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1999年4月の日記

●4月29日
 福井県の武生市国府2丁目の松本敏一さんからホームページを見ているとの激励のメールをいただきました。
 松本さんは古くからのコメットハンターで、私が1962年”関・ラインズ彗星”を発見したときからの手紙の友人でした。私のホウキ星に憧れた松本さんは大のファンとなって、間もなく結婚されてから長女が誕生したとき、私の妻の名をとって興子(おきこ)と、そして長男が出来たとき、勉と名づけられました。3年ほど前、講演で福井県を訪ね、彼の家(うどん屋さん)を訪ねたとき、コックをやっている勉さんと初めてお会いし、大変美味しいうどんをご馳走してくださいました。独得のタレによるうどんの料理は武生市の名物になっています。
 松本さんは今も熱心にコメットハンターを志していますが、私が1966年に出版した「未知の星を求めて」を読んだのが文通の始まりでした。表紙がボロボロになって修繕を重ねた懐かしい本を出してきて、30年振りにサインをして欲しいと言われます。私は「祈・彗星発見」と大きい字で書いて彼を励ましました。
 私が『この本で一番気に入ったのはどこの文章ですか?』とたずねると、彼はすかさず『同じ破れるにしても自己の最善をつくした上で破れるんだ。という言葉が最も印象に残りました。』と答えました。

 思えば私こそ人生の敗北者のひとりでした。彗星の発見を志して10年余、ついに努力が酬いられず死を決意して深い山に登ったのです。思い心を引きずるようにして深い谷を歩き、暗い森を抜け、苦しい山道を。呻吟しながらふと見上げた空に美しい霊峰「三嶺」の姿がありました。どんなに苦しく道は険しくとも、一歩一歩の努力を続ければいつかは山頂に達する。私はまだまだ努力が足りなかったんだ。と、そこには何でもないあたり前の解法が待っていたのです。私の人生の1つの転機となった山”三嶺”はいま小惑星(3262)として宇宙を飛んでいます。


三嶺(みうね)
●4月23日
 今日も雨。雲のあちら側ではどのような天象が起こっているだろうと少々いらいらしています。天気予報では明日も明後日も雨またはくもりと発表しています。
 しかし、テレビで気象衛星が写し出した日本列島付近の雲の様子は、写真の如く九州や四国は西の大きな晴れの区域に入ろうとしています。芸西天文台の”関予報官”の予想では、間もなく晴れるということで天文台行きの準備をしていました。雲はゆっくりと東に移動しているのにどうして雨の予報が出るのでしょうか?長い雨天が続いているとき、明日は『晴れ』と決断する自信がないようです。天気予報はいたずらに従来の慣習に頼るのみではなく、ある程度予報官の”勘”も必要ではないでしょうか。23日遅くから天気は快方へ、24日には見事な晴天!勇躍して天文台へ向かいました。
 私は気象台の天気予報は参考程度とし、衛星による雲の様子から自分で判断しています。雲は東または北東に移動していますから、おおよその判断は可能です。それに四国地方は予報と実際の現象は半日くらいずれているようです。例えば、『明日は晴れ後曇り、夕方から雨になりましょう』と言った予報の場合、大抵朝から駄目なのです。この半日のずれが天体観測には重大なので、そういった長い間の統計に支えられた現象についても自分で判断し、私なりの天気を予想しています。
[気象図]

●4月22日
 雨天が多くなりました。今日は高松市の屋島の近くのホテルで講演会があって出かけてきました。高知から四国の東の玄関は高松市まで高速バスで2時間。大昔は土讃線の列車で100個余りのトンネルを抜けて6時間もかかって着いたことを思うと全く夢のようです。
 会場は三菱電機関係の四国地区での会合で、この会社もあのスバルの望遠鏡の主鏡部の、バランスの補正のための(ミラーのカーブを常に正しく保つ)制御モーターの製作に関与したということでしたが、スバルという望遠鏡は色々な会社の技術が応用されて出来たことを改めて知りました。
 私の演題は、「星を見つめて」。40才〜50才代のエピソードを楽しく語りかけました。イケヤ・セキ彗星から32年!思い出は茫としてかすもうとしていますが、彗星のイメージは未だ鮮烈な印象として脳裏に焼き付いています。

