2013年07月04日

七夕の星

 私が『たなばたぼし』と初めて出逢ったのは、いまから遠く昭和20年7月4日の未明のことであった。太平洋戦争の末期で、高知市がB-29による大空襲を受けた夜のことである。
 その頃、私たちは、敵機の空襲に備えて、日ごろ町内では防空演習に余念がなかった。そして、各家庭では庭や空地に、共同で防空壕を掘って、空襲が昼夜をいとわず、激しくなった昭和20年には、ほとんど壕の中で生活していた。
 私は遊び盛りの中学生で、大人たちが降りかかる災難のなかで右往左往するのを案外平気で眺めていた。そして愛用の豆カメラで記録に収めた。中庭に父と手伝って掘った防空壕。町内での多くの婦人が参加しての防空演習。そして大空襲によって、一晩にして灰塵と化した市街の様子など、お粗末な”豆カメラ”が撮った貴重な記録である。『グッチー』は、フイルムの幅がわずか18mmの裏紙付きで18枚撮り。常にポケットの中にあって活躍した。


若い人が出征したので、女性や老人が主体となって
行った町内の「防空演習」高知市上町2丁目

 その昭和20年7月4日の未明のことである。一家6人で壕の中に入っていた私は、空襲警報が発令されたものの、敵機のやってくる気配がないのを幸い壕から這い出た。空を仰ぐと、そこには敵機ならぬ一つの蒼い大きな星が輝いていた。これが「織女星」との初めての対面であった。穏やかな星の世界を眺めていると、平和に暮らした昔の幼い頃の楽しい思い出が蘇ってきた。やがて間もなく轟轟たる爆音が天地に木霊し始め、無数の焼夷弾による空襲が始まったのである。
 高知市は、この日の空襲によって町の70%を焼失した。そして間もなく終戦になったものの、不幸は続くもので、翌年12月の南海道大震災によって、焼失から免れた下町の多くは津波に襲われることとなったのである。正に災厄の街であった。


空襲によって一晩にして廃墟となった上町3丁目付近

 防空壕のあった中庭では、昔は七夕のお祭りをした。2本の竹につるした色とりどりの短冊が夜風に舞った。そう、昔は旧暦の七夕祭りであったので、そろそろ夏が終わろうか、という気候の良い時期だった。星も美しかった。今の七夕は昔と違って梅雨の真っただ中で星祭の風情はない。
 戦後は防空壕のあった場所に観測台が出来て、平和な時代にほうきぼしを探す作業が始まった。Comet Seki(1961 T1)は、写真に見る防空壕の土の盛り上がった場所から発見したのである。


関宅の中庭に掘った防空壕


2010年07月25日

書家、関琴堂のこと

 かれこれ10年ほど昔の事でしょうか。小学時代の友人が上町1丁目にある総合病院に入院されたとかで見舞いに行った時の出来事です。門をくぐり、近代的な明るいロビーに入ったとき、そこの壁に古びた掛け軸がかかっているのに眼が止まりました。表装された書道の書は「健康十訓」と題して、健康に必要な食生活や体調管理に関する戒めですが、驚いたことに、今やかましく言われるこれらのことが、およそ1世紀近い昔に早くも論じられていたことです。そして更に驚いたことは、この字を書いた「雪峰(せっぽう)」の雅号です。「雪峰」とは、実は私の伯父(母の兄)の芸名だったのです。そうです、大正ロマンに時代を先走るようなことをやって世間を驚かした人です。
 関 琴堂(きんどう)は書家でした。松本芳翠(まつもと ほうすい)川谷横雲(かわたに おううん)の教えを受け、若いころから書道に邁進し、「筆林会」という塾を立ち上げて全国から会員を集めました。「筆林」という会誌を発行し、大正から昭和の初めにかけて会は全盛を極めました。遠く北海道や九州から教えをこうて訪れる人も居ました。しかし若いころからの持病(肺結核)が高じて昭和8年、36歳で病没しました。私の3歳のときですが、私は全く伯父を覚えていません。そして不思議な事に伯父の字は1枚も残されていないことでした。病院での掛け軸との対面は、正に始めての伯父の作品との出会いでした。
 近代的な病院が、そのロビーにこの古色蒼然とした掛け軸を敢えて掲げた事には、なにか私の知らない秘密があるに違いないと思います。この病院の初代の院長であった国吉氏と伯父、琴堂は何らかの関係があったのか...。伯父琴堂は大正年代に音楽や無線、蓄音機なんかに異常な興味をもち、あるものは自分で開拓して行きましたが、天文に関する資料は全く残されていません。1910年のハレー彗星接近の時には8歳で、当然彗星を見たはずですが、伯父が残した多くの品物の中には天文に関するものは何もありませんでした。


