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2005年10月24日

 40年前の今ごろは

 40年前の今ごろは、太陽のコロナの中に突入した「イケヤ・セキ彗星」が、その後どのようになっただろうか?果たして健在で居られたろうか、と言う事で正に西走東奔の毎日を送っていました。海岸に出たり高い山に登ったり、その行く先先で観測する多くの一般の人に出会いました。当時如何にこの彗星の事が話題になっていたかが分かります。
中でも池 幸一さん(自称、天文冒険家)が一番多く登って成果を挙げたのが、高知県須崎市の播蛇森(ばんだもり)(標高765m)の山でした。彼は彗星が近日点を通る7時間前と17時間後とに、この山で彗星を確認したのでした。金色に光る鋭い核と白い蒸気のような激しく変化する尾を確認、それは正に100万度の高熱で煮えたぎる彗星の面影にほかなりませんでした。野人的な顔の池氏は「オーイ」と思わず日の出に向かって絶叫したのでした。そうです、彗星は生きていたのです。彗星から確かなこだまが帰ってきました。そしてこれから秋冷の夜空での華麗な舞が始まるのです。池氏は正に千歳一遇の貴重な観測を残したのです。
 あれから40年のこの日私は思い出の須崎市まで車で走りました。
そして新名古屋トンネルを抜けた須崎市への下り坂の途中で右手に遥か播蛇の森の雄大な山容を捉えたのです。ああ遥かに霞む遠い山....。彗星の思い出もこの遠い山の如く遠くにかすんでしまいました。時は流れ星は行き、そして人は去りました。しかしこの世に生まれたからには何かの記録をのこしたい。そのような私の希望、そして理想の一部が実現したような気がしました。
 私の眼にはまだ遠い播蛇の森が光っていました....。

遠くに雄大な播蛇森を望む

2005年10月21日

 高知ではまだ暑い日

 高知ではまだ暑い日が続いています。太陽がやや南になりましたので、昨日は2階の書斎では28℃まで気温が上がり依然として冷房をやっていました。
 今日10月21日は40年前の今日「イケヤ・セキ彗星」が近日点を通過した日です。あの時も今日のような日本晴れで青空が光るような見事な晴天が続きました。

池谷・関彗星太陽大接近の日
1965年10月21日

彗星が太陽面に突入したのはこの日の正午過ぎでしたが、朝早くから多くのマスコミで私の家の庭や屋根の上はいっぱいになりました。恐らく浜松の池谷さんの所も同じような状態ではなかったかと思います。

当日、観測台の下に集まった人々
中央に池幸一氏。他はマスコミ関係。
1965年10月21日

 然し灼熱の太陽面にくっついた彗星をテレスコープで見ると言うのは大変危険なことで、そのため我々は観測が思うに任せず白昼の観測に失敗したわけです。然し実際にはその7時間ほど前に我々のメンバーの一人である土佐市の池 幸一氏が健在な同彗星の観測に山で成功していたのでした。この日の午前中には東京の上野や倉敷、そして一般の人で平地から太陽に接近中の「イケヤ・セキ彗星」の姿を確認した人がいました。それらは皆、肉眼で太陽のそばに見た訳で、上野のMさんはテレスコープ用のサングラスで太陽を覆いながらその影に観測した、と言っていました。このとき倉敷のHさんは写真撮影に成功し、彗星の明るさを”満月の数十倍する明るさだった”と言っておられました。勿論この位置に金星や月をもって来ても見えません。このときの池谷、関彗星はいったいマイナス何等星だったのだろう?9月の発見当初、スミソニアンが「今世紀最大の明るさ」と予言したことが当たっていた、と思いました。
 それにしてもフランスのリゴレ博士が発見の第一報の一回の観測を見ただけで、これが”クロイツ属”の彗星であって近日点を10月21日に通過することをを予言したのはお見事でした。この頃軌道計算はカニンガム氏が主にやっておりアメリカのM氏や日本のN氏の名はまだ出ていませんでした。観測はフラグスタフのローマー女史の全盛の時代でした。
 ここまで日記を書いてふと窓から北の空をみると九天に何か白いものが光っているのに気づきました。思えば40年前のあの日も青空に白い雪のような小さな物体が盛んに舞っていた事を思い出しました。そしてどこかの小学校で遅秋の運動会でもやっているのか盛んに行進曲らしい音楽が流れてきます。ホセ・カレヨさんの作曲した「コメット イケヤ・セキ」と言う音楽をふと連想して心の中で唄っていました。 「星は去り 時は過ぎ行く 人は去る、、」。

(クリックすると大きく表示されます)

「イケヤ・セキ彗星」の曲
ハバナ市在住のホセ・カレヨ氏作曲(1965年10月)

