2015年03月21日

池谷・関彗星発見から50年

 立春を迎えてやっと春らしい陽気となりました。しかし芸西天文台のある“桜ヶ丘”はまだ花見の宴は行われていません。

 今年は“池谷・関彗星”発見50周年になります。高知県では特にこれに関連する催しはありませんが、お隣の愛媛県では、これを記念して講演会が開かれる予定で、確定しましたら「一般掲示板」でご案内します。

 実は、このことを意識したわけではありませんが、この2月に高知市の子ども科学図書館で「関勉展」と天文講演会が開かれました。この約半世紀に渉って天文の研究をしてきた関勉の観測機器や星図、野帳、それにメダル等を展示しました。そしてその期間中に関勉の天文講演も行われました。会場には芸西天文学習館の講師、松木公宏氏らの発案で“池谷・関彗星”を発見した時代の“物干し天文台”がセットされ、その台のうえでの講演となりました。台は木工を得意とする図書館のあるスタッフが日曜大工で作ったそうですが、演台に上がった途端にあの彗星を発見した夜のことが思い出されました。そうです、台風の接近で、遠く10kmも離れた桂浜に打ち寄せる波の音を聞いていたのです。そうしたなかに現れた彗星は、私の目の前にある、これも再現された白い四角な木の筒のコメットシーカーで発見したのです。私は思わず懐かしい望遠鏡にすがりました。そして静かに捜索しました。こうして誰も見ていなかった、あの夜の彗星を発見した状況が、あれから50年も経って初めて多くの人に見てもらう結果となったのです。


再現された物干し観測台に立って講演する関

 会場には多くの子供たちが居ましたが、中には熱心な天文ファンやアマチュアも居ました。愛媛県から駆けつけて下さった竹尾さんらも見えました。そして発見の当日観測しながら惜しくも見逃した、という往年のコメットハンターらしい顔も遠くに見えて驚かされました。

 記念すべき9㎝のコメットシーカーは今度、高知市にできる科学館に寄贈する事になりました。
 芸西で長く観測し、多くの小惑星を発見した60cm反射望遠鏡も、中東のレバノンの大学への贈与が決まっています。

2010年04月24日

毎日新聞に連載を始めました

 高知支局、千脇記者の取り計らいで、4月から向う1年間、毎週水曜日に星の連載を始めました。写真は4月1日に発行された毎日新聞の高知版で、連載第1回目が2ページにわたって掲載されています。題は「星を見つめて」で、私が講演会で良く使うタイトルです。


毎日新聞2010年4月1日高知版

 物語は当然実話に基づいたストーリですが、新聞の読者が対象ですから、できるだけ面白く読ませることに力を入れました。そのため多少現実とのズレを生じるかも知れません。
 私が小学生の頃、同じ毎日新聞の「大毎小学生新聞」で読んだ海野十三(うんのじゅうざ)氏のSF小説「火星兵団」の興奮が忘れられず、今は60年も昔になったこの小説のことを多く取り上げました。そして、いまTVで人気の竜馬の話も度々登場します。海野が描いた火星人の姿はいずれ登場しますが、それとそっくりな人(宇宙人?)に先年天文台の山で会ったような気がしました。これから50回続く連載にどうかご期待下さい。
 なおこの連載は毎日新聞社高知支局のウェッブサイトの中の星を見つめてのコーナーでも見られる様になるはずです。また連載第1回はこのホームページの「星空の宴」にてすでに発表しました。