伯父 関琴堂(きんどう)雪峰(せっぽう))と掛け軸

2010年07月07日

七夕の日の思い出

 今年の七夕は珍しく雨にならず、僅かですが星が見えました。今でこそ七夕を個人の家庭で祭ることは、少なくなりましたが、私が幼いころには、毎年、必ずお祭りをしていました。やはりその主役は母でした。少し迷信に偏るところがあったようです。
 中庭に立てた2本の竹を縄で結び、その下に祭壇のようなものを置いて、お供え物をしました。昼間のうちに沢山の色とりどりの短冊にお願い事を書いて吊るしました。夜風がさらさらと吹いて無数の短冊が揺れ、その上にお星様が輝いていました。そうです、そのころの七夕は旧暦で祭ることが習慣でしたから、8月中旬頃の梅雨はとっくに明けて、お天気の安定した頃だったのです。
 ここ上町の空には、まだ見事な天の川が懸かっていたころです。
 涼み台に座って、お年寄りから昔話を聞いたのも懐かしい思い出です。夜が更けると、秋の気配が忍び寄ってきて、肌寒くなりました。

 写真は1915年頃の我が家の中庭での七夕風景です。白い短冊だけしか見えませんか?どうか我慢して下さい。この写真は1世紀も経っているのです。右端に浴衣姿で黒い仔犬を抱いているのが母です。この犬、名前を”エス”と言って大人になって、家のために大活躍するのですが、それは後のお話です。

 それにしても一体、100年も前に誰がこの写真を撮ったのでしょうか?まだライカも生まれていなかった時代に、コンパクトカメラを自作して、現像、焼付けまで自分でやっていたのです。町には写真屋が、まだありませんでした。
 この謎の男は高知県で初めてヴァイオリンを弾きました。そしてラジオ受信機を自作し、遠距離の放送を受信しました。NHK高知放送局が、まだ開業していない時にです。この私の家系での風変わりな人物は後で登場します。一寸した夏の夜のミステリーです。


1915年頃の関宅の中庭
撮影者:関 琴堂

2009年09月12日

古里への道(2)

 国宝「朝倉神社」の参道を出て、近くのJRの踏み切りを渡るとすぐ小川の道に出ました。幼い頃から度々通った懐かしい道です。この赤鬼山の麓を流れに沿って1キロほど北に歩くと、「中ノ谷」の父の実家にたどり着くはずです。昔は水車が廻り、夏には沢山の鬼ホタルが舞っていた静かな村だったのですが、私の行く手には巨大な高速道路の橋下駄がでんとすわり、小さな谷の村を跨ぐように道路が走っているのです。その巨大な橋げたの下で、地元の人らしい老婆に聞いて、やっと親戚の家の方角が分かりました。半世紀以上の間にいろんな近代的な建物や施設が出来て、村は全く様相を異にしていました。親戚の家も一部建て替えて昔の面影はありませんでした。しかし、戦時中私が生活した古い納屋の二階建ては、そのまま残っていました。


