2015年03月21日

池谷・関彗星発見から50年

 立春を迎えてやっと春らしい陽気となりました。しかし芸西天文台のある“桜ヶ丘”はまだ花見の宴は行われていません。

 今年は“池谷・関彗星”発見50周年になります。高知県では特にこれに関連する催しはありませんが、お隣の愛媛県では、これを記念して講演会が開かれる予定で、確定しましたら「一般掲示板」でご案内します。

 実は、このことを意識したわけではありませんが、この2月に高知市の子ども科学図書館で「関勉展」と天文講演会が開かれました。この約半世紀に渉って天文の研究をしてきた関勉の観測機器や星図、野帳、それにメダル等を展示しました。そしてその期間中に関勉の天文講演も行われました。会場には芸西天文学習館の講師、松木公宏氏らの発案で“池谷・関彗星”を発見した時代の“物干し天文台”がセットされ、その台のうえでの講演となりました。台は木工を得意とする図書館のあるスタッフが日曜大工で作ったそうですが、演台に上がった途端にあの彗星を発見した夜のことが思い出されました。そうです、台風の接近で、遠く10kmも離れた桂浜に打ち寄せる波の音を聞いていたのです。そうしたなかに現れた彗星は、私の目の前にある、これも再現された白い四角な木の筒のコメットシーカーで発見したのです。私は思わず懐かしい望遠鏡にすがりました。そして静かに捜索しました。こうして誰も見ていなかった、あの夜の彗星を発見した状況が、あれから50年も経って初めて多くの人に見てもらう結果となったのです。


再現された物干し観測台に立って講演する関

 会場には多くの子供たちが居ましたが、中には熱心な天文ファンやアマチュアも居ました。愛媛県から駆けつけて下さった竹尾さんらも見えました。そして発見の当日観測しながら惜しくも見逃した、という往年のコメットハンターらしい顔も遠くに見えて驚かされました。

 記念すべき9㎝のコメットシーカーは今度、高知市にできる科学館に寄贈する事になりました。
 芸西で長く観測し、多くの小惑星を発見した60cm反射望遠鏡も、中東のレバノンの大学への贈与が決まっています。

2009年07月11日

第二池谷・関彗星の思い出(2) - コンパレーターの中の彗星

 コンパレーターとは、彗星や小惑星の写真を撮った時、その位置や大きさを測定する装置のことで、「XY座標測定器」とも呼ばれていました。しかし、今はCCD観測が行われるようになり、パソコンがそれに代ったために今ではほとんど用がなくなりました。
 旧、東京天文台には、当時数千万円もするというマン製の大型測定器が座っていましたが、いまは無用の長物になって、その行き先に困っている、と言う話も、第三者から聞いたことがあります。この日記の昨年の12月28日号で紹介した島津製作所製の乾板測定器は、1970年ごろの値段が50万円ほどで、到底一般に買えるような物ではありませんでした。其の頃、彗星の写真観測を始めた私は、なんとか、それまでのスケッチ等による概測ではなく、精密な位置観測がしたいと思いその入手に万全を尽くしましたが、遂に買えず諦めるより他はありませんでした。
 当時世界で、コンスタントに彗星の精密位置観測をやっている天文台はプロに限られて10箇所も無い有様で、もしここで、アマチュアが進出するならたいへんな貢献が出来るに違いない、というのが私の考えであったのです。しかし天文界の考えは保守的で、「アマチュアが精測なんかやるものではない」という考えが、プロ、アマを問わず、根強く存在したのです。アマチュアの世界的な進出による革命的な今日の状況を想像しなかったのでしょうか。”先見の明がない”とはこうしたことを言うのでしょう。
 しかし、私の理想は1967年に実現しました。明るい小惑星の測定を手始めに、其の年に発見された「第二池谷・関彗星」の精密位置観測を始めたのです。当然内外から多くの反響がありました。まずスミソニアンのマースデン博士が東京天文台に問い合わせてきたことは、前の日記で書いた通りです。日本と違って彼は、それを歓迎したのです。
 其の時使った手製のコンパレーターはなんと1500円程度の費用でできたとんでもない代物で、東京在住のアマチュア天文家も視察に来たほどでした。測定の光学部は手持ちの天文用のケルナー25mmのアイピースを使い、その焦点面にオリンパス製の精密な十字線マイクロメーター(ガラスに0.1ミリ目盛のスケールを刻んだもの)を貼り付けてありました。一種のスケールルーペです。この簡単な測定器で、当時、実に多くの彗星の位置観測を行い、当時のスミソニアン天文台から発行された、ハガキ型のIAIUCに載りました。測定には精密な恒星のカタログが必要でしたが、時を同じくしてスミソニアンから人工衛星の観測を目的とした「SAOカタログ」が発行され、アマチュアには大きな福音となったわけです。
 先日、周期約9年のスイフト・ゲーレルス彗星(64P/Swift-Gehrels)が埼玉県の門田健一さんによって早々と観測されましたが、その前回帰の1991年には芸西で観測していました。今、当時の原版を取り出して見ると、測定するための比較星が少なく苦労したことが伺われます。反射鏡では、位置測定のための比較星が少なく、しかも遠いとコマ収差の影響もあって、良い測定が出来ないのです。しかし今はGSCカタログの出現によって、その欠点は解消されたのです。 当時の論争に対する回答は結果で勝負する、という考えは今も燃え続けています。