海野十三の描いた火星人
昭和15年大毎小学生新聞より転載

2008年10月21日

池谷・関彗星の曲

 今年の10月21日も朝から見事な快晴に恵まれました。
 今から、ちょうど43年前の今日、「池谷・関彗星」が太陽のコロナの中に突入したのです。あの時も今日のような、雲一点も見当たらない快晴でした。空には何か白い粉のようなものが、盛んに浮遊していました。そして、今日と違っていたのは、朝から私の自宅の観測所にたくさんのマスコミが押し寄せてごった返していたことでした。
 摂氏100万度もあろうと言う太陽コロナの中を彗星が通過する。誰しも今日が、池谷・関彗星の終焉の日と見込んで、半ば興味と不安を持って九天を仰いでいたのです。一足早いハワイからは彗星がバラバラになって、砕け散るのを目撃したと言うし、本家の日本でも、乗鞍岳のコロナ観測所では、早朝からコロナグラフで、太陽接近中の同彗星を捉えていたものの、午後1時15分、遂に彗星はコロナの中で、蒸発消滅した、との観測発表が行われ、私たちに大いなるショックを与えたのです。そのとき、彗星の光度は満月よりも明るいマイナス12等と発表されましたが、それは、最後を見届けた倉敷天文台の本田実氏の観測でした。
 それから一週間程たって、池谷・関彗星は、明け方の空に意外な姿となって現れてくるのですが、実はその健在な姿をあたかも予言するかのように、彗星の姿を音楽で表現した人がいました。それは、日本からはるかに遠く離れた南半球の人で、彼は太陽に突入していく彗星の姿を見て、即興的に「イケヤ・セキ」と言う曲を作曲したのです。この彗星は南半球で特によく見えて、途上国では「世界のおわりか!?」と騒いだようです。そして、ネパールのカトマンズでは時の国王も参列して、真面目な”厄除け祭”を、行ったことがNHK1のテレビで放映されました。キューバのホセ・カレーヨさんも、おそらくそのような気持ちで、半ば慄きながら、白昼の空に舞う彗星の姿を曲に残したに違いありません。
「イケヤ・セキ」の曲は、間もなく私の元に送られてきましたが、これは完全なプロの手になる作品で、おたまじゃくしの配列は力強く華麗に宇宙を舞う彗星の姿を見事に捉えていました。カレヨさんも私と同じように、彗星の健在を信じていたのでしょうか?
 時は移って、あの日から40年、「イケヤ・セキ」の曲は実際に演奏されることはありませんでした。ホセ・M・カレヨさんとは一体どのような方であろうか、そしてどのような思いをこめて、この曲を作曲したのであろうか。ややもすると、この事件は謎のまま永遠に消え去ろうとしていたのです。
 そのようなときに一つの朗報がもたらされました。あるテレビ局の番組で、タレントの”ポストマン”が、はるばるとキューバーまで、ホセ・カレヨ氏をたずねていくことになったのです。果たして40年の歳月を経て今なお作曲家として現地で健在なのか、ポストマンは、当時のイケヤ・セキ彗星の写真と、私のメッセージを提げて旅立ったのです。メッセージの中には、「イケヤ・セキ」作曲者として、彼の名を星に命名したこともしたためてあります。「どうか私のメセージが無事彼の元に届きますように、、」と、祈るような気持ちです。
 彗星が音楽になったことは、おそらく前代未聞のことでしょう。願わくばホセ・カレヨさんの楽団によってこの曲が演奏され、それを聞く機会が与えられますように、、、、。私は南国キューバの美しい星空の下で、その曲が演奏されている光景を夢に見ています。
 ”走れポストマン”彼はいま何処にあるのだろうか。

ポストマンの中村氏(向かって右)と共に

2006年06月30日

火星兵団

 6月30日は「輪抜けさま」のお祭りです。この日は昔から必ず雨が降ると言われているように雨天の確率の高い日です。近くの石立八幡宮から、昔は笛や太鼓の音が聞こえ、好んでお参りに行ったものですが、この20年は全くご無沙汰しています。昔のように、なんとなく風情が無く、何処にでも見られるようなお店屋さんが立ち並ぶだけで、人ごみの中に入って行くのがつい億劫になってしまったのです。
 ジンクスが外れて雨が降らなっかたこの日、仙台に住む星の人から珍しい贈り物が届きました。それは海野十三(うんの じゅうざ)著の「火星兵団」という本です。この本が出版されたのは遠く今から50年以上も昔のことです。私が小学3年生の頃、毎日系の「小国民新聞」に2年間に渡って連載されました。その頃は火星に生物が居ると多く信じられて居た頃で、私が宇宙と言う者を初めて体験した忘れられない作品です。そしてあれから半世紀以上も経って、芸西で発見した小惑星(12084)に「Unno」と命名し、先日認定されました。いたるところに展開されるスリルとサスペンスは推理小説家のものですが、最後に大彗星が地球に接近し、それを月の摂動に寄って回避さすところの下りなんかさすが科学者としての海野の才が伺われます。海野さんは江戸川乱歩氏の後輩で徳島公園にある彼の顕彰の碑は乱歩の書となっています。
 子供の頃私が愛読した冒険小説の作家には、海野十三のほかに北村小松(きたむら こまつ)、南洋一郎(みなみ よういちろう)、山中峯太郎(やまなか みねたろう)なんかの人が海洋ものや宇宙ものを盛んに執筆し少年少女の血を沸かせました。いまこれらの人を懐かしく思って居られる人も多い事でしょう。
 なお海野が「火星兵団」で取り上げた”モーロー彗星”は彼自身体験した明治時代のハレー彗星がモデルになっていたものと思われます。