終戦前後の3ヶ月を過ごした家

 中学生のころの私は、無論天文は知らずに、ラジオ少年でした。上町の自宅では毎日の空襲に備えて、中庭の防空壕に鉱石ラジオを持ち込んで情報を聞いていました。そして田舎に疎開した時には外国の放送が聞ける短波受信機を自作して、密かに日本向けの放送を傍受していました。外国からの短波放送を聴くことは、国から硬く禁じられていました。なぜならでたらめの多い大本営発表とは全く違い、本当の戦局が知れたからです。国民の多くが、劣勢な戦局を知ったら、戦う士気が失われると言う事で、禁じられていたのです。常に家の周辺や街中では特高や憲兵の鋭い目が光り、もし違反したものは容赦なく投獄されました。しかし(本当の戦局を知りたい、、)の好奇心は、あえて困難で危険な短波受信機の自作へと進んで行きました。
 上町の自宅の近くに「最善社」というラジオの老舗があって、度々足を運んで、自作のための材料を買いに行きました。短波を受信するためには、その短い周波数に同調するためのコイルの巻き方に秘密がありました。何回か失敗をくり返しながら、やっと「ピー」という発信音に混じって、海外からの放送が聞こえたときには、躍り上がって喜びました。
「日本ノミナサマ、今日ハナツカシイタンゴノ調ベトトモニ正シイ現在ノ戦局ニツイテオ知ラセシマス」といったアナウンスでアメリカや、南方の敵性国からの放送が盛んに入ってきました。そして致命的ともいえるポツダム宣言受託のニュースは、疎開先の納屋の二階で密かに聞きました。「日本破れたり」のニュースは、誰よりも早く入手したのですが、この家から出征した2人の兄弟の兄(わたしの従兄弟にあたる)が南方で戦死との悲報が同時に入って、慟哭しました。
 私が立って懐かしい二階を眺めている足下の小道に赤い彼岸花が一輪咲いていました。ここには昔清らかな清水の湧き出ていた場所で、道の側に水貯めの桶と、ひしゃくを置いてありました。戦死した従兄弟と遊びながら水を汲んで飲んだ思い出が蘇り、私は思わずその一輪の花に手を合わせて拝みました。


赤鬼山のふもとを流れる小川

2009年09月03日

古里への道(1)

 8月15日の終戦の日が過ぎても、私たち一家は戦災によって荒廃した上町の家に帰る気になれずに、暫らく父の故郷に滞在することになりました。9月に入っても連日のように晴天が続き、夜は見事な星空が頭上に展開しました。終戦後はここから学校に10キロほどの道を歩いて通いました。電車もバスも空襲でやられて、交通は全く麻痺していました。
 あれは確か終戦の前の日だったと思います。夜中にB-29の爆音が聞こえてきて庭で空を見ていた父が「しまった!ここへ落ちた」と大声で叫びました。空中で何かが光ったそうです。すると「ザーッ」という爆弾の落ちる独特の音が聞こえ始めました。私はどうしていいやら分からず、土間で中腰になっていると、外の山の方で「カーン」という大きい音が木霊(こだま)しました。(爆弾にしてはなんだか変だな)と思い、翌朝外に出てみると、家の北側の山の斜面に、一面に白い紙が落ちていました。手に取ろうとすると父が「あぶない!爆発する」と叫びました。しかしそれは爆弾の一種ではなく、ただのビラのようでした。
 「日本ノミナサマ、今日ハ私タチハ爆弾ヲ落トシニキタノデハアリマセン。お国ノ政府ガ申シ込ンダ降伏ノ条件ニツイテオ知ラセシマス...」
 という書き出しで、日本がポツダム宣言を受託して、無条件降伏することになったことを綿々と難解な日本語で書き連ねてありました。高知市の中央を狙って落としたものが、行き過ぎて、市の西北の私たちの小さな村に落ちたのです。無論私たちは敵のデマ宣伝だと思い込み信用していなかったのですが、しかしその事実は、翌日の玉音放送によって現実のものとなったのでした。こうして9月に入った最初の満月の夜は何時に無く美しく冴えて、15歳の少年だった私はただ無心に歩きました。新時代への不安と期待の入り乱れた彷徨でもありました。

