2010年11月23日

お龍姉妹の銅像

 芸西天文台の膝元「琴ヶ浜」には、竜馬の妻だった「おりょう」とその妹「君枝」の銅像が立っています。
 琴ヶ浜には竜馬の生まれた1835年に植えられた松林があって、嵐のような強い風の吹くとき琴を奏でるような音を立てるというのでその名があります。
 芸西の天文台の出来た頃には、ひなびた何も無い素朴な美しい海岸でしたが、いまは野外劇場や海水プールのような施設が出来て都会的となってしまいました。天文台で朝の観測が終わって浜に出て、長い渚を独り散策した日が懐かしく思い出されます。
 
♪あした浜辺をさまよえば
    むかしの人ぞしのばれる、、、、、。

 NHKの大河ドラマ「竜馬伝」も終わりとなりましたが、芸西村にも関連する人が居たわけです。つまりお龍の妹「君枝」の旦那は芸西村の出身で、土佐勤皇党の武士でもありました。お龍姉妹の銅像が天にむかって手を挙げているのは、言うまでもなく空を飛んでいる竜馬(小惑星2835)に向かって呼応している姿で、桂浜にある竜馬の銅像も、琴ヶ浜のある東の水平線を見ているのです。

[お龍・君枝 姉妹像]
お龍・君枝 姉妹像

2010年05月02日

近藤長次郎の屋敷跡

 連休に入って沢山の観光客が訪れるようになりました。
ここ竜馬の遺跡の多い上町にはいわゆる"ぶら上町"の人たちで賑わっています。その中に交じって自宅付近を歩いていたら、家からほんの1分位の繁華な道端に、まず近藤長次郎の屋敷宅跡の碑を発見しました。近藤は竜馬を兄と慕って同じ開港の道を目指した人ですが、目的を先走ったことでとがめられ29歳の若さで自刃しました。


近藤長次郎邸跡の碑

 ここから更に1分ほど西に歩くと「才谷屋」がありました。竜馬の祖先が商売をやっていた家と伝えられますが、ここにも観光客が絶え間なく三々五々とやってきます。そういえば竜馬が京の四条大橋の近くの近江屋で暗殺されたとき"才谷"と名乗っていました。
 今日は見事な皐月晴れで、何所を見ても青葉若葉の空に鯉のぼりが泳いでいました。


現在の"才谷屋"

2010年04月10日

岡田以蔵の墓

 私の親戚(妻の祖先)の墓地は高知市の東北に位置する薊野(あぞうの)という所にあります。昔から、この近くに幕末の志士で「人斬り以蔵」と言われた岡田以蔵(いぞう)の墓がある、と聞いていましたが、鬱蒼とした山の中の墓地のことで発見することが出来ませんでした。
 ところが「竜馬伝」に代表されるような坂本竜馬のブームで、観光客が多い関係か、最近、そうした史跡が整備されるようになって、分りやすくなりました。なんと以蔵の墓は、いつもお参りする祖先の墓のすぐ近くにあったのです!意外な発見でした。それも「土佐史談会」が道しるべを整備してくれたお陰で気が付いたのです。
 古く黒ずんだ墓石には確かに「岡田宣振(よしふる)」の墓、とあります。宣振とは、以蔵の本名です。沢山の花が飾られ、年中お参りの人が絶えないのは、如何に以蔵が多くの人に慕われていたかが伺われます。あたりは猪でも出そうな鬱蒼とした深い竹やぶの中ですが、木の間に遠く市街の見える南側の谷はいま満開の桜で一杯でした。


