2004年08月12日

コメットシーカーの怪(7)

 それは1996年の晩秋の頃でした。朝刊の片隅に「ハッ」とする記事を見つけました。それはかのL君の死亡記事でした。私を驚かせたのは、死亡の告知だけではなく、その住所が高知市小石木町になっていたからです。(やはり彼は火事の現場の近くに住んでいたのだ!)しかしそれはもう考えない事にしよう。今はとにかく彼の冥福をお祈りすることだ。そして、彼は近くの山に農作物を作っていて、いつもそのでき具合を見に通っていたのだ。そして、たまたま起こった山火事を消そうと必死に努力していたにちがいない。「どうかL君よ、安らかに眠りたまえ」。
 さて年も明けてさまざまな事件を見てきた私のコメットシーカーは、折から接近中のヘール・ボップ彗星を迎えることになりました。アメリカの2人のアマチュア天文家によって発見されたこの彗星は、近来の大物彗星として、世界中の天文愛好家達に迎えられました。1997年の早春3月、私は小さなコメットシーカーとカメラをリュックに入れて南の高見山に登りました。昔あの不審火の盛んに起こった小石木山とすぐ隣合わせの峰続きの山で、怪しい火事はこの山でも盛んに起りました。
 北の眼下に高知市の見事な夜景を見ながら急な石畳を一歩一歩とゆっくり上っていると、妙な足音が付いて来るのに気が付きました。足を止めて耳をすましましたが別段何も聞こえません。歩いていると「カッツン、カッツン」とまるで松葉杖を突くような奇妙な音が何時までもいつまでもついて来るのです。(そう言えばL君は松葉杖をついていたっけ)その様な余計な事を思いながら山の小さな頂上につきました。おりからヘール・ボップ彗星はまるで海のような夜景の広がる北の山脈の上に堂々の姿を見せています。私は独り、恐怖も忘れて恍惚と見惚れていました。
 この時です、背中の後ろから、「なかなか綺麗じやのう!」と野太い声が響きました。「ハッ」として振り返ると、そこには古い戦斗帽を冠り杖を突いた男がヌーと立っています。(オオーッ、L君!?)私は驚きと恐怖で呆然と相手を見つめました。
 しかしそれは違っていました。L君とは似ても似つかぬ顔をした老人でした。男は近くの老人ホームに入っている人で、散歩の途中との事でした。筆山の「老人ホーム」も最近火事が多く、朝倉に引っ越す事になったとの事でした。ヘール・ボップ彗星のことを教えると、なんでも子供の頃夏祭りがあって、相撲大会を見ていたら太いホウキ星が頭の上にドッカリと光っていた。大正の末頃とかでしたが、何彗星だったのか詳しいことはわかりません。、昔はお年寄りからよく面白い星のお話しを聞いたものです。
 (つづく)

自宅から見た高見山
中央右が小石木山


高見山から見た高知市街とヘール・ボップ彗星
1997年3月1日 19時30分から20秒間露出
PENTAX 6X7 105mm F2.4

2004年08月01日

コメットシーカーの怪(6)

 おかしい?「関やん」なんて私を親しげに呼ぶのは、小学の時以来いないはずだがと思って声のした方を見ると、そこには相変わらず古ぼけた戦斗帽を冠り、汚れた作業服を着た男がテントの中からじっと私を見つめているのです。その時私は「ハッ」としました。そして背筋を冷たい物がドッと走る思いでした。その男は、あの小石木山の火事の現場にいた男とそっくりだったのです。そして彼の次の言葉が更に大きな衝撃となって降りかかって来たのです。
 「関君、しばらくだったね。忘れたかい?中学の時ほら、あんたと机を並べていたLだよ。」
 「えっ、君はあの時のL君?!」
 私はあっけに取られてじっと彼の顔を見つめました。日に焼けて年齢よりは相当老けて見えますが、それは確かに古いクラスメートのL君であり、同時に火事場の男のイメージを連想させるのです。あの時どっかで見た顔とはこんな事だったのか。私はしばし呆然として、彼の言葉を聞くだけでした。彼は勉強も良くしましたが、学校では悪いことをしてほたえる(騒ぐ)仲間でした。中学校2年生のとき悪さがたたって退学となりましたが、その後予科練を志願し、乙種飛行予科練習生として入隊し、昭和20年霞ガ浦で終戦を迎えたそうです。
 「あの時はひどい空爆にあってね。ホラこの足。」
 と言って自分の左足を指差しました。なんと彼は義足をはめ、松葉杖をついていたのです。
 今は田舎で農作物を作って生活しているという彼から、少しばかりの野菜を買って帰る私の頭の中は、もつれた糸のように混乱していました。"山の不審火"スケールの大きい"わりことし"だった彼ならやりそうな事だ。しかし足の悪い彼が、まるで悪魔の跳梁するが如く捜査陣を煙に巻いて逃げ回ることができるだろうか?
 いやそれは違う。きっと他人の空似で別人だ。今は真面目で温厚な彼が犯人であるはずがない。(L君、少しでも疑って悪かったね。)と懺悔でするような気持ちで何年かが経ったある日、地方紙の記事を見ていた私は、ある小さな記事を見つけてハッとしました。
 (つづく)