 戦中から戦後にかけての一時期を過ごした故郷のことは忘れられず懐かしく、今回再び訪ねてしまったのです。戦時中父がよく自転車で通ったコースを通ってみました。JR朝倉駅に近いところに朝倉神社があり、父はよくその境内から北に入っていました。朝倉神社は昔のままにありました。父はこの神社を「木の丸様」と呼んでいましたが、昔は神殿の前に立派な台を置いて石を祭ってあったそうです。今になって(もしや隕石ではないだろうか、、、?)との期待もあったのですが、それらしいものは見つかりませんでした。まず参道の巨大な杉の木には驚かされました。樹令は恐らく千年はあるでしょう。かなり長い立派な杉の参道が続いて、やがて神殿が現れました。神殿の側壁に中国の風景らしい大きな立派な絵が書いてありました。私も幼い頃から父に連れられて、この道を何度も歩いて田舎に通ったことでした。(はたして郷里の家は見つかるだろうか?)不安を抱えながら神殿を拝み、幼い頃の記憶を頼りに歩き始めました。


巨大な杉の老木のある参道


珍しい絵の書いてある神殿

2009年08月31日

あのころの自分のこと

 夏が終わりに近づく頃になると、決まって終戦の年の思い出が湧いて来ます。1945年の終戦の年の夏は抜群にお天気の良い日が続き、雨に降られた記憶が不思議と無いのです。7月4日の高知市大空襲の日から父の故郷である朝倉の米田に疎開した私は、ここから学校に通わず、関東軍の指揮下で軍事作業に従事していたのです。軍事作業と言っても遊び盛りの中学生ですから、暇さえあれば友人たちと遊ぶのに夢中でした。疎開先の家から作業の現場までの数キロの道のりは美しい青田あり清冽な水の川あり、田園の上に舞う無数のトンボありで、今から思うと夢のような楽園でした。あるときには作業をさぼって友人と川で泳いだり魚を取ったりしました。時勢は緊迫した戦時下でも私たち子供の世界には楽しい”遊ぶ”という特権の世界がありました。広島に原爆投下のニュースを聞いたのも、そうした遊びの中でした。大人たちが真剣に受け止めた大事件も子供たちには、それほど深刻ではなかったようです。しかし当時の高知新聞には「ピカリ!危ない物影へ」という大きな見出しで、その新型爆弾の恐ろしさを報じていました。

 あの日から60年以上経って、ふと故郷への道を訪ねてみました。しかしその姿は変貌し、妖怪が出る、と言われた山の麓には高速道が走り、親戚の家のあったほとりには巨大な変電所やマーケットが出来たりして、昔の面影はありませんでした。父の古里も、夏には鬼蛍が無数に居た山麓の小川も、ギイギイと音を立てて回る水車も姿がありませんでした。しかし父と良く通った鏡川の土手の傍らに昔ながらの地蔵様がそのまま残っていて、長い時代の変貌を静かに見詰めているようでした。


ふるさとの家に通う路傍の地蔵様

 そして鏡川の水は昔のままの美しさを讃えているようで、僅かな慰めとなりました。
 秋の神祭のあった帰り道、父がオリオン星座の”三ツ星”を指差し教えてくれたのもこの地蔵様の側でした。赤鬼山の上に輝くオリオン星座の美しさ、というより物凄さは今でもはっきりと眼底に焼きついています。その頃小学校では2~3年生でしたでしょうか、受け持ちの岡本啓先生のお話に惹かれ、自然科学に興味を持つようになった矢先でした。
 「小国民新聞」に突如出た肉眼的な”カニンガム彗星”や”岡林・本田彗星”のニュースを、ただ漠然と見ていた一少年ですが、まさかその天文の世界に身を投じようとは、夢にも思わないその頃の自分でした。


