2015年03月21日

池谷・関彗星発見から50年

 立春を迎えてやっと春らしい陽気となりました。しかし芸西天文台のある“桜ヶ丘”はまだ花見の宴は行われていません。

 今年は“池谷・関彗星”発見50周年になります。高知県では特にこれに関連する催しはありませんが、お隣の愛媛県では、これを記念して講演会が開かれる予定で、確定しましたら「一般掲示板」でご案内します。

 実は、このことを意識したわけではありませんが、この2月に高知市の子ども科学図書館で「関勉展」と天文講演会が開かれました。この約半世紀に渉って天文の研究をしてきた関勉の観測機器や星図、野帳、それにメダル等を展示しました。そしてその期間中に関勉の天文講演も行われました。会場には芸西天文学習館の講師、松木公宏氏らの発案で“池谷・関彗星”を発見した時代の“物干し天文台”がセットされ、その台のうえでの講演となりました。台は木工を得意とする図書館のあるスタッフが日曜大工で作ったそうですが、演台に上がった途端にあの彗星を発見した夜のことが思い出されました。そうです、台風の接近で、遠く10kmも離れた桂浜に打ち寄せる波の音を聞いていたのです。そうしたなかに現れた彗星は、私の目の前にある、これも再現された白い四角な木の筒のコメットシーカーで発見したのです。私は思わず懐かしい望遠鏡にすがりました。そして静かに捜索しました。こうして誰も見ていなかった、あの夜の彗星を発見した状況が、あれから50年も経って初めて多くの人に見てもらう結果となったのです。


再現された物干し観測台に立って講演する関

 会場には多くの子供たちが居ましたが、中には熱心な天文ファンやアマチュアも居ました。愛媛県から駆けつけて下さった竹尾さんらも見えました。そして発見の当日観測しながら惜しくも見逃した、という往年のコメットハンターらしい顔も遠くに見えて驚かされました。

 記念すべき9㎝のコメットシーカーは今度、高知市にできる科学館に寄贈する事になりました。
 芸西で長く観測し、多くの小惑星を発見した60cm反射望遠鏡も、中東のレバノンの大学への贈与が決まっています。

2015年02月06日

関・ラインズ彗星発見の思い出

 今日2月4日は立春です。
 立春と言えば「関・ラインズ彗星」の発見を思い起こします。
 当時は、深夜はりまや橋の仕事先「音楽教室」から電車に乗って、坂本竜馬の誕生地の「上町一丁目」で降り、家までの300メートルを歩いて帰りました。
 南の鷲尾山の上には、おおいぬ座のシリウスが、冬の荒い大気に揺さぶられて猛烈に明滅し、壮麗な天の川が頭上に低く迫っていました。そうです!このころの高知市の空には、まだ美しい星座が残っていたのです。
 自宅の門をくぐると「ただいま!」もいわないで、中庭の物干し台に上がりました。桟敷の中央に据えられた9cmの手製のコメットシーカーにすがるようにして南に低い天の川の中を探索し始めたのです。
 そして夜中の23時半、マイナス38度という超低空に異常な天体を発見しました。それがのち大きくなって4月1日に近日点を通過した「関・ラインズ彗星」の発見だったのです。全くの"無欲"の発見でした。

 この物干し兼観測台は、後の「イケヤ・セキ彗星」発見の時にも使用されたのですが、実はこの取り壊されたはずの観測台に昨日上ったのです!そこには実に50年ぶりに見る当時の四角い白い筒のコメットシーカーがありました!
 私は、思わずコメットシーカーのハンドルを握って捜索を始めました。
 これは夢でしょうか?!いや立派な現実です。


再現された物干し観測台

 当時の観測台がいま「高知市子ども科学図書館」に、そっくりに再現されたのです。そして、ここで長いこと使用してきた9cmのコメットシーカーの高知市への譲渡の式典が繰り広げられ、市長や教育長、芸西村の天文台を管理する文教協会の理事長らが出席されました。
 会場には80点に上る天体写真や発見のメダル。関勉のゆかりの品々が展示されています。また芸西で発見命名した223点の小惑星の番号と軌道図がパネルに貼られて、ひときわ目立っていました。大変な作業です。


223個の小惑星のパネル

 1個の小惑星が発見されて無事小惑星センターから確定番号がもらえるまで、少なくとも1年から数年はかかります。その多くは次に帰って来た時の観測を芸西で行いました。
 223個の小惑星が確定させるまで、一体どのくらいの時間を要したのだろうと自分でも恐ろしくさえなりました。

 来る2月8日にはこの上に立って講演会を催します。きっと「池谷・関彗星」が現れた夜のことを、いやがうえにも思い出させてくれることでしょう。

2012年11月06日

小惑星「神鍋」命名記念講演会が開かれました

 2012年10月21日、兵庫県豊岡市で豊岡市他の主催で「神鍋」命名の講演会と式典、及び祝賀会がひらかれました。
 式典では発見者の関から、豊岡市の市長に「命名証明書」が手渡され、市長から感謝状をいただきました。続いて関の講演がはじまりましたが、ここは当地出身の植村直己氏を記念した「植村直己冒険館」。私のお話も、それを意識して、テーマを”イケヤ・セキ彗星の冒険”としました。この日10月21日は、奇しくも1965年に現れた「クロイツ属彗星」の近日点通過の日に当たっていたのでした。その「イケヤ・セキ彗星」は100万度の光熱のコロナの中を通過するという”冒険”をやってのけたのでした。


