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2009年09月19日

クロイツ族彗星の思い出

 毎年9月の中旬が訪れるとクロイツ族の彗星がやってくる時期だ、と強く意識します。彗星界に一つの嵐を巻き起こしたこのグループの彗星は大犬座の東の天空からやってきたのでした。
 今朝は格別それを意識して捜索したのではありませんが、15cm双眼鏡の視界はいつの間にか夜明け前の東南の天空に向いていたのです。1965年9月19日朝の発見は、大犬座のアルファ星とベーター星の東への延長方向と、ふたご座の同じくアルファ星とベーター星の東への延長線との交点に正しく現れたのです。つまり毎年9月19日にはこのグループの彗星は、必ずここから出てくるのです。フランスのリゴレ博士が日本でのたった1回の発見位置の電報を見ただけで、この彗星がクロイツ族のものであって、この年の10月21日に近日点を通過する事まで予言し、ピタリと当たったのはお見事でしたが、それにはそのような理由があったのです。そしてスミソニアンからの報道は彗星が20世紀最大の明るさになることまで早々と予測して、マスコミに流したのでした。
 捜索しながら、空は1965年当時の高知市の空の方が、今の芸西よりはるかに良かったことを痛感していました。あの日は台風通過直後でもあり、下弦の月があったとは言え非常にクリヤーでした。光度が8等級とは言っても、当時の88mm屈折では限界の明るさでした。いまもし、あのときの彗星が現れても、この15cmで発見できるだろうか?との疑問を抱えながらの捜索となりました。
 捜索は午前3時半から4時半までの1時間でしたが、空が完璧ではなく夜明け前には月と金星が並んで輝き、黄道光も射して9等星の発見が著しく困難と思われました。
 昔発見した88mmの屈折のピントは素晴らしく良かったのですが、15cmの双眼鏡のピントも断然明るくて気持ちの良い視野です。今回はナビゲーターを取り付けての掃天となりましたが、電池の消耗がやや速いのと、四角い形の小型電池のリード線が切れやすく(ハンダ付けが取れる)万全ではありません。予備を持っていないと慌てることになります。しかし薄明の、星のない空で、位置の分かるのは最高の効果です。昔、倉敷の本田さんは、相当に明るくなった明けの白い空まで熱心に捜索していました。まだナビゲーターの無い時代で経緯台の泣き所を非常な観測者の努力と経験でカバーしました。熟練とは尊いものです。その熟練と経験は常に観測している人間にのみ備わっているのです。


「1965年11月3日付けで南アフリカの新聞スター紙に
掲載されたヨハネスブルグ市上空のイケヤ・セキ彗星」
彗星は南半球が最も良く見えた。

2009年09月12日

古里への道(2)

 国宝「朝倉神社」の参道を出て、近くのJRの踏み切りを渡るとすぐ小川の道に出ました。幼い頃から度々通った懐かしい道です。この赤鬼山の麓を流れに沿って1キロほど北に歩くと、「中ノ谷」の父の実家にたどり着くはずです。昔は水車が廻り、夏には沢山の鬼ホタルが舞っていた静かな村だったのですが、私の行く手には巨大な高速道路の橋下駄がでんとすわり、小さな谷の村を跨ぐように道路が走っているのです。その巨大な橋げたの下で、地元の人らしい老婆に聞いて、やっと親戚の家の方角が分かりました。半世紀以上の間にいろんな近代的な建物や施設が出来て、村は全く様相を異にしていました。親戚の家も一部建て替えて昔の面影はありませんでした。しかし、戦時中私が生活した古い納屋の二階建ては、そのまま残っていました。