海野十三作「火星兵団」を手に


海野十三作「火星兵団」

2006年06月13日

41P/Tuttle-Giacobini-Kresak

 とっくに梅雨に入っているのですが、なかなか降りません。満月の後の観測を、と思って度々天文台に行くのですが、お天気も完璧ではなく、面白くありません。
 いまタットル・ジャコビニ・クレサック彗星が近日点の近くに在ります。この彗星は1973年に回帰したとき、14~15等の予報が出ていましたが、近日点に近い6月に4等という爆発的な明るさになりました。スミソニアンから問い合わせの電報が各地に発せられましたが、これは新彗星の出現ではなく、当のタットル・ジャコビニ・クレサック彗星が爆発的な増光を見せたものであることが判明しました。然し立派な尾を引いた彗星も日本では梅雨の最中で、観測されませんでした。
 ここで発見者の1人チェコのクレサク博士がこのときの爆発に触れ「恐らく彗星はエネルギーの大半を失ったので、もう再発見は不可能であろう」との見解を発表しました。それから5年余り経ち、1978年の秋11月、発表された予報は15等級で明け方の空でした。彗星はその予報どおりの明るさで芸西で検出されました。金星のすぐそばで、最初は金星のゴーストかと思っていましたが、その後の観測でもチャンと写っていました。いまは1973年に異常に増光したときと同じ6月の近日点の近く。再び同じような変化が見られるかもしれないと、明月の中でも監視を続けています。しかし彗星は14等級の明るさで、足早に立ち去ろうとしています。
 暑くなりましたので、先に村岡さんがエジプト日食に行ったとき買ってきてくださったシャツを着はじめました。胸の字は「セキ」と読むそうです。


2006年03月06日

小岩井農牧場天文台を訪ねました

 岩手県を訪れて3日目、昨夜は花巻の温泉に泊まりました。あたりが一面雪景色の露天風呂で、暗い空には星が輝きとても寒そうでしたが、不思議と空気が暖かいのはどうしてでしょう。誰もいない静かな湯に浸かって空を仰ぎ、かつて宮沢賢治もこうして同じ湯に浸かり星を眺め創作の思いを練ったのではないか、と思ったりしました。
 6日の午前中は酒井栄さんの車、菅原寿さんの解説で、義経最後の地と言われる平泉の名所を見物し、午後は花巻の賢治の記念館を見学しました。
 その後立ち寄った雫石町の小岩井農牧場では昔OAAの会員で、コメットブレテンも読んでいたと言う狐崎幸一さんらとお会いし、天文の施設も見学しました。長さが10mを越えるようなヘベリウス式の空気望遠鏡や、珍しくNikonの20cm屈折赤道義の完璧な姿に感動しました。日本でこれが健在なのは5基くらいでしょうか。見渡す限り白に染まった牧場、その遥か彼方に真っ白に輝く雄大な岩手山。そして伝統あるニコンの望遠鏡。それはこの岩手県のシンボルであり、どっしりとして、日本のよきものを見たような良い気分でした。
 元は講演の旅でしたが、地元の人たちの暖かい友情と美しく雄大な雪景色が、強い印象として、いつまでも心に残りました。