公演中の関勉




 小惑星「神鍋」発見のいきさつもお話し、夜は宿泊施設をもつ民間の天文台「アルビレオ」で、60cm反射鏡を使用して、折から接近中の小惑星(23468) Kannabeを野村敏郎氏の指導で観測会を催しました。豊岡市の文化のシンボルとして15等級でいま輝いています。


オーベルジュ アルビレオ天文台

 神鍋はスキー場やテニスコートなどのある高原で、夜は光害の少ない満点の星空です。古くからのコメットハンター入江良一さんの活躍の場でもあります。


神鍋高原

 その日は5階建ての屋上に立派な天文台ドームのある星のペンション「アルビレオ」に地元のお世話くださった菅野松男さんと宿泊し、翌日は近くの「竹ノ内隕石落下の記念碑」を見学したり、神鍋高原の山中の珍しい「万劫の大かつら」なんかを見物しました。大人が6人ほどでやっと手を廻すことのできる巨木で、私はふと高知県の”日本一の大杉”の事を思い出しました。土讃線、高松-高知間の「大杉駅」の北の山中にあります。





万劫の大かつら
入江良一氏撮影


2010年09月19日

OAA松江大会に参加して

 松江市でのOAA大会に参加しました。
 参加者はそれほど多くはありませんでしたが、熱心な方々ばかりで、かつ地元会員や「松江星の会」の協力でスムーズに、つつがなく行われました。総会での承認事項も多少の質疑があったものの、無事承認されました。研究発表も西播磨天文台の黒田武彦氏をはじめ5名の方々によって熱心に発表や質疑が行われました。また地元の藤岡大拙氏による「出雲」の歴史やその魅力についてのユニークな講話があり、また「美保の関隕石」の拾得者の松本さんもやってきて、隕石落下の話や、その後のそれによる人生の変化についても興味ある話題を提供してくださいました。私も翌日の講演の中でそれを引用し、彗星との出会いによって、自分の人生が大きく変わったことを話しました。この9月19日は奇しくも45年前の"池谷・関彗星"の発見記念日でした。同じ日曜日でした。演題は「クロイツ属彗星発見の日」、あのとき腕に付けていた手巻きの腕時計は今も回り続け、そのかすかな秒音は忘れかけたあの日の感激を思い出させてくれました。


総会で会長就任の挨拶をする関勉

 表彰式の賞状の授与では板垣公一さんの星の数の多いのには驚きました。なんと1年間に16個ありました。このほか坪井正紀さんは超新星2個、また西村栄男さんには新星4個の発見を表彰いたしました。西村さんは私の家を個人的に訪ねてきたことがあるとのことでした。
 前会長の長谷川一郎氏には「東亜天文学会賞」を授与し、また初対面の九州の松本直弥氏には「山本一清東亜天文学会学術奨励賞」を授与いたしました。人を表彰することは美しいことです。会の成功をたたえた地元の方々の努力も素晴らしかったし、周辺の景色も美しいし。良いことばかしの思い出に残る会でした。

 初日は終了後、会場を近くの宍道湖畔に移し懇親会を行いました。ガラス張りのレストラン1階は広大な湖が丸見えで、折から湖上に落ちていく赤い夕日は絶景でした。たくさんの観光客が砂浜に整列して、この珍しい景観を眺めていました。土佐の太平洋の荒海では「だるま太陽」が見られるところですが、静かな湖面では丸い太陽がそのまま欠けて沈んでいきました。


宍道湖の湖畔に出て落日を楽しむ

 特別参加の静岡県の女性5名によるコーラスも聞かれ楽しい会合でした。
 次回は東京です。OAAの、これからの発展期待。特に若い人々に魅力のある会に育てたいとの私の挨拶で閉会しました。
 帰りの伯備線では黒田氏、松本氏、船田氏夫妻、藪氏夫妻が一緒でした。折から窓外にはあの名山「大山」が、OAAの未来を占うごとく悠然と聳えていました。


OAA松江総会での記念写真

2010年09月18日

ドノホーメダルの輝き

 去る8月には再び岩手県の水沢を訪ねました。小惑星「平泉」誕生の記念行事があり、地元の知事も参加してのパネルディスカッションが行われました。
 この時、国立天文台(元、緯度観測所)で"ドノホーメダル"を見せてもらいました。このメダルは今から遠く80年の昔、ここに勤めていた山崎正光氏が彗星を発見した時、アメリカの太平洋天文学会から授与されたもので、いまだメダルの光沢は衰えていませんでした。彗星は、のち"クロムメリン彗星"と改められましたが、山崎氏発見の業績はメダルの輝く限り後世に語り次がれることでしょう。このメダルは次男の山崎明氏が岩手県に寄付されたものですが、私はいまから56年の昔、山崎氏の高知県佐川町の自宅で見たことがあります。実に半世紀以上もたって、再び対面することとなったのでした。
 問題のクロムメリン彗星は、28年の周期彗星ですから、1956年に回帰し、私は山崎さんとの約束通りに1956年に独立発見しました。そしてさらに28年後の1984年にも回帰し、今度は芸西天文台の60cm反射望遠鏡で観測しました。
 クロムメリン彗星は、次は2011年(来年)か、2012年に回帰します。山崎氏の業績は、また話題になることでしょう。


