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2004年6月の日記

● 6月30日
 今日は輪抜け様のお祭りです。1年中で最も雨の確率の高い日で、晴れていると思っていても、夜までには必ずザアーと来る事が多いです。
 ところが今日は朝から雲ひとつ見当たらない快晴!これは儲けた、と思いながら、遅く天文台に向かいました。
 確かに透明度は悪かったのですが、考えて見ると昔はポン・ウインネッケ群の活動の期間中です。ドームの外でしばらく北天を見つめていましたが、1時間の間に1個も見ることが出来ませんでした。1998年の大出現は奇跡だったのでしょうか?
 33年前の今日、小さな子供の手を引いて近くの氏神様に歩いて向かいました。暗いあぜ道の中を通って行くと、畑中で盛んにひき蛙が鳴き、遠くに神社の森がにぎやかな明かりで浮かび上がり、笛や太鼓の音が聞こえてきます。蒼いガス灯の匂いにたくさんの走馬灯の灯りが懐かしいですね。そして土俵では、飛び入り可能な相撲大会の歓声。青や赤い着物を着た子供たちや大人の群れ、人いきれの中でも、昔のお祭りには風情がありました。その夜店で望遠鏡のレンズを見つけて買い、のちに天体観測を始めた人がいました。彼は世界的なギターの製作者として大成功(小惑星に名がある)するのですが、夜店でのふとした出遭いが、すべての元になっているような気がしてなりません。
 私も今日までの道は何でもない一つの出遭いだった。小学3年生だった私たちに大自然の素晴らしさを解き、科学の大切さを教えて戦火の大陸へ消えて行ったO先生の面影は今も私の心の中に生きています。

● 6月28日 【コメットシーカーの怪(1)】
 日本で初めてコメットシーカーを作ったのは1928年頃水沢にいた山崎正光氏が最初のようです。氏は1928年10月、かのクロムメリン彗星をそれで発見したのですが、実はその奇妙な形のコメットシーカーはアメリカのある観測家のコピーだったようです。ところがそれと前後して昔の東京天文台にツアイス製の立派なコメットシーカーがあり、下保茂(かほ しげる)技官が1936年7月”カホ・コジク・リス彗星”を発見されたのでした。当時の東京天文台の冨田弘一郎(とみた こういちろう)氏によると、夕方の西空で変光星を観測していて、偶然新彗星を発見されたそうです。この機械は20cmF6.7の3枚玉で27xから150x位まで、便利なターレット式で自由に変換できるようになっていました。これは有利ですね。そしてハンドルを回すことで椅子とテレスコープが同時に回転し、上下の角度も目の位置をほとんど変えることなく全天が捜索できると言うまさに完璧な機械でした。彗星らしい天体を発見した時一番悩むのは、その星の赤経、赤緯の分かりにくいことです。この機械は便利なコメットシーカーでありながらなんと赤道議になっていたのです!!
 ここで不思議なのは東京天文台に60cm屈折が入った年に、ツアイスのコメットシーカーをなんの目的で誰が購入したかと言うことです。まさか専門家が本気で彗星の捜索をやるつもりで買ったのではありますまい。これは永遠の謎です。そして、この機械で実際にホーキ星が発見されたのも一つの怪です。この道の大家、本田実さんもこの機械を使ったことも見た事も無かったと言われましたが、無論私もありません。いまは幻のコメットシーカーとして、いつまでも私たちの脳裏に焼付いてはなれないのです。30年ほど前私が誠文堂新光社から出した”彗星ガイドブック”と言う本の中に、その構造図をやや詳しく載せました。早速、池幸一氏が真似をして360度回転式のコメットシーカーなる物を作り、人気者になったことはご存知の通りです。
1964年頃でしたか、彼はこれでコップ彗星の日本最初発見をやって手柄を立てました。ツアイスのコメットシーカーは一体何処へ行ったのか???
 時は流れて1966年春、ふとした事で変わり果てたあのコメットシーカーと私は対面する事が出来たのでした。それは現役として立派に働いてlたのですが.....。
  (つづく)
[冨田弘一郎氏と故・下保茂氏の写真]
冨田弘一郎氏と故・下保茂氏(向かって右)
下保氏はカホ・コジック・リス彗星の発見者
1962年5月 関勉撮影

