです。
 今は田舎で農作物を作って生活しているという彼から、少しばかりの野菜を買って帰る私の頭の中は、もつれた糸のように混乱していました。"山の不審火"スケールの大きい"わりことし"だった彼ならやりそうな事だ。しかし足の悪い彼が、まるで悪魔の跳梁するが如く捜査陣を煙に巻いて逃げ回ることができるだろうか?
 いやそれは違う。きっと他人の空似で別人だ。今は真面目で温厚な彼が犯人であるはずがない。(L君、少しでも疑って悪かったね。)と懺悔でするような気持ちで何年かが経ったある日、地方紙の記事を見ていた私は、ある小さな記事を見つけてハッとしました。
 (つづく)