1928年、アメリカ太平洋天文学会から送られた「ドノホーメダル」


[クロムメリン彗星]
クロムメリン彗星

2010年09月05日

懐かしい望遠鏡との対面

 多少古い話しになってしまいましたが、去る7月、講演のために姫路科学館を訪ねました。それは小惑星「姫路」が誕生したことを記念する講演会でしたが、会場の片隅に、口径22cmの反射鏡の筒が飾られていました。
 これは私が、芸西天文台発足当初の1973年から使っていたものを当館の小関高明氏(高知県土佐市出身)に遠い昔に譲り渡したもので、鏡は小島鏡の傑作です。写真は実に35年ぶりの対面です。
 懐かしい思い出は、この小さな反射鏡で、私の記念すべき最初の周期彗星を検出したことです。その名は「フィンレー彗星」。そう、忘れもしません。天文台がまだ個人の小屋の時代の1974年6月のことです。明け方の近日点近くにあって、低く行動していた、同彗星を狙って、足しげく通いました。6月入梅前の好天を利用して捜索しました。22cmという、周期彗星検出には異例の小さな筒を駆使して、しかもコダック社の天文用ガラス乾板を使い、そのコース上を何枚かの写真に収めました。その頃、アメリカではローマー女史の全盛で、日本では故、冨田弘一郎氏が堂平の90cm反射鏡を駆使して、次つぎに暗い周期彗星の発見に勤めていた矢先でした。
 それはこの世界での突然のアマチュアの台頭です。この藪から棒の発見に当の冨田氏はもとより、スミソニアンのマースデン氏が驚いたに違いない。
 筒はその後、間もなく同じ小島氏の40cm鏡へと進み、更に多くの彗星検出と発展していくのでした。その頃の私のモットーとすることに、口径は小さくとも、それで出来る最大の仕事をしよう、ということでした。そのことはコメットシーカーでも生かされ、口径88mmのレンズで新彗星3個の発見に成功したのでした。「イケヤ・セキ彗星」は、その中の1つです。


1973年から使っていた22cm反射望遠鏡と対面
姫路科学館にて
2010年7月11日

2009年12月06日

高砂市で講演しました

 小惑星「高砂」が実現したことで12月6日、当地の高砂市で命名の記念行事があり、同時に、「星を見つめて」と題して講演を行いました。非常に熱心な聴衆で、私自身が夢中で星の世界にのめり込んで行きました。多くは一般の成人でしたが、星をやっている方たちも目につき、後で有志が集まって、楽しい歓談のひと時を持ちました。
 OAA会長の長谷川一郎氏夫妻、同じく地元で御世話をしてくださった大西道一氏ご夫妻、河野健三氏、「スガノ・サイグサ・フジカワ彗星」の発見者である菅野松男氏や姫路市の桑原昭二氏等のお顔も見え懐かしく思いました。
 講演会を開いたとき、会場の中で意外な人と出会うことがあるものですが、今回もその例に漏れず、何人かの方が訪ねてく下さって、色紙にサインしたり、また昔の出来事を話し合いました。40年も前、東京で私に手紙を下さった魚住仁さんは当時の私の拙著「未知の星を求めて」と私の手紙を大事に取ってあって見せて下さいました。また地元のある女性は、今は珍しくなって希少価値の高い「イケヤ・セキ彗星写真特集」をプレゼントして下さり、今は遠くなった懐かしい時代を回顧しました。
 写真は「イケヤ・セキ彗星写真集」と、1966年1月号の「天文ガイド」誌。上は当日高砂市の市長から戴いた感謝状です。



2009年07月22日

市民大学で講演しました

 高知市の「かるぽーと」で<自然科学コース>「宇宙のしくみと天体」というテーマでおよそ十年振りに開かれました。参加されたのは中、高年の男性が圧倒的に多く、ご婦人はやや少なく、学生の姿はほとんど眼につきませんでした。昔は天文や他の科学についても何かやると、その主流は学生が占めていましたが、世間で言う若者の”科学離れ”の影響がここでも出ているのでしょうか。参加者は多かったものの一抹の寂しさを感じました。
 私以外の講師のお話はかなり程度の高い”宇宙論”でしたが、それでも聞こうという熱心な市民の姿には心を打たれました。熱心な聴衆が相手でしたら、話しよく内容もいい方向に展開して行きます。講師から良いお話を聞くのは、こうした聴衆のマナーにかかっていると、いつも思うことです。
 およそ90分間、一方的に語り、質疑応答は行いませんでした。なぜなら、質問は、聴衆を代表するようないい質問が少ないからです。本を読んだり、近くの一寸した先輩に聞けば分かるような質問ではなく、その人ではないと答えられないような、いい質問を我々は期待しているのです。
 昔NHKの放送番組で有名なギタリストが登場して演奏し抜擢された少数の聴衆が質問する番組が昔ありましたが、出た質問は一女性の「何とかの曲のこの部分はどのように弾けばよいのでしょう?」と言った平凡な個人的な質問にがっかりさせられたことがあります。その演奏家がここまで育ってきたことについて、もっと真髄を追求するような良い質問を多くの聴視者が期待していると思います。
 今回の講演会の司会を勤められた高知女子大学長の大久保先生と控え室でお話するチャンスがありました。先生は天文の専攻で、時々論文を書いて、外国の会合にも参加されますが、外国の学者に「どちらからお出でましたか?」と聞かれたとき、高知県といっても分かりにくいので「ほらあのイケヤ・セキ彗星の国からやってきました、、、、」と答えると分かってもらえる、と言って私を喜ばして下さいました。
 写真は演台から見た熱心な参加者の姿です。