 写真は今でもフィルムの測定に使われているニコンのコンパレーターです。


コンパレーター(左)と測定用PC(GSCカタログの星を表示)

2009年06月25日

古戦場の夏

 晴れ間の多い梅雨の一日、「池谷・関彗星」思い出の場所を訪ねました。遠くに見える山は、高知市の横内から見た鴻ノ森(こうのもり)です。
 1965年10月22日、近日点を通過した直後の彗星を、前日の蟠蛇の森(ばんだのもり)に次いで観測した場所です。観測はマスコミを通じて一般に公開し、多くの市民が参加しての観測合戦を展開したのです。
 ”古戦場”とはそう言う意味での題目ですが、実は、この山は、実際の古戦場でもあったのです。戦国時代ここに城を構えて立てこもった軍勢は長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか)に攻められ、あっけなく落城したのです。こうして遠くから眺めても、お城のあった頃の二の丸、三の丸の跡がはっきりと残されています。
 さて肝心の彗星観測の成果ですが、彗星が近日点を通過して、17時間後に須崎市の蟠蛇の森での観測の成功に続いて、その24時間後には、ここでもその健在な彗星の姿を見ることに成功したのでした。
「おーい、見えたぞーっ」という歓声は天地に木霊(こだま)しました。
 其の頃、常に陣頭に立って指揮していたのは、世にも奇怪な”天文冒険家”の池幸一(いけ こういち)氏でした。彼は彗星が太陽に異常に接近中は、常に誰よりも熱心に見張りました。そして奇妙な”池式投影ボックス”まで作って、特殊な方法で太陽の側の彗星を観測したのです。彼は彗星の発見こそ無かったのですが、常に”縁の下の力持ち”的な存在として、世に貢献したのでした。
 (懐かしき池氏は一体いま何処にあるのだろうか?)。


遠くに見える山が鴻ノ森

2008年12月28日

第二池谷・関彗星の思い出(1)