岡田宣振の墓

 岡田以蔵は武市半平太(たけちはんぺいた)の指揮する土佐勤皇党の中でも切っての剣の使い手でした。のち江戸に出て鏡新明智流(きょうしんめいちりゅう)の免許皆伝を取るほどの腕前で、彼の振り回した長刀は今でも土佐に残っています。文久2年に「土佐勤皇党」の活動が始まると「佐幕派」の暗殺に参加するようになり、その荒切りは、「人斬り以蔵」の名を欲しいままにしました。しかし病魔(肺結核)に犯される身となり、ついに井上佐一郎殺害の罪で役人に捕まり仲間と共に斬首、以蔵だけが曝し首になりました。享年僅か27歳。新撰組の若き剣士で病死した沖田総司(おきたそうじ)を思わすものがあります。以蔵は暫らく京にいましたが、新撰組と刃を交える事はありませんでした。
 彼を育てた土佐勤皇党の首領、武市半平太も捕まって投獄、切腹と言う末路を辿りますが、古い映画に出てくる月形半平太の名はこの人がモデルだそうです。
 いまNHKでのドラマに出てくるこれらの人々は史実に基づいた小説ですから、必ずしも真の姿を捉えているとは言えないでしょう。まして以蔵がどんな人間だったか?その人柄については分りません。戦乱の時代を生き延びて、のち豪商人となった岩崎弥太郎のことも分かりません。弥太郎の生家は芸西天文台に近い安芸市にあります。いま見物の人で大混雑とか。
 以蔵の墓にお参りし、墓地を下りる時には、あいにくの小雨となりました。
 「春雨じゃ濡れて行こう」とは誰のせりふだったのかな?



2010年04月04日

ぶら上町

 いま高知市では”であい博”が催されており、NHK TVの「竜馬伝」の人気もあって、多くの観光客が訪れています。特に私の住んでいる上町(かみまち)地区は、竜馬誕生の地のあることから、案内人の付いた”ぶら上町”の団体が目を引きます。上町には竜馬に関連する施設として生誕の地、の他に竜馬の祖先が商売をやっていた「才谷屋(さいたにや)」の跡とか、竜馬が少年の時に通った剣術の道場のあった「築屋敷(つきやしき)町」とか、最近出来た「竜馬資料館」なんかがあり、いずれも私の家から歩いて5分以内の場所です。「竜馬郵便局」もありますが、これは最初に局が電車通りの、竜馬生誕地のすぐ隣に出来た関係で命名された局で、とくに謂れはありません。入り口に竜馬の銅像が待ち受けています。私の通っていた第四小学校も生誕地の近くにあって、校長室には有名な竜馬の肖像画があります。非常に大きな有名な画家による絵で、昔は講堂の高い壁に掲げてありました。私たちは、何かの時には、ここに集合して、校長のお話しを聞いたり、映画を見たりしました。そんな時竜馬がいつも私たちを見下ろしていました。幼い頃から「竜馬」とは日本に夜明けをもたらした偉い人だ、という認識が備わっていたのです。第四小学校は120年の歴史があり、ここから多くの偉人が育って行ったと聞きます。



2006年12月09日

一領具足の碑

 初冬の好天の一日、高知市の景勝の地、桂浜にある「一領具足の墓(いちりょうぐそくのはか)」を見たくて車で走りました。南国土佐の海は冬でも壮大な明るさを称えています。その太平洋を見渡す元、浦戸城址の近くに墓がありました。
 一領具足とはNHKの大河ドラマでも放映していたように、戦国時代に四国を統治していた長曽我部元親(ちょうそかべもとちか)の家来で、普段は農業を営みながら、いざ戦争という時、武器を手にして戦った兵士のことです。
 関ヶ原の戦いのあと元親(もとちか)は豊臣(とよとみ)の軍勢に敗れ城(浦戸城)明け渡しとなったとき、元の、主君に忠誠を誓った民兵たちが一揆を起こし、遂にはニ百数十名の兵士が騙し打ちにあって、殺されたところです。種崎の浜(たねがさきのはま)は「千松公園(せんしょうこうえん)」とも呼ばれ、沢山の松が乱立する美しい砂浜です。私も小学生の夏、ここにキャンプを張って海水浴に親しんだことがあります。桂浜から浦戸大橋を渡れば種崎です。
 民兵たちが処刑された日は晴れていたのか、曇っていたのか。あれから400年の歳月を経て、今もあの日と同じ浜風が、磯に打ち寄せる波の音を送り、殺された民兵たちの叫び声を伝えているようでした。
 良く晴れた空に、ここ種崎から桂浜に懸る浦戸大橋が大きい虹の弧を描いていました。桂浜で彗星会議が開かれた1972年ごろには、橋が未完成のまま、中央でドッキング寸前であったことを思い出しました。会議は長宗我部元親公の居城であった「浦戸城址」で開かれたのでした。

一領具足の地蔵
(参詣の花が絶えない)