かるぽーとでの講演会の様子

2009年07月03日

シルバー大学で講演しました

 今日7月3日、高知城の近くの「高知文学館」のホールに講演に行きました。すぐ近くに聳える高知城は先日小惑星に命名して以来、初めて眺めました。朝日に映えるお城の姿は、特別に懐かしく、私には意味のある姿です。
 そうです、1961年10月12日、初めて彗星を発見して、お城の下の電報局に打電するためにやって来て、朝の6時、東京に打電を終えてホッとした時、北の上空に朝日に映えた高知城の凛々しく美しい姿がありました。やっと宿願を果たしたという心で見るお城の姿は、その白い城壁がただ美しく神々しくさえ見えました。あの日の感激を忘れず、いま高知城を”大高坂城(Otakasakajyo)”として星に命名したのでした。大高坂城(おおたかさかじょう)とは築城時の名です。
 文学館のホールには100名余りの熟年の聴衆が集まっていました。いま「シルバー大学」とか「老人学級」とかいった団体は多く、面白いことに、特に女性が熱心で、今回集まった会員も、なんと90パーセントが女性で占められていました。7月22日の日食のお話を冒頭に、色々な星の話をしましたが、講演が終わると意外な人が名乗り出て、良く懐かしい珍しい話が弾むものですが、今日もその例に漏れず、70歳が近いと思われるご婦人がつかつかと近づいてきて、「覚えていらっしゃるでしょうか?私は60年前にプラネタリウムで解説をやっていた中村で御座います」と語ったのです。
 思い出しました!1950年に高知市の帯屋町で私たち有志が手作りのプラネタリウムを製作して第2回目の”南国博覧会”に合わせて開業したときに解説をやってくれた数名の女性の1人でした。あのときのドームの中で木霊(こだま)した彼女の美声は今でも耳の底に残っていました。とたんに悲喜こもごも苦労して造ったプラネタリュウムの時代のことが、目まぐるしく私の脳裏を回転しました。その下りは「プラネタリウムと潜水艦」という変わったタイトルでこのホームページの「ほうきぼしと50年」に何回かに渡って載せてあります。猟奇に満ちた話です。この中村さんには久保内徳夫君という私と中学で同期の従弟がいたのですが、卒業して間もなく消息を絶ったので、心配していたのですが、その後病死したと言う話をきき愕然としました。中2の時にはすぐ近くに住んでいてよく遊び、ともに勉強しました。1945年7月4日の高知市大空襲や、翌年12月の南海大地震も共に体験した数少ない親友の1人でした。彼の父は牧師で家は小さな教会になっていました。クリスマスの日の早朝、観測をやっていましたら、突然賛美歌を歌う合唱が聞こえてきて身の引き締まるような神々しさを覚えたことを思い出します。レンズの中には数万光年彼方の散開星団が光っていました。