"イケヤ・セキ彗星"が二つあったことについて、ご存知ない方が多いと思います。実は二つ目の池谷・関彗星(C/1968 Y1)は、1968年12月28日の朝、発見されました。それも発見の時刻差は5分でした!
 このことを思うとき、いかに二人が熱心に夜空を見詰め、何か変化があると、二人の視野は一斉にそれに飛びついていく、と言うような、実に激しく、また過酷な観測生活を送っていたように思います。
 当日は物凄い寒波の襲ってきた早暁でした。位置は夜明け前の東南の低空で、明るさは10等星だったように記憶しています。静岡県浜名湖畔の池谷さんは15cmの反射鏡で、また高知市の私はニコンの12cm 20xの双眼望遠鏡でした。
 この彗星は私に、その後の一つの指針を示してくれた彗星としても忘れることができません。すなわち、それまでの私は、コメットシーカー一本を携えて、新発見に望みましたが、この彗星をきっかけとして、反射鏡による写真観測を始め、また位置の測定を始める出発点ともなったのです。
 当時は、設備に恵まれないアマチュアにとって、彗星や、小惑星の位置の精密測定を行うことは大変な作業で、たしか1969年に、初めて彗星の精密測定を行って、スミソニアンに報告したら、吃驚したマースデン博士が、国立天文台の今は亡き冨田弘一郎氏に『Sekiはどのような方法で、彗星の精測をやっているのか?』と、問い合わせて来たほどでした。当時はプロの観測者でも、位置観測をやっている天文台は片手の指で数えるしかなくて、彗星の観測者が重宝がられていたのです。従ってアマチュアが彗星の精密位置観測をやるなんて言う事は全くの想像外のことだったのです。
 アメリカではフラグスタフの海軍天文台(リーマー女史)、ヤーキスのバンビースブルグ氏、チェコ(現スロバキア)のスカルナテ・プレソ天文台、日本の東京天文台と花山天文台等が主力でした。
 当時は、位置の測定をやると言っても、第一、精密な恒星のカタログがアマには入手できません。また乾板やフィルムの位置を測定するコンパレーターも一般には入手しにくく、当時唯一の市売品として、島津製作所のキャビネ対応の乾板測定器が、1970年ごろの定価でなんと50万円もするという厄介者で、"親のすねかじり"的な存在だった当事の私には、到底買えるような代物ではなかったのです。
 そんな時、私が思いついて実行した方法と言うのが、全く奇想天外なもので、実はいままで密かに自分の胸に仕舞い込んでありました。しかしそれは、今の芸西の彗星観測の、実に重要な出発点となったのです。
(続く)

2007年09月18日

対日照が見えました

 良く晴れた初秋の夜です。秋といっても叢で虫が盛んにすだくのみで、気温はまだ夏真っ盛りです。
 嬉しかったのは久しぶりにあの対日照がありありと眺められたことです。夏の天の川は西に傾き、その東側はバックの暗い星空です。そして、更に少し目を東に移動させていると、再び天の川に似た光芒に行き当たります。これが太陽と正確に反対側の空を白く染める「対日照」です。丁度夜半に天頂に輝くペガススの四角形と、ずーっと南方に独り輝くフォーマルハウトの中間の天空で、直径30度以上もあろうかと思われる大きな淡い光です。明るさは冬の天の川の暗い部分のさらに半分以下の光で、無論日本列島でも最高に空の良い土地でないと見られません。観測される皆さんも自分の場所で確かめてみてください。大正時代に京都で、中村要(なかむらかなめ)さんが見たのが、日本での最初の記録だったそうですが、その頃には、私の住む高知市でもきっとみえたことでしょう。昭和の始め頃には、広島県の瀬戸村に黄道光の観測所があって、本田実さんが、対日照も同時に観測して居られました。本田さんの最初の彗星発見の場所でもありました。今は、近くを高速道が走っているはずで、昔の名星空も見る影もありません。その点芸西はこうしてまだ黄道光はもとより、対日照も、見られる日があることは嬉しい限りです。これからだんだんと東に移って獅子座やおとめ座が背景にくる晩秋から冬にかけては、ますます良く輝くようになるでしょう。
 さて60cm反射望遠鏡による一連の彗星観測を終えてから、15cmのコメットシーカーで東天を捜索しました。今夜は小さいながらも経緯台で位置の割り出せるナビゲーターを使用しました。
 そうだった!
 42年前の今日は「イケヤ・セキ彗星」を発見した日でした。
 視野がクロイツ族のやってくる大犬座の東に向かったとき、特に入念に見ました。発見位置付近にNGC 2506の球状星団が入ってきました。あの時は機器が9cmと、小さかったので、恒星に分離できなかったけど、今回は双眼鏡でもあり、鮮やかに微光星に分解してみえました。ナビは正確にその位置を表示しています。無論「クロイツ組」はやってきません。一生に一度出会えることですら大変なのに、クロイツ族の彗星に二度も出会ったら大事です!。そのようなことを考えながら、視野はいつの間にか薄明の始まりかけた獅子座の方向に向かっていました。
 最大光輝の金星の明るさには驚かされました。そして懐かしいオリオンの星座にシリウスの輝きです。こうして暑くとも季節は確実に秋に向かっていることを感じました。