2005年10月11日

 今年も秋たけなわの

 今年も秋たけなわの10月11日がやってきました。今から44年前の今日、初めて新彗星の発見に成功しました。あの日は見事な秋晴れの1日でしたが、今日は秋雨前線の停滞する小雨の日になりました。
 あの頃は10年余りやった捜索の仕事に敗れ人生に迷っていた頃でした。それまで長い間愛用した15cm反射望遠鏡と訣別し、新たに開発した口径88mmの屈折式広角コメットシーカーのテストを兼ねた最初の捜索の日でもありました。
 午前4時30分、東の低い屋根の上にしし座が大半の姿を現していました。この広角コメットシーカーは薄明の中、短時間に出来るだけ広い天空を捜索する目的に製作されていました。視野は3度半、30分もあれば東天の大半を捜索し尽くすほどでした。筒は地平線に対して水平に移動し高い高度から次第に地平線へと移動する最もオーソドックスな方法です。こうして午前5時過ぎ捜索を終了するのですが、午前4時50分、鏡筒はしし座のある一点に静止したまま夜明けを迎える事となったのです。そうですそこには異常が認められたからです。即ち5時が近くなって、うす明るくなった薄明を押し返すようなつもりで捜索していた私の視野に突然ほんのりとした白い光体が浮かんだのです。過去10年の修行と経験はそれを迷う事なく即座に新彗星と断定しました。
 その後発見していつも気づく事、それは「今日も何にも考えずに捜索に専念出来たなあ、、、、、」ということでした。実際15cmを使っていた若い時代は必死にやったものの心がいつにならず常に動揺していました。つまり発見を意識しすぎて、見えるべきものも見えていなかったのです。それにもう一つ、素晴らしい切れの88mmコメットシーカーは私の心を統一さすに十分な星像を展開してくれたのです。この苗村レンズと、エルフレ33mmアイピースの相性もとても良かったのです。私から15kmほど西の町のIさんは同じ朝、10cm、25倍の反射で同じ天空を捜索しながらこれを見逃しています。視直径2′のこの小さなコマは8等星といえどもレンズと眼が良くないと恒星にまぎれて見逃します。それに精神の統一と言う事も大事でしょう。
 この最初の発見はその後の私に大きい自信と一つの捜索の在り方を教えてくれた意義ある発見でした。
 この雨が上がればやりましょう。いつまでも現役で仕事を続ける人間にのみ、生きることの喜びと輝きがあるのです。

2005年10月02日

 お天気に恵まれた今

 お天気に恵まれた今日、高知市比島と言うところの墓参に行きました。非常に鬱蒼とした山深い谷間のようなところですが、すぐ近くに江戸時代の絵師、「絵金(えきん)」の墓があり、更に幕末の剣師「岡田以蔵(おかだ いぞう)」の苔蒸した墓があることには驚きました。あの有名な”人斬り以蔵”です。古い墓では宝暦8年、と言うのがあり、私はふと川谷ケイ山が江戸時代に幕府の発行した暦に無い日食を観測したのが、この地の比島山であったことを思い出しました。宝暦年代の話です。

 土佐には早くからこうした優れた天文学者や、谷秦山(たに じんざん)のごとき暦学者が居たのに、いまでは全国的にも、こと科学に関しては、その施設も無い一番遅れた県になってしまいました。数年前、高知市が科学館を作ろうとして計画はかなり進行していましたが、いつのまにか立ち消えとなりました。こんどは水面下でいま博物館や科学館建設の運動が立ち上がっています。今度のは行政が計画するのではなく、民間の団体や企業が立つのですから、気長ながら可能性はあると思っています。そのための会合が何回か開かれています。高知県には芸西の他にもいくつか大小の天文台はあるのですが、芸西意外はあまり活動していません。芸西は県立ですが、そもそも民間から立ち上がったから強いのです。

 秋雨前線の停滞する時期で今が一年中で一番お天気の悪い時期です。今年はイケヤ・セキ彗星から40年。あの時、発見後一週間も悪天に見舞われ見えなかったことを思いだします。しかし彗星が近日点を通った10月21日頃には本格的な秋空となりました。

 スカイ&テレスコープ社から40周年を記念して取材が来て、加藤英二さんのご好意でたくさんの記事を送りました。締め切り間際での電子メールでのやり取りが熾烈でした。12月に発売される1月号をお楽しみに.....。

2005年10月01日

火星の異常な赤さが印象的です

 秋の長雨のシーズンで晴れた日は滅多にありません。然し晴れてみると、火星がすぐ近くにやって来ていてびっくりしました。異常な赤さが印象的です。スバルと共に東の地平線を上がって来る姿がいいですね。
 今月の29日は芸西天文台で「秋の天文教室」が開かれます。火星観測の特集で、私は「火星兵団」のお話をしょうと思っています。参加希望者は高知県文教協会(電話088-824-5451)まで申し込む必要があります。”火星兵団”とは1930年台、まだ火星に人が居ると思われていた頃、海野十三(うんのじゅうざ)が書いた科学空想小説で、この本の面白さはあれから半世紀以上もたった今も忘れていません。もしかすると私が星が好きになった最大の動機かもしれません。地球に衝突する「モーロー彗星」を月の摂動で回避さす下りなんか、科学者としての海野なればこその発想です。ガガーリンより早く「地球は青かった」と言ったのは海野だったそうです。1946年、NHKの連続ラジオ劇場で放送された「まだらの紐」のスリルとサスペンスは筆舌に尽くせぬものがありました。もっともこれは外国のクリスティーあたりの原作だったそうですが。

天文台ドームの上の火星とスバル
2005年10月1日 21時30分
85mm F2 5分露出 ISO400フィルム