帯屋町筋から見た高知城とその大手門

2009年05月09日

神戸での講演会

 今日5月9日は神戸の三宮で「日本スペースガード協会関西支部」主催の第33回講演会があり講師として参加しました。
 会にはOAA会長の長谷川先生や、彗星の運動で”藪下理論”を発表された藪下先生の顔も見え、一般の人より、天文に精通された学究が多いと見受けました。講演のテーマは「新天体発見のよろこび」でしたが、延々3時間、熱心な聞き手の方たちの前でお話することとなりました。
 話は1965年の”池谷・関彗星”の話がメインとなりましたが、発見の話ばかりではなく、発見者、池谷薫さんの、隠された人となりについても、いろんなエピソードを語りました。1965年10月、池谷・関彗星が太陽に迫ったとき、キューバのホセ・カレーヨ氏によって作曲された幻の曲"Ikeya-Seki"も初めてDVDによって会場で披露されました。これは、昨年の秋、キューバで、作曲家の属するメンバーが演奏会を開いた時の収録で、会の余興とは言え、私には重大な意味をもつ事件でした。あの日から実に43年も経っての初演となったのです。
 芸西の60cm反射望遠鏡でのメインの観測となった小惑星発見の話とそのエピソードもよく聞いてくださいました。星への命名にはいろんなことがありました。中には、そっと涙ぐむ場面も。しかし星への命名はロマンがあっていいですね。会場では、いつものことながら地元へのプレゼントを忘れませんでした。そう、天下の名山「六甲山」を命名することとなりました。無論芸西で発見した星です。
 私を慕って最後の席までお付き合いくださった何人かのファンが居られました。地元の豆田勝彦さんも其の1人で、豆田さんとは40年来の文通によるお付き合いでした。何冊かの私の本を持ってきてサインもしました。拙著「未知の星を求めて」の1966年発行の初版本や神田茂先生の「彗星」の綺麗な本を、近くの古書店で簡単に買ってもってきていました。本の中に、清水真一氏撮影のペルチャー彗星他の写真が挟んであったとは一種のミステリーです。一体もう一つの大彗星は何だったのでしょうか? 本の持ち主らしい名刺もナゾ。
 会をなにかとお世話された大西道一さんご夫妻から帰りに戴いた本、神田茂氏の「彗星と流星」には思い出がありました。20代の若き日、この本をテキストとして、天体の軌道計算にとり組んだ日々がありました。多くの小惑星の軌道計算に没頭し、一日の大半を数式と対数表をにらみ苦闘した青春のいい時期でした。私の20歳代は計算と捜索がすべてでした。会ではそのようなお話もいたしました。
 翌日も快晴でした。三宮から伊丹の空港に向かう高速バスの窓から北にそびえる六甲山が見えていました。この山並みにいくつかの大彗星がかかった名場面があったはずだと思いました。この名山が星空にそそり立つ日も近いだろうと思いながら、神戸を後にしました。高知までの空路は晴れて、早くも夏を思わす入道雲が高く盛り上がっていました。これからの希望のシンボルの如く、、、、。

2007年09月16日

川平(かひら)の海にやってきました

 石垣島は人口数万の小さな町だそうですが、車で回る島はとても広く雄大に感じました。熱帯の珊瑚礁を思わす夢のような青と、やや黄ばんだ非常に小さな、まるで埃のような砂浜が印象的でした。有名な川平(かひら)の海では、遊覧船に乗って海の浅い底の、色とりどりの珊瑚や熱帯魚の群れを楽しみました。観光は天文台の副台長の宮地竹史さんと、高知新聞社から派遣された岡部記者の3人でした。
 午後は町の公民館で天文講演会をもちました。聴衆のほとんどは一般の人で、期待していた若い学生たちの多くは運動会等の行事と重なって、参加出来ない人が多かったようです。また台風がやってくる9月16日。この日は42年前、「池谷・関彗星」を発見した3日前です。あの時も大きな台風に見舞われたのですが、話題は必然的に池谷・関彗星発見の話に向かいました。台風一過後の、奇跡的な晴天。わずか9cmのレンズと、手作りによるおんぼろの筒。月光下で、しかも薄明が迫りくるわずか15分間の捜索での出会い。すべてが奇跡ずくめの発見でした。そして発見から1ヶ月後の太陽突入。奇跡の生還。そして天体観測によって得られた人生観等、、、、、。
 この日も市内の同じホテルに泊まりましたが、夜は地元の天文同好会の方々と普段の溜まり場で、有意義なミーティングを持つことができました。
 翌17日はまたも迫り来る台風11号の大雨の中、今度は台風から逃げるように、石垣島の空港を飛び立ちました。こうして天文台の宮地さんや、八重山天文同好会の方々の親切を思い出しながら帰宅しました。


石垣島の海を背景に宮地竹史副台長(右)と共に


川平(かひら)の浜辺にて

2007年09月15日

石垣島天文台に来ました

 芸西で発見した小惑星に石垣島天文台の105cmの反射鏡のニックネーム「ムリカブシ」と命名したことから、憧れていた石垣島にやってきました。丁度行き抜けた台風を追う形での訪問となったわけです。同じ飛行機で高知新聞社の岡部記者も同行しました。
 小さな飛行場では国立天文台の宮地竹史氏の出迎えを受けて、早速に海を見下ろす小高い山に立っている天文台に向かいました。この白いドームは飛行機が着陸する少し前から遠くに光って見えていました。
 折から南の長い一日の夕闇が迫り、山から俯瞰する壮大な海や街の灯が美しく眺められました。天文台に配慮してナトリウム灯が多いそうで、街明かりはそれほど気になりませんでした。20時には木星が丁度南中し、さそり座や射手座が驚くほど高く眺められました。ここは北緯24度。芸西とは10度近くも低いのです。南十字は水平線上2度以上に一番南のアルファ星が見えるそうです。
 105cmのカセグレンによるナスミス焦点で、有効最低倍率に近い約200xを使って木星を覗かせてもらいました。口径が大きいので、もろにシーイングの影響を受けますが、木星の表面が明るすぎるほどに強く輝き、空気が澄んだ瞬間には、表面が絵に描いたように詳しく眺められました。東の町の光害も比較的少なく、小惑星を専門に観測している天文台の研究員によると、CCDによって20等星までは写るそうで、21等にはまだ挑戦していないとのお話でした。ガリレオ衛星も良く見えました。しかしそれは点像に近く、むかし20cmで衛星の模様を見た人が居たそうですが、105cmで覗く限りそれは至難の業のように思えました。惑星のスケッチというのは、その人の主観や錯覚に影響されるので、私は余り好きではありません。
 南の天の川が良く見えるので、島で新星や彗星を探す人が現れたら面白いと思いました。幸いこの天文台は国立といえども民間に開放し、お互いに協力して運営されています。現にこの日も多くの見学者が、夜の観測に訪れていました。民間の中で委託された人が、その説明に当たっているようでした。天文台の指導によって、いずれは発見に貢献する人が現れるに違いない。明日の私の講演では、南の空の観測に有利なことを強調し、この地で発見に努める人が輩出する様な興味ある話にしたい、と思いました。
 見学終了後、南天の星空をバックに入れて、3人で記念写真を撮りました。南からかすかに伝わってくる潮騒の響きに、何時の日にかハレー彗星を追って南方へ行った日のことを、ふと思い出しました。ああ、ここは日本列島も南の果てです。