昇るプレセペと金星
2007年9月19日午前4時
ISO400フィルム 50mmF2

2005年11月01日

 晩秋らしい高い青空

 晩秋らしい高い青空が輝くようになりました。
 40年前の今ごろは高知市周辺の山や海に「池谷・関彗星」を求めて正に東奔西走の毎日でした。秋冷の明け空に細長い尾を引いた美しい彗星の姿は今も眼の中に焼きついています。
 実はこの頃キューバのハバナ市に住む「ホセ・カレヨ」さんという作曲家から「Ikeya-Seki」と言う楽譜がとどけられたのですが、彼は手書きの楽譜の表紙に
 『イケヤ・セキ彗星発見のニュースを聞き即興的に作曲した。これを発見した二人の日本人に贈る。いつの日にかこの曲が演奏された時、空には再び彗星が輝くであろう。』
 と言う意味の言葉が綴られています。あの日から40年も経って、しまい込んであった当時の楽譜が発見されました。発見者もまだ聞いた事の無いこの曲を誰か演奏してくれないだろうか。そして夜空に輝くのはどの彗星だろうか。激しいリズムに乗ったおたまじゃくしのひとつ一つが、発見当時のあの感動を思い起こさしてくれます。
 ああ、イケヤ・セキ彗星の思い出はいつまでも消えません。

(クリックすると大きく表示されます)

「イケヤ・セキ彗星」の曲
ハバナ市在住のホセ・カレヨ氏作曲(1965年10月)

2005年10月24日

 40年前の今ごろは

 40年前の今ごろは、太陽のコロナの中に突入した「イケヤ・セキ彗星」が、その後どのようになっただろうか?果たして健在で居られたろうか、と言う事で正に西走東奔の毎日を送っていました。海岸に出たり高い山に登ったり、その行く先先で観測する多くの一般の人に出会いました。当時如何にこの彗星の事が話題になっていたかが分かります。
中でも池 幸一さん(自称、天文冒険家)が一番多く登って成果を挙げたのが、高知県須崎市の播蛇森(ばんだもり)(標高765m)の山でした。彼は彗星が近日点を通る7時間前と17時間後とに、この山で彗星を確認したのでした。金色に光る鋭い核と白い蒸気のような激しく変化する尾を確認、それは正に100万度の高熱で煮えたぎる彗星の面影にほかなりませんでした。野人的な顔の池氏は「オーイ」と思わず日の出に向かって絶叫したのでした。そうです、彗星は生きていたのです。彗星から確かなこだまが帰ってきました。そしてこれから秋冷の夜空での華麗な舞が始まるのです。池氏は正に千歳一遇の貴重な観測を残したのです。
 あれから40年のこの日私は思い出の須崎市まで車で走りました。
そして新名古屋トンネルを抜けた須崎市への下り坂の途中で右手に遥か播蛇の森の雄大な山容を捉えたのです。ああ遥かに霞む遠い山....。彗星の思い出もこの遠い山の如く遠くにかすんでしまいました。時は流れ星は行き、そして人は去りました。しかしこの世に生まれたからには何かの記録をのこしたい。そのような私の希望、そして理想の一部が実現したような気がしました。
 私の眼にはまだ遠い播蛇の森が光っていました....。

遠くに雄大な播蛇森を望む

2005年10月21日

 高知ではまだ暑い日

 高知ではまだ暑い日が続いています。太陽がやや南になりましたので、昨日は2階の書斎では28℃まで気温が上がり依然として冷房をやっていました。
 今日10月21日は40年前の今日「イケヤ・セキ彗星」が近日点を通過した日です。あの時も今日のような日本晴れで青空が光るような見事な晴天が続きました。

