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2005年03月25日

 月が明るくなって観

 月が明るくなって観測は暫くお休みです。
 滋賀県野洲市(旧・中主町)の苗村敬夫(なむらたかお)さんからお便りがあり、滋賀県の新聞に紹介された苗村さんの鏡研磨に関する新聞が送られてきました。現代の反射鏡研磨の名工として紹介されたもので、苗村さんのことは度々新聞他で紹介されています。文字どおり日本の第一人者としての貫禄がうかがえます。
 私の彗星発見は苗村さんの製作したレンズから始まりました。口径88ミリF7の対物レンズは見事な星像で、微弱な光の彗星を発見するにはいかにピントの良いレンズが必要なのかを痛感したのでした。1961年の「コメットSeki」から1965年の「イケヤ・セキ」までこのレンズを使用しましたが、いずれも極度にピントが良くないと見逃していただろう彗星ばかりでした。このレンズが苗村さんの第一号の対物レンズだったのですから驚きです。徳島県那賀川町の1メートル鏡も苗村さんの製作ですが、天文台開所記念観測会の時、私の88ミリレンズも出向いてドームの中で共に星を見たのもなつかしく、この日はまさに「苗村」だらけとなりました。
 苗村さんは新聞の記事によると、いま国立天文台の20cmを磨いているそうでプロからの信頼も厚いことを伺わせています。
 写真はオーストラリアの古豹ブラッドフィールドさんが芸西に見学にやってきて「イケヤ・セキ彗星」発見の88ミリコメットシーカーを見ている所で、鏡筒には発見した3つの彗星の年月日を記載しています。
 日本での反射鏡製作の起こりは19世紀始め頃の中村要(なかむらかなめ)氏でしょうか。日本ではこの中村-木辺-苗村という流れがしっかりした太い線となって今日に移ってきたものと思います。ただ京都の中村氏とほぼ同じころアメリカに留学していた山崎正光(やまさきまさみつ)氏がやはり反射鏡の製作法を習得し、1920年ごろ日本に帰って「反射望遠鏡の製造法」と言う本を出版しています。彼は20cmの反射式コメットシーカーを自作して1928年10月に「クロムメリン彗星」を発見したのですが、彼は弟子を取らなかったので、その研磨法は伝わりませんでした。ところが興味深く思うのは、山崎氏のコメットシーカーについていた20cmF7の鏡が、後名古屋の山田達雄氏を経てこれも鏡研磨の名手九州の星野次郎氏に渡ったのです。目的は再研磨だったのですが、パラボラ鏡の精度は球面程度だったという話が残っています。私は星野さんの鏡は持っていませんが、一度手に入れたいと思ったことがあります。然し星野さんは数年前に逝去されました。何時かの日、私の物干し天文台にあがってテレスコープを観ていた星野さんのことが偲ばれます。

イケヤ・セキ彗星を発見したコメットシーカーを
手にするブラッドフィールド氏
1991年3月

2005年03月13日

 夕方芸西の天文台に

 夕方芸西の天文台に向かう時、お天気の良い日には良く途中の海岸に出ます。高知市から室戸に向かう55号線は多く海岸を走っているのです。この日天文台の近くの「琴ヶ浜」に出てみると、折からの落日で砂浜には陽炎が立って僅かに春の香が漂っていました。小惑星に「Kotogahama」と名づけた20年前は、1935年に植えられたという松林はその緑の美しい松でしたが、今は松くい虫と酸性雨のため、茶褐色に枯れ見る影がありません。それに美しい渚には野外劇場や海水プールが出来て、白砂青松の浜に憧れた時の面影は有りませんでした。田舎の美しい所がすぐ都会的になろうとするのは面白くありません。田舎の昔からの風景があってこそ我々は素晴らしいと思い足を運ぶのです。
 私の好きな土佐で一番美しいと思う西の「大岐の浜」がバルブのはじける前、都会の業者によって大規模の遊園娯楽地に開発されようとしたことがあるという話を聞かされ、心筋寒からしむ思いをしたことがあります。地元の反対もあってやまったようですが、もし出来ていたら、今ごろはどのような惨めな「残骸」になっていただろうかと思うことがあります。高知市から3時間余、ちょっと行くに遠いところです。春爛漫の頃には久々に行ってみましょうか。今もあの遠い夢のような渚と松原は安泰でしょうか。

早春の琴ヶ浜