石垣島空港にて
左から宮地副台長、関、八重山星の会のメンバー

2007年08月04日

徳島市に出張しました

 徳島大学工学部で恒例の「科学体験フェスティバル」があって講演のため出張しました。行きは高速を利用し帰りは192号線と、32号線の旧道を通りゆっくりと帰ってきました。久しぶりに吉野川の渓流を見ました。確か”Yoshinogawa”は芸西で発見した小惑星にあるはずです。
 この催しは今回が11回目だそうですが、講演会をなにかとお世話下さった大学の森篤史先生は、有名な岐阜県のコメットハンター森敬明さんのご令息です。講演会は「彗星のなぞと彗星探し」というテーマでしたが、会場には意外と女子中学生の姿が目立ちましたので、専門的な話からはずれて、天文学を通じて、これからの若い人に夢を持たすような話をしました。聴衆のマナーがよく、熱心でしたので、つい私も時間のたつのも忘れ、多くのエピソードを交え面白いお話の境地をさ迷ってしまいました。

中学生の目立った講演会場

 講演会のあとで大学の天文部の撮影した見事な天体写真展を見せてもらいました。旧、那賀川町総合科学館の113cmの反射鏡+CCDで撮った銀河の写真が光っていました。この催しは科学全般に渉っていましたので親子連れの大変な人出でした。高知県には科学館もプラネタリュームもなく、子供たちの科学に対する関心やそのレベルは他県に比べて10年以上は遅れていると思いました。高知県は昔から政治やスポ-ツは盛んですが、こと科学にいたっては駄目です。

2007年02月27日

講演会を催しました

 春の気配の僅かに感じられる2月の末、ここ吾川郡土佐町の田井で講演会を持ちました。参加者は65才以上の「老人大学」で、いつも思うのですが参加者の90%は御婦人です。高知市でやっても同じですが、こうした老後の勉強会には特に女性が熱心であるのでしょうか。それとも男性は参加しにくい理由が他にあるのでしょうか?話をしていても男性の姿を発見するのに苦労するほど少ないのです。約100名の聴講者は実に熱心に興味深そうに私の話を聞いてくれました。
 1835年11月15日、高知市の上町で坂本竜馬が生れたころ、かの大ハレー彗星が近日点の近くにあって、雄大な姿が上町の民家の屋根に懸っていただろうの話をしました。「竜馬」の名付けは夜空を舞う龍、即ちハレー彗星から来たであろう想定。そして芸西の60cmを作った安芸市出身の五藤斉三氏が若い頃に見たハレー彗星を2度見ようとして無念にも病に倒れ、その意志を受け継いだ留子夫人が健気にも天文台まで乗り出してきて、夫の作った望遠鏡で2度目の観測に成功し無念を晴らしたた話などしました。そして歌人でもあった留子夫人の歌。

  五藤ぼし、竜馬のほしと共どもに
      ハレー求めて天駆けりいん

 竜馬も五藤さんも小惑星となって宇宙を飛んでいますね。
 講演会のあった土佐町は有名な早明浦ダムの近くです。帰りは大豊町を廻らずに西に出て工石山(1180m)を越えて帰りました。

2006年03月06日

小岩井農牧場天文台を訪ねました

 岩手県を訪れて3日目、昨夜は花巻の温泉に泊まりました。あたりが一面雪景色の露天風呂で、暗い空には星が輝きとても寒そうでしたが、不思議と空気が暖かいのはどうしてでしょう。誰もいない静かな湯に浸かって空を仰ぎ、かつて宮沢賢治もこうして同じ湯に浸かり星を眺め創作の思いを練ったのではないか、と思ったりしました。
 6日の午前中は酒井栄さんの車、菅原寿さんの解説で、義経最後の地と言われる平泉の名所を見物し、午後は花巻の賢治の記念館を見学しました。
 その後立ち寄った雫石町の小岩井農牧場では昔OAAの会員で、コメットブレテンも読んでいたと言う狐崎幸一さんらとお会いし、天文の施設も見学しました。長さが10mを越えるようなヘベリウス式の空気望遠鏡や、珍しくNikonの20cm屈折赤道義の完璧な姿に感動しました。日本でこれが健在なのは5基くらいでしょうか。見渡す限り白に染まった牧場、その遥か彼方に真っ白に輝く雄大な岩手山。そして伝統あるニコンの望遠鏡。それはこの岩手県のシンボルであり、どっしりとして、日本のよきものを見たような良い気分でした。
 元は講演の旅でしたが、地元の人たちの暖かい友情と美しく雄大な雪景色が、強い印象として、いつまでも心に残りました。