鏡川のほとりの故郷の田園風景

2009年06月23日

梅雨本番です

 2日ほど雨が続いてまた晴れ間です。午前中は見事な快晴に恵まれました。
 鏡川のほとりの散歩コースを歩いてみました。小惑星(4256)として星になっている川です。左下の岩場は子供の頃「赤石」と呼んで親しんでいた場所で、坂本竜馬も幼い頃この辺で泳いだであろうと言われています。私が第四小学校に通っている頃には、学校にプールが無くて、体育の時間には、よくこの川に通って泳ぎました。跳ねと跳ねとの静かな流れのところでは、競泳もやっていました。其の頃は今と違って上流にダムも無く、水流は豊かで、川底も深かったようです。水はすくって飲めるほどに清冽で冷たかったようです。そして中学の時には、高知市がB-29による大空襲にあって、燃える我が家を後にして逃れたのも、この鏡川でした。幼い頃から親しんできたこの川の水の美しさが永遠ならんことを願って、星に命名しました。
 今日の鏡川は若葉青葉を映して、とても綺麗に見えました。


鏡川

2006年07月10日

飛行船の幻想

 梅雨のまだ上がらない午後、自宅の屋上に上がって東の空を見ていたら、一機の飛行船が珍しく空を浮遊していました。
 私がまだ幼少の頃、高知市の空に大きな白い飛行船が現れて、祖父が屋上で見せてくれた記憶があります。1935年頃でしょうか、白い巨体が夕日の空に彗星の如く棚引いていた印象です。
 当時は飛行船は国と国をつなぐ交通の重要な役割を果たしていました。そして日本では軍事的にも使われたようです。然し火災による事故が絶えませんでした。私が高校生のころ、国語の教科書に寅彦と飛行船のことが書かれていました。寅彦は研究室ではいつも煙草を吹かしながら冗談ばかり言っていました。そんなある日、珍しく真顔の寅彦が入ってきて「実は軍部から重大な仕事を依頼された、皆真剣に取り組んでくれ」と言って事のしだいを説明しました。それによると当時たくさんの軍用の飛行船が作られましたが空中で爆発して墜落する事故が相次いだそうです。外国ではドイツからアメリカへの定期船がアメリカに到着した空港の上で炎上し、大惨事を引き起こした有名な事件があります。
 寅彦らの研究班は遂に無線用のアースを機体に取り付けたことが原因で、船体には燃えやすい水素がつめられていたため機体の金属の繊維が火花を散らして水素ガスに引火したそうで、飛行船とは危ない乗り物だったわけです。
 それから何年かたって、太平洋戦争の始まったばかりの頃、やはり夕日の西の空に、白く細長いものが輝き、夕日と共に沈んで行った事を思いだします。私はやはりそれは飛行船とばかり思い込んでいましたが、よく考えると、その頃は飛行機が発達して飛行船の時代ではありませんでした。戦時中「パラスケ・ボプロス彗星」と言うのが白昼見えたと言う記録がありますが、まさかそれではありますまい。”パラスケ・ボプロス”とは彗星を機上から発見した飛行士のことです。
 高知市の上空に現れた飛行船は当時のことを回顧するように市街の上を漫遊していました。山の緑は輝き、白い雲は湧き夏たけなわです。