● 6月24日
 小雨になりました。梅雨の後半が始まったようです。これから永い観測の休みと思うと気抜けがして何も手につかなくなりました。そのせいでもないでしようが、起きると背中に激痛が走り、少し体を動かすだけでも辛抱できない痛さが襲ってきます。一種の神経痛でしょうか。病院へ行くと言って家を出たのですが、実際に行った場所はなんと春野の運動公園のプール。小雨の降るなか、屋外の長水路(50m)で1000mほど泳いで病気をふっ飛ばしました。
 豪快なのはなにも私ではなく、昔から土佐人の気質なのです。そしてイゴッソーです。イゴッソーの正しい説明は難しいですが、彗星発見にも役だつ精神だと思っています。
 さて永い雨季には撮りためたフイルムの測定でもやりましょうか。
 芸西に近い安芸市は弘田竜太郎の故郷です。
♪雨が降ります雨がふる
遊びに行きたし傘はなし
紅緒のかっこも緒が切れた♪
 ああ雨の日は憂鬱で退屈、心もつい頽廃的(たいはいてき)になります。

● 6月23日
 今日はポン・ウィンネッケ流星群の活動する日ですが、梅雨の中雲の多い日でした。ただし夜20時頃から雲が奇跡的にのき始め、22時過ぎまでの1時間余り夜空を注目することができました。
 20時53分突然1等級の流星を見ました。おとめ座のスピカの東を緩やかに流れ、明らかにうしかい座の北の輻射点方向からの物と思われました。その後少し別の仕事をしながら時折注目しましたが、50分後でしょうか、今度は東のへびつかい座の中を2〜3等星で、やはりポン・ウィンネッケ群の輻射点方向からのものと思われる流星が東南方向に飛びました。ただこの日は透明度が悪く、5の中の3くらい。もし4等以下の微光星がさくさん飛んだとしても、あるいは気がつかなっかた、と言うことも有り得る訳です。そう言えば何だかうす白い夜空を、極めて微光のものが盛んに短く流れている様に思えましたが、それは恐らく錯覚でしょう。結局不完全な状態で、正味30分眺めて2〜3個の収穫と言う事になります。
 私も大昔、OAAの小槙孝ニ郎(こまき こうじろう)氏の下で、長いこと流星の観測をやっており、観測にはある程度の自信はあります。ただしここで気になる事が一つ....。1920年代にこの群は大出現を見たのですが(山本一清氏(やまもと いっせい)奉天(ほうてん)に出張した年)、たしかその翌年期待されながら見えなかったことがあったと思います。その時、同群を「沢山見た」と報告された方があり、山本氏は「鋭眼のNさんでないと見ることができなかった微光のものばかりだった」と或る本に書かれています。確かに1998年の大出現の時も約70パーセントくらいは4等以下の微光のものでした。これが芸西の空の良い所だったから、特に微光星が見えたのでしょうか。しかし中にはびっくりする火球もたくさん飛びました。他の人が全く気づかない微光のものばかりとは、少し不自然な気がしてなりません。このNさんは彗星でも、他の人が見ていない彗星を2つ程見ており、今でも疑問が残っています。それらの事については、またこのページでお話しするチャンスがあるかと思います。いずれにしても今回は特に顕著な出現は無かったことが言えると思います。

 下の写真は6月12日に芸西で見られたすばらしい天の川です。
[天の川の写真]
天の川
2004年6月12日 30分露出
24mm F2.8 R2フィルター
 ISO 1600フィルム
● 6月13日
 昼間から快晴の晩秋を思わすような素晴らしく大気の透明な一日です。
 芸西の夜空は地上の光害をまるで受け付けない、物凄い星、ほし....。そして彫刻のように克明に立体観を持って迫る銀河。今では幻のあの対日照が見上げるなり「あっ!」と腰を抜かさんばかりに天ノ河の西側にくっつくようにおおきな円形の大光芒を輝かせていました。
 こんな夜ですからC/2001 Q4(NEAT)なんか60cm反射で尾のディテールが良く写りました。近く”芸西天文台通信”のページでお眼にかけます。
 公害で悩む土地でも、たまには綺麗な星空があるものです。5年前にハワイのマウナケアの4200m山頂で見た星空を10点とすれば、今夜の芸西は7点!天の川の写真をいずれお見せしましょう。

● 6月12日
 夜半に天文台にやって来ました。少し雲があり、稲光がしていました。
 日付が13日に変わる頃C/2001 Q4(NEAT)を、高度7度でとらえました。20cm屈折ではかすかな6.5等星で、60cm反射に薄く写っていました。測定はむりか。
 13日3時にC/2003 T3(Tabur)を写しました。暗くなって11等。D=2'。位置測定は後でだします。
 C/2004 F4(Bradfield)は暗くなったのか、ざっとみたところ影がありません。予報がわるいのか?
 いつものように夜明け前の20分間に東北の低空を捜索しました。M31が印象的でした。
(星空よさよなら、さよならあした)