小岩井農牧場天文台の20cm望遠鏡の下で

2006年03月05日

田中館愛橘博士が小惑星に命名されました

 今日は二戸市の田中館記念科学館を見学しました。同時に小惑星命名の記念行事があり、市長も参列してのTanakadate命名の報告を行い、その資料をお渡ししました。木村栄氏や寺田寅彦の先輩でもあったAikitu Tanakadateの星が誕生したわけです。人口3万人ほどの北の小さな町に聳える近代的な施設はまさに文化のシンボルです。寺田寅彦のような偉人を出しながら、科学者としての彼の業績を顕彰するような科学施設のひとつも無い土佐を思い、一抹の寂しさを禁じえませんでした。
 今日は地元のイーハトーブ宇宙実践センターの主催による懇親会が和やかに開かれました。国立天文台の先生も数名見え、中には神戸から駆けつけた山田義弘さんや、もと五藤光学の石井さんの顔もあり賑やかでした。地元の戸村茂樹さんが緯度観測所の元職員だった山崎正光さんのことを詳しく紹介し、今は入手不可能となった山崎さんの珍しい本を出し注目させられました。昭和の初めの頃の出版で、人気が高く10版を重ねたとあります。題は英文で書かれた「望遠鏡の作り方」でカラーの美しい表紙です。内容は反射鏡の研磨法をかなり詳しく書いてあり、同時に出品された中村要さんの「天体写真撮影法」と良い対照でした。
 地元の人によると山崎さんが緯度観測に従事した記録が無いということですが、あとで戸村さんが送ってくださった資料によると、山崎さんは二人一組による交代制で天文台の仕事に忙しかったことを述べておられます。そして水沢はお天気が悪くろくに彗星の捜索ができなかったことも書いています。しかし突如として起こった1928年10月27日の彗星発見。そのいきさつについてもかなり詳しく語っています。山崎さんはアメリカで1910年のハレー彗星を見るために磨いた8インチ(20cm)の反射望遠鏡で、その頃からすでに彗星の捜索をやっていたそうです。場所は留学先のリク天文台だったそうです。そしてその鏡は日本に持ち帰って独特のスタイルのコメットシーカーを作ったわけですが、山崎さん自身これを日本での第1号の鏡と言っていますので、研磨は確かに中村要氏より早かったようです。
 この鏡は今どこにあるのか?一説によると愛知県の親友だった山田達雄氏が買い取り、星野次郎氏によって修理研磨が行われたことになっていますが、詳細は不明です。山崎氏は捜索のとき、7インチに絞って使用していたといいますから、確かに鏡面の精度は良くなかったようです。1955年頃私が実際に覗いたところ、30倍のラムスデン式のアイピースは視野が狭く(1度10分)周辺のかなり崩れる像でした。1年くらいの捜索で彗星に行き当たったそうですが、私には奇跡としか思えませんでした。
 いずれにしても、それまで日本人ではだれもやらなかったことをやったことは偉大で、まさに天文人としての先覚者だったと思います。
 山崎氏のエピソードは尽きないですが、いずれまた語りましょう。

左 中村要氏の「天体写真術」    
右 山崎正光氏の「望遠鏡の作り方」


科学画報昭和4年3月号
に載った山崎正光氏
の発見記(戸村茂樹氏提供)

2006年03月04日

水沢の天文ファンと交流しました

 奥州市水沢区での天文公演を終え、岩手県の多くの天文愛好家と懇親の機会を得ました。会を開催するにあたって地元の酒井栄氏や、元国立天文台の大江昌嗣先生に大変なお世話になりました。会場には学生よりも、一般の人々約250人が集まり、会の終わったあとに色々な熱心な天文のファンと交流することができました。
 池谷・関彗星の発見のことも語りましたが、特筆したいのは41年前にハバナ市の「ホセ・M・カレヨ」さんによって作曲された"Ikeya-Seki"の曲が、この会場で初めて演奏されたことです。パソコンによっておたまじゃくしを拾って演奏するという、極めてユニークなものでしたが、原曲のピアノの音が高らかとこの会場に響き渡り、太陽に大接近したあのときの彗星の面影を彷彿とさせました。そして講演する私の頭にも、彗星を語る思いもよらない発想が浮かび熱弁することができました。
 岩手県に滞在した3日間で人と交わした名刺はざっと30枚で、多くの人と会えて見聞を広めることができたのは大きな収穫でした。
 78年前、山崎正光技官が彗星を発見したのはこの水沢で、その資料は少ないですが、熱心な地元の方が保存していた文献に意外なものがありました。
 天文台構内で78年前山崎技官が捜索していたらしい場所に立つと一面の銀世界で、今は遠くなったが、遥かに霞む岩手山がその事実をしっかりと物語っているようでした。
 この夜の懇親会である古い地元の天文家が、山崎さんを語る意外な珍しいものを持ち出してきました。
 では、今日はこの辺で。明日は花巻の宿です。