2006年05月29日

京都に来ました

 訳あって京都に来ました。
京都駅の南口から二条大橋までの4キロ余りの道のりを歩きました。乗り物を探して乗るのも面倒と鴨川にそってテクテクと都大路を北上しました。お陰でいろんな名所旧跡を見物できました。
 鴨川に沿った河原町の一角に新撰組が襲撃した「池田屋」の跡を示す石碑がひっそりと建っていました。ぱちんこ屋のある繁華街の一角でぱちんこ球のはじける音に130年も前の剣激の音を連想しました。じっと正眼に構えた勇の虎徹の光。それを取り巻く志士たちの無数の剣。勇の物凄い掛け声と共に舞台は展開して行きます。
 勤皇の志士たちの隠れ家のあった高瀬川付近には今も昔の風情がそのまま残っているように思いました。池田屋と竜馬が遭難した近江屋は僅かな距離ですね。大昔見た土蔵の近江屋の面影は全くなく、そこや繁華な街の歩道の片隅でした。町並みが全く変わったのです。昔はもっと鴨川に近い場所であったように思いました。
 二条大橋近くの「ホテルフジタ」で全国から集まった10名のミニチュアカメラ愛好家の方々と会いました。そうですミノックスです。明日30日はミニ撮影会が催され、いろいろ名所旧跡を訪ねたいと思っています。天文学的な何か発見があるかもしれません。
 ミノックスは1930年代に北欧地中海(バルト海)に面した小国ラトビアのリガで生まれた名機です。撮影画面が僅か8x11ミリと小さく、しかも精密で、一体誰が何の目的で作ったかはナゾです。1950年の値段が日本円で5万円と言いましたから、いかに高級カメラだったかが伺われます。1940年ごろの日本映画に「第五列の恐怖」というスパイ映画があり、その場面でポケットからミノックスを出し横浜の軍港を撮影すれシーンがありましたが、もしかするとスパイ目的に開発されたかも知れませんね。誰が見てもライターとしか見えませんでした。1986年、私はこれでかのハレー彗星を撮影し、ミノックスカメラの展覧会に出品しました。「ミノックス」という小惑星があることは、ご存知のとおりです。

竜馬と中岡遭難の河原町近江屋の跡

2006年02月01日

五藤斉三氏寄贈の望遠鏡は現役です。

 僅かな早春の光のある街中を歩きました。高知は冬は結構寒い日もあるのですが、春先は断然早いのです。気温は低くても、太陽の輝きはもう早春です。
 市内で一番繁華な帯屋町(おびやまち)を西に向っていると、昔の大名屋敷を思わせるいかめしい門の前に来ました。古い門に大きい門札がかかっていて「五藤」とあります。北を見ると土佐24万石の山内一豊(やまうちかずとよ)公の居城がこちらを見下ろしています。
 一豊はある戦場で敵の矢に打たれ、それを介抱したのが五藤という家来でした。有名な話で、そのときの矢尻や部下の履いていたわらじは今でも残っていて、安芸(あき)市の「歴史民族資料館」に保存されています。そうです、ここの五藤家はその子孫であられたのです。ここには大名屋敷風な長い土塀があったのですが、今は取り壊されて書店になっています。門の中に静かな築山があって古い時代の風情を残しているようでした。
 安芸市土居の出身で高知県に60cm反射望遠鏡を贈った五藤斉三(ごとうせいぞう)氏は、この五藤家の分家の人で、安芸城のある公園の中に古いゆかりの家が残されています。五藤さんと天文台の予定地を探してこの付近を歩いたことが、つい昨日のことのように思いだされます。私が今も60cmを守り続けるのも、彼の好意を無駄にしないためです。五藤さんが、出身地としての高知県に贈った数々の天文施設で、現役で動いているのは芸西天文台だけです。

五藤家の門


高知城と追手門


山内一豊(関ヶ原での戦い)