終戦前後の3ヶ月を過ごした家

 中学生のころの私は、無論天文は知らずに、ラジオ少年でした。上町の自宅では毎日の空襲に備えて、中庭の防空壕に鉱石ラジオを持ち込んで情報を聞いていました。そして田舎に疎開した時には外国の放送が聞ける短波受信機を自作して、密かに日本向けの放送を傍受していました。外国からの短波放送を聴くことは、国から硬く禁じられていました。なぜならでたらめの多い大本営発表とは全く違い、本当の戦局が知れたからです。国民の多くが、劣勢な戦局を知ったら、戦う士気が失われると言う事で、禁じられていたのです。常に家の周辺や街中では特高や憲兵の鋭い目が光り、もし違反したものは容赦なく投獄されました。しかし(本当の戦局を知りたい、、)の好奇心は、あえて困難で危険な短波受信機の自作へと進んで行きました。
 上町の自宅の近くに「最善社」というラジオの老舗があって、度々足を運んで、自作のための材料を買いに行きました。短波を受信するためには、その短い周波数に同調するためのコイルの巻き方に秘密がありました。何回か失敗をくり返しながら、やっと「ピー」という発信音に混じって、海外からの放送が聞こえたときには、躍り上がって喜びました。
「日本ノミナサマ、今日ハナツカシイタンゴノ調ベトトモニ正シイ現在ノ戦局ニツイテオ知ラセシマス」といったアナウンスでアメリカや、南方の敵性国からの放送が盛んに入ってきました。そして致命的ともいえるポツダム宣言受託のニュースは、疎開先の納屋の二階で密かに聞きました。「日本破れたり」のニュースは、誰よりも早く入手したのですが、この家から出征した2人の兄弟の兄(わたしの従兄弟にあたる)が南方で戦死との悲報が同時に入って、慟哭しました。
 私が立って懐かしい二階を眺めている足下の小道に赤い彼岸花が一輪咲いていました。ここには昔清らかな清水の湧き出ていた場所で、道の側に水貯めの桶と、ひしゃくを置いてありました。戦死した従兄弟と遊びながら水を汲んで飲んだ思い出が蘇り、私は思わずその一輪の花に手を合わせて拝みました。


赤鬼山のふもとを流れる小川

2009年09月03日

古里への道(1)

 8月15日の終戦の日が過ぎても、私たち一家は戦災によって荒廃した上町の家に帰る気になれずに、暫らく父の故郷に滞在することになりました。9月に入っても連日のように晴天が続き、夜は見事な星空が頭上に展開しました。終戦後はここから学校に10キロほどの道を歩いて通いました。電車もバスも空襲でやられて、交通は全く麻痺していました。
 あれは確か終戦の前の日だったと思います。夜中にB-29の爆音が聞こえてきて庭で空を見ていた父が「しまった!ここへ落ちた」と大声で叫びました。空中で何かが光ったそうです。すると「ザーッ」という爆弾の落ちる独特の音が聞こえ始めました。私はどうしていいやら分からず、土間で中腰になっていると、外の山の方で「カーン」という大きい音が木霊(こだま)しました。(爆弾にしてはなんだか変だな)と思い、翌朝外に出てみると、家の北側の山の斜面に、一面に白い紙が落ちていました。手に取ろうとすると父が「あぶない!爆発する」と叫びました。しかしそれは爆弾の一種ではなく、ただのビラのようでした。
 「日本ノミナサマ、今日ハ私タチハ爆弾ヲ落トシニキタノデハアリマセン。お国ノ政府ガ申シ込ンダ降伏ノ条件ニツイテオ知ラセシマス...」
 という書き出しで、日本がポツダム宣言を受託して、無条件降伏することになったことを綿々と難解な日本語で書き連ねてありました。高知市の中央を狙って落としたものが、行き過ぎて、市の西北の私たちの小さな村に落ちたのです。無論私たちは敵のデマ宣伝だと思い込み信用していなかったのですが、しかしその事実は、翌日の玉音放送によって現実のものとなったのでした。こうして9月に入った最初の満月の夜は何時に無く美しく冴えて、15歳の少年だった私はただ無心に歩きました。新時代への不安と期待の入り乱れた彷徨でもありました。

 戦中から戦後にかけての一時期を過ごした故郷のことは忘れられず懐かしく、今回再び訪ねてしまったのです。戦時中父がよく自転車で通ったコースを通ってみました。JR朝倉駅に近いところに朝倉神社があり、父はよくその境内から北に入っていました。朝倉神社は昔のままにありました。父はこの神社を「木の丸様」と呼んでいましたが、昔は神殿の前に立派な台を置いて石を祭ってあったそうです。今になって(もしや隕石ではないだろうか、、、?)との期待もあったのですが、それらしいものは見つかりませんでした。まず参道の巨大な杉の木には驚かされました。樹令は恐らく千年はあるでしょう。かなり長い立派な杉の参道が続いて、やがて神殿が現れました。神殿の側壁に中国の風景らしい大きな立派な絵が書いてありました。私も幼い頃から父に連れられて、この道を何度も歩いて田舎に通ったことでした。(はたして郷里の家は見つかるだろうか?)不安を抱えながら神殿を拝み、幼い頃の記憶を頼りに歩き始めました。


巨大な杉の老木のある参道


珍しい絵の書いてある神殿