地元の星の会の人々と懇親会
3月3日撮影


国立天文台の先生方を中心とする水沢区の人々と懇親会
3月4日撮影

2006年02月10日

佐川町の長寿大学で講演しました

  講演会で佐川町(さかわちょう)の長寿大学に行ってきました。最近は65歳以上のお年よりが多くなって、県下にこうした生涯学習の団体が実に多くなりました。そして毎年年度末に集中することが多く、この2月は3件あります。そして面白いことにご婦人が断然多く、いつも100人内外集まるのですが、男性は1割いるかいないかです。そして質問に立つのも殆どがご婦人です。帰りに公民館に立ち寄るとそこの物置に山崎正光(やまさきまさみつ)さんの使っていた20cmコメットシーカーを模した経緯台がおかれていました。そうです、この佐川町は日本でもっとも早く彗星を発見した山崎さんの郷里だったのです。公民館にある小高い山から彼の家のある九段田、日野地地区がかすんでみえていました。むかしは星の美しい里でしたが今では多くの建物が出来てその山麓の塵煙にかすんでいました。望遠鏡を作ったのは山崎記念天文台のメンバーですが、いまはその会は存続しているのか。公民館の人の話では見学の申し込みがあれば天文台を公開しているという事でした。どうやらハレー彗星接近の頃をピークとして熱は衰退して行っているように思いました。天文台は腕の立つ使い手がいないとどうしても衰退します。公民館の中に土地の生んだ偉人のポスターが掲げられていました。小説の森下雨森(もりしたうそん)に声楽家の下八川圭介(しもやかわけいすけ)、植物学者の牧野冨太郎(まきのとみたろう)に維新の英雄、そして政治家と、多くの偉人を生んだ町ですが、山崎正光さんの写真は見つかりませんでした。山崎さんが水沢の木村栄(きむらひさし)氏のもとで緯度変化の研究を行ったのは1920年代で、そのころ人目を避けるように20cmの独特の形をしたコメットシーカーを自作したようです。今も古い建物は残っているそうですが、いつの日にかこの場所を訪ねてみたいと思っています。

2005年11月13日

ALMAに関連する天文の講演会が催されました。

 今日は予定どおり国立天文台から3人の講師が来られ、高知市大津の高知県教育センターでALMAに関連する天文の講演会が催されました。高知市を中心に非常に熱心な天文ファンが来られて、会は成功に終わりました。ただ高校生を中心とする学生が少なかったことは意外で、学生たちの科学離れの象徴か、今後一考を要する問題だと思いました。
 いつもこうした講演会が行われると意外な人に会うものです。20年ほど前に四日市市で講演会をもったとき30歳くらいのご婦人が後で小学生の子供を連れて控え室にやってきて「先生、お久し振りです。昔ギターを習っていたMです。今日は図らずもお目にかかれて嬉しく存知ます。」と挨拶されました。思い出しました。1966年、あのイケヤ・セキ彗星を発見したあと、”少年サンデー”が取材に来てノンフィクション作家の佐伯誠一氏等が取材したのですが、その時ギターレッスンをやっている風景の写真のモデルになってくれたのが当時女子大生の彼女でした。「先生は何にも言われなかったのですが、あの時私は密かにお慕い申し上げていました、、、、」と言う大胆な言葉はやはり人の親となった落ち着きでしょうか。芸西村出身という彼女はいつの日にか子供と天文台を見学したいと言っていました。
 そして今回の講演会も例外ではありませんでした。私の話が終ったとき、前の方に座っていた一人の紳士がつかつかと歩み出て、「関さん、片岡です。実に53年ぶりです」とおっしゃるのです。いただいた名刺の肩書きを見ると”越知町教育長”と書いてあります。同時に同町の博物館の館長も勤めておられます。思い出は一瞬1952年に遡りました。わたしがOAAに入会して観測を始めたばかりの頃、越知町の小学生で、精巧な天球儀を作り何かの催しで入選して高知新聞に大きく取り上げられたことがあります。その記事を見た私は感動のあまり彼に賞賛と激励の手紙を差し上げたのです。それから4年、私がクロムメリン彗星を発見して報道された時、それを見て中学生になった彼から逆に祝いの手紙をいただいたのでした。しかしその後、一回も会うチャンスが無く、遂に今回がはじめての面会となったのでした。彼は天文の道に進むことは無かったのですが、私からの激励の一本の手紙がきっと彼のその後に良い影響を与えたのではないかと思います。かって私も本田大先生から激励の手紙をいただいたことがあります。
 いまは若い人たちで携帯電話を使った便利なやり取りが盛んになって、手紙の文面に感動したり、或いは涙する事も無くなったのですが、私は今更のように一本の手紙の重さを痛感するのです。私の人生を変えたのも先輩からの一本の手紙でした。

片岡重敦(かたおか しげあつ)氏(左)とともに