池谷・関彗星太陽大接近の日
1965年10月21日

彗星が太陽面に突入したのはこの日の正午過ぎでしたが、朝早くから多くのマスコミで私の家の庭や屋根の上はいっぱいになりました。恐らく浜松の池谷さんの所も同じような状態ではなかったかと思います。

当日、観測台の下に集まった人々
中央に池幸一氏。他はマスコミ関係。
1965年10月21日

 然し灼熱の太陽面にくっついた彗星をテレスコープで見ると言うのは大変危険なことで、そのため我々は観測が思うに任せず白昼の観測に失敗したわけです。然し実際にはその7時間ほど前に我々のメンバーの一人である土佐市の池 幸一氏が健在な同彗星の観測に山で成功していたのでした。この日の午前中には東京の上野や倉敷、そして一般の人で平地から太陽に接近中の「イケヤ・セキ彗星」の姿を確認した人がいました。それらは皆、肉眼で太陽のそばに見た訳で、上野のMさんはテレスコープ用のサングラスで太陽を覆いながらその影に観測した、と言っていました。このとき倉敷のHさんは写真撮影に成功し、彗星の明るさを”満月の数十倍する明るさだった”と言っておられました。勿論この位置に金星や月をもって来ても見えません。このときの池谷、関彗星はいったいマイナス何等星だったのだろう?9月の発見当初、スミソニアンが「今世紀最大の明るさ」と予言したことが当たっていた、と思いました。
 それにしてもフランスのリゴレ博士が発見の第一報の一回の観測を見ただけで、これが”クロイツ属”の彗星であって近日点を10月21日に通過することをを予言したのはお見事でした。この頃軌道計算はカニンガム氏が主にやっておりアメリカのM氏や日本のN氏の名はまだ出ていませんでした。観測はフラグスタフのローマー女史の全盛の時代でした。
 ここまで日記を書いてふと窓から北の空をみると九天に何か白いものが光っているのに気づきました。思えば40年前のあの日も青空に白い雪のような小さな物体が盛んに舞っていた事を思い出しました。そしてどこかの小学校で遅秋の運動会でもやっているのか盛んに行進曲らしい音楽が流れてきます。ホセ・カレヨさんの作曲した「コメット イケヤ・セキ」と言う音楽をふと連想して心の中で唄っていました。 「星は去り 時は過ぎ行く 人は去る、、」。

(クリックすると大きく表示されます)

「イケヤ・セキ彗星」の曲
ハバナ市在住のホセ・カレヨ氏作曲(1965年10月)

2005年10月02日

 お天気に恵まれた今

 お天気に恵まれた今日、高知市比島と言うところの墓参に行きました。非常に鬱蒼とした山深い谷間のようなところですが、すぐ近くに江戸時代の絵師、「絵金(えきん)」の墓があり、更に幕末の剣師「岡田以蔵(おかだ いぞう)」の苔蒸した墓があることには驚きました。あの有名な”人斬り以蔵”です。古い墓では宝暦8年、と言うのがあり、私はふと川谷ケイ山が江戸時代に幕府の発行した暦に無い日食を観測したのが、この地の比島山であったことを思い出しました。宝暦年代の話です。

 土佐には早くからこうした優れた天文学者や、谷秦山(たに じんざん)のごとき暦学者が居たのに、いまでは全国的にも、こと科学に関しては、その施設も無い一番遅れた県になってしまいました。数年前、高知市が科学館を作ろうとして計画はかなり進行していましたが、いつのまにか立ち消えとなりました。こんどは水面下でいま博物館や科学館建設の運動が立ち上がっています。今度のは行政が計画するのではなく、民間の団体や企業が立つのですから、気長ながら可能性はあると思っています。そのための会合が何回か開かれています。高知県には芸西の他にもいくつか大小の天文台はあるのですが、芸西意外はあまり活動していません。芸西は県立ですが、そもそも民間から立ち上がったから強いのです。