●4月16日
 1964年4月某日、私たちの発見した彗星について東京天文台から<アナタガタノハッケンシタスイセイハ、コップスイセイデス>との返信に接したとき、正直に言って目の前が暗くなりました。それにも増して折角第1号を発見したと思っている土佐市の池氏に対する気の毒な気持ちが先に立ちました。さまざまなコメットシーカーを考案試作して捜索の先頭に立っていた同氏に余りにもみじめな仕打ちでした。コップ彗星というのは、周期が5〜6年で毎回顔なじみの周期彗星だったのですが、1964年の回帰はBAAのハンドブックで15等の予報が出ていたのです。それが何と5〜6等級(約100倍)も増光して現れたのです。当然のことながら、この現象は東京天文台からスミソニアンに打電されました。この様な例は少ないながらも過去にペライン彗星とか、ショーマス彗星とかに見られました。
 もしコップ彗星が新彗星だったとしたら、その名は発見順序から言って”イケ・セキ・イケヤ彗星”という奇妙な名となったことでしょう。
 ところが僅か1年後の1965年9月に本物のイケヤ・セキ彗星がそれから登場したのです。それについていくつかおもしろいエピソードがありますが今は割愛しましょう。さて、池谷・関彗星はその後太陽のコロナの中に入って爆発的に成長し、多くの人に注目されましたが、”イケヤ・セキ”という変わった名称に由来するミスが後を断ちません。いつかNHKのテレビ番組で”セキヤ・イケ彗星”と放送されていましたし、ある高等学校へ講演に行くと校長先生が私のことを”池谷勉さん”と紹介してしまいました。また、銀行の窓口では、私を”池さん”と呼びました。大して影響のない事務だったので、私も「池」になりすまして帰ってきたとか。このような滑稽な話は後を断たないのです。しかし、肝心の池さんは今ではすっかり天文から足を洗って盆栽いじりに余念がないとか。私が訪れ、昔話をすると、『ああ、そんなこともあったね。アッハッハ』と。

●4月15日
 風が吹いて寒い日です。昨夜遅くから芸西村の天文台にやってきて天体観測を始めました。メインの60cm反射望遠鏡で遠くの暗い天体を狙っての作業を約5時間続け、そして夜明け前の1時間は別の観測室に移って12cm双眼式コメットシーカーに頼って、夜明け前の東天の捜索です。小馬座周辺の明るい球状星団が2つ視界に入ってきました。こうした有名な星団や星雲は、すべて頭の中の星図帳に記録されていますから、いちいち星図を見ることはありません。やがて夜の白む頃、東北にペガソスの四角い星座が浮かび、一部森にけられて少し気になりながら作業を終了しました。
 午前4時すぎ、東南の低い空にやぎ座が上ってきたとき、ふと大昔の大失敗を思い出しました。あれはたしか自宅の物干し台でやっていた1964年だったと思います。4時30分頃、やぎ座の中に9等ほどのモーローと輝く彗星を発見しました。直ちに位置の観測をやっていたら、何者かが門戸をドンドンと叩くのです。そして「おーい、ホウキ星を発見した、早く開けてくれ!」と言っているようです。何事かと出てみると古い星の友人で土佐市に住む池幸一氏です。持ち前のどんぐり目を一層光らせて「今朝とうとうやった!」と言うのです。何でも15キロの道を大急ぎで軽四のトラックで飛ばしてきたとか。そして彼の主張する発見位置はなんと、私がたった今、見つけた星とピタリと一致するではありませんか!余りの出来ごとに、池氏は足が立たなくなりました。「よーっし、僕が天文台へ報告してくる。君は休みよりたまえ」とようやく明けはじめた空気の中を私は電報局に自転車で走ったのです。当時浜松市近郊に住んで居られた池谷さんまで巻き込み、そして来たるべき1965年の”池谷・関彗星”発見の前哨戦ともなったこのホウキ星は何者だったのか。そして発見の行方は?この続きはまた明日の日記ででもお話しましょうか。
●4月14日
 鏡川畔の土手に咲く桜はようやくピークを過ぎようとしています。先日の強い風雨にもじっと耐えた花は、初夏を思わす陽光の中にヒラヒラと散り始めました。
[築屋敷の通りの桜]
 ここは有名な築屋敷という通りで、石垣の古い家が3丁にわたって続いています。左手の石垣は坂本竜馬が剣道の修行に通ったと伝えられる道場のあったところです。
 桜の木の間に見える遠い山は筆山といって、鏡川の清流に影を落とすとき、ちょうど筆の穂の形に見えることからその名があります。この山はかつて”荒城の月”の作詞で有名な土井晩翠が
筆山吸江近くにありて
明朗われらが環境うれし
 ・・・・・・・・・・・・・・
 とその風光明さを歌っています。そして彼は筆山のすぐ北に立つ大高坂城(高知城)を見ていたのです!! 名曲”荒城の月”は鶴ヶ城や青葉城がそのモデルになったと伝えられていますが、土井晩翠の見た高知城も、モデルの1つではないかと思うのです。いつか月の高知城のほとりを歩いてみましょう。またすばらしい発想が湧くかもしれません。
[築屋敷の通りの桜]