2004年07月29日

コメットシーカーの怪(5)

 それから10年が経過しました。小石木山の怪火のことは、何時とはなしに人びとの心の中から消えていきました。しかし私の心の中には、その不審火は何時消えるともなくチョロチョロと燃え続け、日と共に月とともにその疑念は深まるばかりでした。
 燃え盛る赤い炎に照らされ、不敵な笑顔さえ浮かべて立ち去って行った犯人。それは一体何処の何者なのか?何の目的の放火なのか。単なる世間への挑戦なのか?
 家から小石木山の頂上まで2Km、200倍の望遠鏡で見たとすると、なんと犯人は10mの距離から顔を見られていた事になるのです。まさか犯人も、この私に遠くから顔をはっきりと見られていたとは、夢にも思っていますまい。
 蒼い戦斗帽を冠り労働服を着た男の姿は、「どっかで見た顔だ。」と思いましたが、その時はどうしても思い出せませんでした。ところが事件は意外なところで急展開しました。
 それは夏も近いある晩春の午後でした。その日は日曜日で、私は例によって高知城下にくり広がる市場の見物に出かけました。八百屋あり、海産物あり、植木あり、骨董品あり、犬猫ありのさまざまな見世物(?)を、ただ歩いて見て回るだけでも結構楽しいし、時間もかかります。こうした”市ぶら”のなかに、ふと意外な人に遭ったり、珍しい物品を見たりします。それは漬物屋のテントの前を人にもまれながら歩いていた時でした。どっかで「オーイ関!」と何者かが呼ぶのです。「一体誰だろう?私を呼び捨てにする人間はよほど親しい人しかいないのだが....。」と思いながらあたりを見回したのですが、知った人なんか誰もいません。だまって行き過ぎようとすると、またしても「関やん、待ちたまえ。わっしだよ。」と何者かが呼ぶのです。その声にはどこかで聞き覚えがありました。しかし私の知っている人は誰もいず、テントの中には一人の戦斗帽を冠った農家らしい日焼けした中年の男が、じっと私の顔を見詰めているのでした。
 (つづく)

2004年07月23日

コメットシーカーの怪(4)

 今の自宅の観測所(MPC 370)は1950年代には15cmの反射を使用していました。その頃の高知市は人口18万人で公害も少なく、今の芸西より空は良かったほどです。観測所から東南に有名な筆山(ひつざん)があり、その右手に皿が峰、小石木山などの低い峰が連なっています。
 奇妙な事件は1950年代の終わりごろから起こり始めました。即ち火の気の無い深夜の皿が峰一帯の山で盛んに火事が起こり始めたのです。これはどうやら放火の疑いもあるとて毎夜消防や警察が張り込んでいましたが、怪火はまるで捜査陣の裏をかくように起こり続け、ついには同時に二箇所以上で発生したりして、どうもこの道のプロが時限装置を使って火事を起こし、遠くからそれを見て楽しんでいる様にさえ思えるのでした。そして犯人は遂につかまらず、永久に未解決の事件として、犯罪史に残るようになったのです。
 今から30年ほどの昔"草加次郎"と名乗る人物がいて、怪盗ルパンまがいに捜査網を撹乱して逃げまわっていましたが、どうやらこの放火魔も、それと共通に、犯罪を楽しんでいるようにさえ思えるのでした。
 『犯罪を予告する。警察の捜査網が迫ってくる。しかしそこには誰もいず、まんまと物取りを成功させた男の証拠のみが人をあざ笑うかのごとく残されている。』
 "草加次郎"の名は新幹線を利用した犯罪の大捜査を最後に、永久に姿を消す事よなりました。
 今回の放火事件で私はふと今は多くの人から、忘れさられたこの猟奇な事件を思い出したのです。ところが本当に誰も、放火犯を知らなかったでしょうか?
 1959年の暮れも近づいた12月上旬のことです。私は例によって自宅庭の観測所から夜明け前1時間の東南の空を捜索していました。ところが、その問題の山からパッと火の手が上がったのです。距離は直線で2Km。私は反射的にコメットシーカーを火事の方向にむけました。そこにはメラメラと燃え上がる赤い炎に映し出された犯人と思しき人物の顔があったのです!私はただちに望遠鏡の倍率を200xに上げてみました。戦斗帽を冠りナッパ服を着た農夫か、労働者風の中年風の男は火事を見届けると、風の如く現場から立ちさっていきました。
 (つづく)