 秋雨前線の停滞する時期で今が一年中で一番お天気の悪い時期です。今年はイケヤ・セキ彗星から40年。あの時、発見後一週間も悪天に見舞われ見えなかったことを思いだします。しかし彗星が近日点を通った10月21日頃には本格的な秋空となりました。

 スカイ&テレスコープ社から40周年を記念して取材が来て、加藤英二さんのご好意でたくさんの記事を送りました。締め切り間際での電子メールでのやり取りが熾烈でした。12月に発売される1月号をお楽しみに.....。

2005年09月19日

スカイ&テレスコープ誌に記事が載るようです

 水泳大会が終ってホッとしましたが、妙に疲れて眠れませんでした。
「もう黎明かな?」と思って時計を見ると、夜光の針は午前4時10分を指していました。咄嗟にハッとして半身をおこしました。そうです!
あれから40年目の「イケヤ・セキ彗星」発見の時刻だったのです!!
この時、口径9cmのコメットシーカーの筒は正しく東南、高度15度の上空を指して静止していたのです。あの日は快晴で下弦の月が輝いていました。今夜も快晴ですが、満月に近い月光です。3階の屋上に上がって見ると東南筆山のそらに、あのウミヘビが横たわり何事も無かったように月光が降り注いでいました。台風通過後の海鳴りの音は、さすが今日は聞こえませんでした。
 アメリカの「スカイ&テレスコープ誌」が「イケヤ・セキ彗星」40周年を記念して特集の記事を書くらしくて、あの有名なコメットハンターD.レビーさんがオーストラリアの加藤英ニさんを通じて質問状を送って来られました。加藤さんのお手を煩わして多くの質問に答え発見者の一人としての色々な意見や感想を述べさせて戴きました。それには今まで一度も語ったことの無い感想や秘密があり、私自信としても12月号の発刊に期待を寄せています。

2004年09月19日

 9月1

 9月18日、天文台で一般への公開があって、大庭講師と二人で担当しました。来台者は高知市の小学校の生徒40名とその父兄や先生で講義室は満員にふくれあがりました。天候は今一つで星が見え隠れしましたが、曇っているあいだ、丁度39年前の今日のことを、傍らにおいてある9cmコメットシーカーを見せながら、お話しました。

芸西天文台公開風景
2004年9月18日

 そうです、台風24号のやって来た”イケヤ・セキ彗星”発見の前夜のことです。あの時、もし台風襲来!と言うことで寝ていたら、私の人生はまた変わっていたかも知れません。ちょっとした出逢いによって、その人の運命は大きく変わることがありますが、あのとき台風下の日本列島で悪天の中、観測の準備をしていた人が二人いたわけです。まさに運命の奇遇とでも申しましょうか。
 
発見した場所で撮った池谷・関彗星
1965年11月4日撮影


彗星太陽大接近の日、観測の準備をする池幸一氏(左)と関(中央)
1965年10月21日撮影

 今日9月19日はマスターズの水泳全国大会があって、私は50mと100mの平泳ぎに出ました。その会場で二人の人から「今朝NHKのラジオでやっていましたね」と言われました。実はその約1ヶ月後の10月21日はイケヤ・セキ彗星の太陽接近の日で、こちらの方がもっと大きいニュースになったのですが、それはやりません。なぜなら昭和19年の同じ10月21日、神宮外苑における学徒出陣式という大きな出来事があったからです。
 ところが昔あの古橋選手と競泳をやったというその人は、あのとき小雨のそぼ降る神宮のスタンドにいて東条主席の演説を聞きながら、出陣学徒を見送ったといいます。あれからもう60年!その往年の名選手は今も現役で泳いでいることに深い感銘をおぼえました。ニュース映画で見たあの時のシーンは今も深い悲しみをもって甦ります。あの時集まった数千の学徒達はその I さんによると、殆どの方が沖縄の戦線で玉砕されたそうです。
 確率は低いと思いますが、晴れたらクロイツ群のコースを捜索してみましょうか。あの時の9cmの苗村レンズは今もあの時と同じ光沢を保っています。
 そして心の光沢は? こちらが大事!