● 6月8日
 今朝目が醒めると、体調が悪くふらふらして天井が大きく回転していました。
 金星の日面通過の日です。病院から帰ると少し日が射し始めたので大慌てでボール紙に1cm角の穴をあけ、写真用の赤フィルターを4枚重ねて1cm角に絞った対物レンズに当てて撮影準備を始めました。175mmの反射を絞ってf/90にしたわけです。
 こんな動作を「ドロボーを発見して縄をなう」と言います。
 観測場所は芸西天文台ではなく、上町の自宅。人呼んで「幻影城」です。
 午後4時半頃でしたでしょうか。西空の一角がわずかに晴れ、雲の中に太陽が半分顔を出したところで5枚連写!
5時間待った中でのわずかに1分足らずの奇跡でした!

金星の太陽面通過
2004年6月8日 16時30分頃
15cm反射赤道儀

カメラ:キャノンT70(1/350秒露出)
フィルム:イルフォードパンF50
現像液:D-76

● 6月4日
 梅雨前にしては素晴らしい晴天に恵まれました。低空の町並みの低い空まで青の色が落ちずにスカーッと晴れ、涼しい風が肌身にしみるような1日でした。
 月が早く出るので、今夜は自宅の3階で観測するようにしました。今日のような日は人口30万の街中でも星が良く見えるだろうと思ったからです。
 実は30年前には、彗星の精密観測は上町(高知市)の自宅でやっていたのです。そうです。イケヤ・セキ彗星他いくつかのホウキ星を発見した場所です。IAUから370の天文台コードをもらって、彗星や小惑星の精測をはじめました。日本におけるアマチュアの精測の発祥の地と言えば皆さんは驚くでしょうか。
 当時は今のようなCCDもGSCのような星のカタログもなく、アマチュアにとっては実に厳しい時代でした。フイルムから星の位置を測定するコンパレーターが島津製作所製で当時(1970年頃)50万円!長屋暮らしの”サンピン”にはとても買える代物ではなっかたのです。
 それではどのようにして彗星の精密測定をはじめたのか。それにはいささか面白いエピソードもあるのですが、それはまた後日に譲ることにして、今日は30余年振りに復活した370 Kochi Observatory の施設を写真でお目にかけます。器械は芸西天文台に10年間使われずに眠っていたA社製の175mm f/5の反射赤道儀を借りてきて据えました。長い眠りから醒めた赤道儀は調子が千番悪く、たびたびストライキを起します。機嫌をとりながらテクニックで使っています。
 それでも今見えているC/2001 Q4(NEAT)やC/2002 T7(LINEAR)なんかを測定しMPCに送信しました。

30年ぶりに復活した自宅観測所
370 Kochi Observatory


自宅観測所で撮った C/2001 Q4(NEAT)
2004年6月4日 20時30分(J.S.T.)
30秒露出 TM400フィルム

● 6月2日
 お天気の悪い日はふと昔を回想したくなります。
 半世紀も昔、高知市の場末のSさんの工場でプラネタリウムの部品を製作している時、当時OAA(東亜天文学会)高知支部長を務めていたSさんが現れて、
 「関君、面白いものを作った。これを見たまえ。」
といって見せてくれたのが習字の”墨すり器”でした。当時試作の段階からー歩進めて、幾つかが知り合いの習字の先生に配られたようです。私が日曜市で見たものが、その中の一つだったかどうか判然としませんが、どうもその古さや形から推してSさんの試作機の一つだった気がしてなりません。Sさんはその頃”町の発明家”として、あまりにも有名で、その頃同じ発明家で、”高知のエジソン”の異名をもつKさんも高齢ながら今お元気です。
 KさんはSさんが後プラネタリウムを作った時、良きコンサルタントとして協力しました。彼は鉄工所を経営しており、10年ほど前芸西のドームが故障したときに大修理に来てくれました。
 Sさんはプラネタリウムのあと星空から今度は海洋に向かって限りない夢を広げて行くのですが、潜水艦製造でもKさんの協力があったと聞きます。潜水艇「荒天号(こうてんごう)」の目的は公的には海難救助でしたが、彼Sさんが私に語ったことは驚くべき空想と猟奇に満ちた計画でした。思えば1948年、敗戦後の焼け跡での観測会でSさんとOAA(東亜天文学会)に出会って半世紀、その間に体験した今は私だけしか知らなくなった良き面白い話、そして貴重な取っておきのロマンはいずれ気の向くままにお話ししましょうか。

荒天号



Copyright (C) 2004 Tsutomu Seki. (関勉)