筆山(高知市)の上空を飛ぶ飛行船

2006年07月07日

七夕様の思い出

 今年の七夕も星が殆ど見えませんでした。しかし夜半になって西南の空に沈んで行く月と木星がはっきりと輝きました。そして天頂にはいつもより蒼い織女が光っていました。梅雨の中の職女星は特に青く感じるのですが、気のせいでしょうか。所詮梅雨の晴れ間で観測出来るような状態ではありませんでした。
 子供の頃の七夕様は旧暦で祭っていましたので、いつも空はよく晴れて天の川が市内でも見られました。夜風に騒ぐ竹の短冊がサラサラと音をたてて、まるで天の川のせせらぎの音を聞いているようでした。今の8月の中旬頃の事でしたでしょうか。半月が西に沈む頃には、風が肌寒くなって、中庭の涼み台から座敷に入りました。そのような時、玄関前の道路の涼み台では、近所の老若男女が集まって、夜が更けるまで話に夢中になったものです。
 土佐の昔話に怪談。お年よりたちによって貴重な昔の話が子供たちに伝えられ残されて行ったものですが、今ではこのようなチャンスはなく、学校では教えられないような土佐の昔の出来事は消えて行く運命となりました。高知市のここ上町で人魂や蜃気楼を見た珍しい話も、こうした涼み台での集まりでお年よりから聞いたお話でした。台風が近い夜なんか、集まってきた近所の人のなかに気象学者がいて、「皆さん風の中心を教えてあげましょうか。風の吹いてくる方向を背にして左手を挙げた方向が台風の中心です。」と言っていたことが印象に残っています。昭和10年頃のことでしょうか。驚く無かれ、その頃は台風の予報なんか出ていなかったのです。今のようにレーダーは無いし、気象観測用の飛行機も飛んでいない。無論気象衛星や報道するテレビもない。台風の発生する南方は大戦前夜の敵国なのです。われわれは風が吹き出してから初めて「しけが近づいているらしい」としかわからなかったのです。その頃私の祖父が体験して語ってくれた路上を転んでいく”きつね火”の話なんか鬼気迫るものがありました。

 さてさて雨が降って観測のない退屈ないまどき、時折、土佐の怪談でもお話ししましょうか。また明日をお楽しみに。

2006年02月24日

 春爛漫とは行きませ

 春爛漫とは行きませんが、あちこちに春の花が咲き始めて良い季節となりました。今日は家から西に7キロほど歩いて塚ノ原の理髪店に行きました。歩いてみると案外早く着きしかも運動になっていいですね。
 昔、芸西までの37kmを片道3時間で自転車で通いましたが、今度は歩いてみましょうか。
 古い町中を歩いていると迷路の巷に入ったりして、普段見ることのない珍しい風景に接することがあります。小学生の頃、遠足に行った旭天神町の水源地付近で人家の庭にそっと咲いた白い花に見惚れていると、誰が弾くのか、ギターであのバッハのバイオリンパルティータの中の「フーガ」を弾いているのです。有名な「シャコンヌ」と共に永遠の憧れの名曲であり難曲だと思っていたのに、一体誰がこのような廃墟のような古い住宅街であの名曲を弾いているのか?
 映画「第三の男」の全音楽を担当した無名のチター奏者アントン・カラーのような人がこの下町の中に密かに住んでいるのでしょうか。A・セゴヴィアのように全世界を股にかけて活躍しなくても、人知れずここに名手あり、というのも価値高くていいですね。案外世界にはそうした葉隠れの名がたくさんいるのではないでしょうか。

 さてお天気が悪く、これからは春めいてくると高知では滅多に晴れません。C/2006 A1 (Pojmanski) が朝方見え出したようですが、ドームを持つ大形のテレスコープはドームのレールの高さの関係でいくらでも低空には向きません。昔の堂平や木曾では10度~15度以下が隠されて、それより下は観測不能。芸西は5度まで向きますが、それ以下になるとモーターが自動的に停止します。それにあまりに低空は観測の精度が上がりませんのでプロは嫌うようです。今回は軌道も比較的落ち着いていますので、もう少し上がるのを待ちましょう。
 73P/Schwassmann-Wachmann 3のC核は2月24日には少し明るくなり(14.5等?)尾が確かに伸びてきたようです。
 他の核はまだ断然暗いようですね。