2005年11月18日

土佐には立派な暦学者がいました。

 いま高知県文学館で「天文と暦」という催しをやっていますので見てきました。江戸時代の天体望遠鏡と渾天儀(こんてんぎ)、それに当時の暦に関する日記のような資料が展示しされていました。
 説明には、天体望遠鏡は作者不明とありましたが、これは今から200年ほど前のドイツのシュナイダー社の作品で同時に有名なフランホワーの刻印もあり、両者の合作とも考えられます。スタイルは地上用の様にも見えますが、アメリカサイズのアイピースやサングラスも付いている事は立派な天体用です。恐らく山内容堂(やまうち ようどう)公の時代に、先見の明を誇った殿様や侍が使ったものでしょう。
 この望遠鏡で実際に星を見たらどのように見えるでしょうか? 誰しも大変な興味を抱くことでしょう。ところが実際に覗いた男がいたのです!そして事もあろうに、その望遠鏡を密かにお蔵から持ち出して、あの大ハレー彗星を観測したのです。それは一体誰なのか、そして1986年のハレーはどのようなイメージでこの山内家秘蔵のレンズに写ったのか。後にも先にもこれでハレー彗星を見るなんて皆無のことでしょう。その話はまたいつかこのページでお話しましょう。
 さて渾天儀に移りましょう。これは1760年頃の土佐の暦学者「川谷薊山(かわたに けいざん)」の作品です。真鍮を使って実に美しく見事にできています。当時はこうした機械で天測が行なわれていたのでしょう。そしてあの日食予報の元となったのかもしれません。即ち宝暦12年、薊山はその年幕府が発表した暦に9月1日の日食がもれている、と主張したのです。しかし幕府の天文方は反論し話題となりました。
 薊山の計算は正しかったのです。かれは宝暦12年9月1日の正午、高知市の比島山で実際に日食の起こるのを確認し、会心の笑みを浮かべたのです。
 それから150年余りたった1945年8月15日(終戦の日)私は比島山に立っていました。山の頂上に無人の神社があって沢山の絵馬が掛けられていました。その中にどうも普通の風景とは異なる模様の分からない絵が掛けられていました。今思うとどうも日食を描いたものではなかったか、と思ったりするのですが、わかりません。裏の暗い洞穴の入り口に、古い石碑が立っていたのですが、もしかすると日食観測地を記念した碑であったかもしれません。比島山はその後山崩れの災害を起こしてすべて姿を消しました。
 土佐には薊山の先輩に谷秦山のような天文暦学者も輩出しており、日本でも早くから天文学が発展したのですがそれは昔のこと。今では科学に関してはもっとも遅れたお国となってしまいました。

川谷薊山の作った渾天儀(山内家所蔵)


口径80mm屈折望遠鏡(山内家所蔵)

2005年10月02日

 お天気に恵まれた今

 お天気に恵まれた今日、高知市比島と言うところの墓参に行きました。非常に鬱蒼とした山深い谷間のようなところですが、すぐ近くに江戸時代の絵師、「絵金(えきん)」の墓があり、更に幕末の剣師「岡田以蔵(おかだ いぞう)」の苔蒸した墓があることには驚きました。あの有名な”人斬り以蔵”です。古い墓では宝暦8年、と言うのがあり、私はふと川谷ケイ山が江戸時代に幕府の発行した暦に無い日食を観測したのが、この地の比島山であったことを思い出しました。宝暦年代の話です。

 土佐には早くからこうした優れた天文学者や、谷秦山(たに じんざん)のごとき暦学者が居たのに、いまでは全国的にも、こと科学に関しては、その施設も無い一番遅れた県になってしまいました。数年前、高知市が科学館を作ろうとして計画はかなり進行していましたが、いつのまにか立ち消えとなりました。こんどは水面下でいま博物館や科学館建設の運動が立ち上がっています。今度のは行政が計画するのではなく、民間の団体や企業が立つのですから、気長ながら可能性はあると思っています。そのための会合が何回か開かれています。高知県には芸西の他にもいくつか大小の天文台はあるのですが、芸西意外はあまり活動していません。芸西は県立ですが、そもそも民間から立ち上がったから強いのです。

 秋雨前線の停滞する時期で今が一年中で一番お天気の悪い時期です。今年はイケヤ・セキ彗星から40年。あの時、発見後一週間も悪天に見舞われ見えなかったことを思いだします。しかし彗星が近日点を通った10月21日頃には本格的な秋空となりました。

 スカイ&テレスコープ社から40周年を記念して取材が来て、加藤英二さんのご好意でたくさんの記事を送りました。締め切り間際での電子メールでのやり取りが熾烈でした。12月に発売される1月号をお楽しみに.....。