筆山の月
自宅の観測所(MPC 370)から

2004年07月10日

コメットシーカーの怪(3)

 1950年前後、本田さんの活躍によって日本の天文界は一つの彗星ブームとなりました。その頃本田さんの他に東京の角田喜久男(かくだきくお)氏、京都の原田参太郎(はらださんたろう)氏に松井宗一(まついそういち)氏、山口の浅野英之助(あさのえいのすけ)氏、香川県の川人武正(かわんどぶしょう)氏らが、それぞれ意匠を凝らしたコメットシーカーを自作して彗星を捜索しました。この少し後で花山天文台の三谷哲康(みたにてつやす)氏も加わって一大捜索合戦を展開する事になるのです。しかし、この時代実際に成功したのは本田さん一人で、このメンバーで発見した人はおりません。”彗星発見は本田さんに限る”という一つの神話が生まれたのです。機器は10cm~15cmの反射が多く、中には12cmF5の屈折が一台ありました。関西光学が15cmの反射式コメットシーカーを売りだしたのも、この頃だったと思います。実はもう一人Seki と言う新前の少年(?)が土佐の高知の片隅で10cmの反射鏡をひっさげて盛んに観測をやっていましたが、これはこのメンバーに入るほどの男ではありません。もう10年待ってください。
 さて今日の”コメットシーカーの怪”とは京都の原田参太郎氏の事です。事件は本田さんが ”Honda-Mrkos-Pajdusakova彗星”を発見した1948年12月4日の早朝のことです。
 原田さんは15cm反射鏡を使って夜明け前30分、東南のヒドラ座(うみへび座)付近を上から下に向かって水平捜索をやっていました。本人の言う事では、明らかに本田さんの視野より30分先行していたそうです。すぐ目前にあの新彗星が、発見を待っていたはずです。しかし彼の視野に飛び込んで来たのは、彗星の光芒ではなく、近所で起こった火事の赤い炎だったのです。当然彼は火を消しに走りました。そうこうするうちに夜が明け、その頃広島県の瀬戸村で本田さんが発見の凱歌を挙げていたのです。
 彗星の発見は努力が第一ですが、確かに運不運に左右されやすいものですね。
 原田さんは、その後どうされたでしょうか?ここからが大切なことです。
 さて次回は同じ火事でも私が関与した、とんでもない事件・・・そしてコメットシーカーの怪・怪・怪です。
 (つづく)

2004年07月05日

コメットシーカーの怪(2)

 1966年5月、池谷薫(いけやかおる)さんと私は、天文台の冨田さんの案内で、埼玉県の堂平観測所を見学しました。その頃は空が良く南天のさそり座付近の天の川がよく見えました。
 91cm反射は多くの周期彗星の検出に活躍し、日本記録は無論世界的にも注目される活躍ぶりでした。冨田さんのほか下保さんも観測されていました。人工衛星の観測も熱心で、世界的な観測網の一環として、アメリカ製のベーカーナンシュミットカメラが配備されており、盛んに追跡が行なわれていました。
 実は私がここで見つけた奇妙な物は、そのファインダーです。口径20cmほどの屈折望遠鏡が取り付けられ(画面の右端)、カメラの案内役を勤めているのである。これぞあの幻のツァイス製のコメットシーカーの筒だったのです!トリプレットの完璧と思われるこのレンズは一体どのような星像を見せてくれたでしょうか。コメットシーカーのマウントから離れ、今はシュミットカメラのファインダーとして、立派にその役目を果たしていたのです。
 実は1961年3月、大阪でテンペル第二彗星の検出者である百済教猷氏の講演を聞く機会がありました。世界の珍しいコメットシーカーについて話されましたが、最後にツァイス製の機械について触れ、60cm屈折を購入したときついでに買わされたものだろう、と結論付けられました。しかし1949年ごろある科学雑誌に、このコメットシーカーが図解で詳しく紹介され、その頃実はこれを使う伏兵が存在したことが報じられています。
  (つづく)

ベーカーナン・シュミットカメラのファインダーとして取り付
けられたツァイス製20cmコメットシーカーの鏡筒(右端)