●4月10日
 鏡川べりの桜が満開となったところで今日は強い風雨に見舞われました。予報ではたしかに雨となっていましたが、このような台風まがいの荒天になるとは言ってませんでした。
 先日気象庁は長期の予報は当たる確率が低い(40%くらい)ので今年から先々まで見通すような予報は考え直すことを発表しましたが、天気予報というものは明日を正しく読むのさえ難しいのに長期予報というものは無駄ではないか、と私は常々思っていたのです。占いで晴れるか曇るかでたらめを言ったとしても、当たる確率は50%あります!40%とは如何にも低い値です。
 それに”注意報”というのがよく出ますが、多くの場合風雨が強くなりかけてから発表されることがあるようです。もしお天気の良いとき、前もってこうした予報が出せるでしたらすばらしいと思います。例えば外出や朝出勤するとき、傘やレインコートを持って出かけるという風に。強く降り出せば危ないということは誰にも分かりますし、また逆に”注意報”が軒並みに出ても我々はなれっこになってしまって、大して気にしなくなるでしょう。天文学はアメリカのパロマー山やハッブル望遠鏡の活躍に代表されるように、この半世紀に素晴らしい発展を遂げました。それに比べて天文学とほぼ同じ歴史を持つ気象学は予報術に関してその発展が随分遅い様な気がします。

●1999年4月5日
 花ぐもりの日が続きます。久しぶりに鏡川の河原に降りてみましたら、水の少ない川面に、いつの間にかカモたちの姿が見えなくなっていました。閑散とした風景の中に一羽のアヒルが坐って羽を休めている姿が印象的でした。いつもカモたちの群れに交って仲良く「ガアガア」と泳いでいたのですが・・・。カモたちは今ごろは北に向かって飛んでいるのか。或はもうすでに異国の風土の中になじんでいるのかもしれません。
 この鏡川は小惑星4256番として星になっています。竜馬も子供のころ裸でやって来て、この川で泳いでいたそうです。竜馬の生家は、川から僅か500米くらいの所にあり、私の家からも歩いて2分くらいの電車通りです。

 さて、星に命名するということは発見者の特権で、私のやっている芸西天文台では1980年以来1500個以上の小惑星を発見し、その中の約100個が認められて、それらの90%に名がついています。先ほどの竜馬もそうですが、それらは歴史上の人物や四国地方の名所が多く含まれています。しかし最近では命名も相当行き渡って私とあまり関係のない人の名まで第3者の依頼によって付けるようになりました。現在私の所属する東亜天文学会関係の命名が多くはかどりました。こうして命名すると、ご本人や、そのご遺族の方から大変丁重なお礼の言葉を戴くことがあり、その度に”良いことができた!”と感激します。しかし一方では、折角命名しても全く音信不通という方もまれに居られます。この現象は私の場合だけではなく、国内の広い範囲で同じ様な傾向が見られるらしいのです。星の命名は発見者こそが重い比重をしめていることを知っていただきたいと思います。
 新天体の発見というものは、大変な努力と時間の堆積によって生まれるものです。1つの小惑星がスミソニアンのセンターで無事承認され、登録されるまでには発見から少なくとも2年から、場合によれば8年も追跡観測をしなくてはなりません。こうして手塩にかけて育てて来た星ですから、これからは発見者にとっても真に意義のある”名付け”を行っていきたいと思っています。

 さて近々1つの星に命名を行います。これはきっと皆さんにとっても身近で楽しい名前となることでしょう。お楽しみに!!



Copyright (C) 1999 Tsutomu Seki. (関勉)