小岩井農牧場天文台の20cm望遠鏡の下で

2006年03月04日

水沢の天文ファンと交流しました

 奥州市水沢区での天文公演を終え、岩手県の多くの天文愛好家と懇親の機会を得ました。会を開催するにあたって地元の酒井栄氏や、元国立天文台の大江昌嗣先生に大変なお世話になりました。会場には学生よりも、一般の人々約250人が集まり、会の終わったあとに色々な熱心な天文のファンと交流することができました。
 池谷・関彗星の発見のことも語りましたが、特筆したいのは41年前にハバナ市の「ホセ・M・カレヨ」さんによって作曲された"Ikeya-Seki"の曲が、この会場で初めて演奏されたことです。パソコンによっておたまじゃくしを拾って演奏するという、極めてユニークなものでしたが、原曲のピアノの音が高らかとこの会場に響き渡り、太陽に大接近したあのときの彗星の面影を彷彿とさせました。そして講演する私の頭にも、彗星を語る思いもよらない発想が浮かび熱弁することができました。
 岩手県に滞在した3日間で人と交わした名刺はざっと30枚で、多くの人と会えて見聞を広めることができたのは大きな収穫でした。
 78年前、山崎正光技官が彗星を発見したのはこの水沢で、その資料は少ないですが、熱心な地元の方が保存していた文献に意外なものがありました。
 天文台構内で78年前山崎技官が捜索していたらしい場所に立つと一面の銀世界で、今は遠くなったが、遥かに霞む岩手山がその事実をしっかりと物語っているようでした。
 この夜の懇親会である古い地元の天文家が、山崎さんを語る意外な珍しいものを持ち出してきました。
 では、今日はこの辺で。明日は花巻の宿です。

地元の星の会の人々と懇親会
3月3日撮影


国立天文台の先生方を中心とする水沢区の人々と懇親会
3月4日撮影

2006年03月03日

木村記念館を見学しました

 永い間夢に描いていた旧・水沢の緯度観測所にやってきました。
Z項で有名な木村栄(きむらひさし)博士の活躍した古い建物や「木村記念館」も見学しました。酒井栄氏の案内、国立天文台の亀谷氏のご説明で、今の新しい施設の多くを見学しました。恒星の視差を測る巨大な電波望遠鏡が曇り空の中、宇宙に向って稼動している姿に時代の変遷を感じました。木村記念館には博士が就任当時使っていた古い机がそのまま残されていました。Z項発想はこの机に座っている時、何気なく引き出しを引き出したとき、その中から生まれたといいます。私も同じように座って引き出しを引いてみました。何もありません。そうです"Z"項には特別に理論はなく、XとYからなる観測式に、実験的にZという補正項をつけただけだったのです。それによって観測の結果が他と良く調和する事になったわけで、原理は簡単でも素晴らしい発見です。そして机の上には、木村博士が多くの観測式を最小自乗法で計算する時使用したという五つ球のソロバンが置かれていました。
当時天文台の技師だった山崎正光氏によると博士はソロバンの名人だったそうです。
 あれから80年! 全く同じに復元された清楚な部屋は緯度変化に徹した博士の象徴でもありました。天井の黄色い電灯に照らされた古い机に、何事も一筋に生きる事の大切さを学んだような気がしました。
[木村博士の机に座る関(木村記念館)]
木村博士の机に座る関(木村記念館)

2005年11月13日

ALMAに関連する天文の講演会が催されました。

 今日は予定どおり国立天文台から3人の講師が来られ、高知市大津の高知県教育センターでALMAに関連する天文の講演会が催されました。高知市を中心に非常に熱心な天文ファンが来られて、会は成功に終わりました。ただ高校生を中心とする学生が少なかったことは意外で、学生たちの科学離れの象徴か、今後一考を要する問題だと思いました。
 いつもこうした講演会が行われると意外な人に会うものです。20年ほど前に四日市市で講演会をもったとき30歳くらいのご婦人が後で小学生の子供を連れて控え室にやってきて「先生、お久し振りです。昔ギターを習っていたMです。今日は図らずもお目にかかれて嬉しく存知ます。」と挨拶されました。思い出しました。1966年、あのイケヤ・セキ彗星を発見したあと、”少年サンデー”が取材に来てノンフィクション作家の佐伯誠一氏等が取材したのですが、その時ギターレッスンをやっている風景の写真のモデルになってくれたのが当時女子大生の彼女でした。「先生は何にも言われなかったのですが、あの時私は密かにお慕い申し上げていました、、、、」と言う大胆な言葉はやはり人の親となった落ち着きでしょうか。芸西村出身という彼女はいつの日にか子供と天文台を見学したいと言っていました。
 そして今回の講演会も例外ではありませんでした。私の話が終ったとき、前の方に座っていた一人の紳士がつかつかと歩み出て、「関さん、片岡です。実に53年ぶりです」とおっしゃるのです。いただいた名刺の肩書きを見ると”越知町教育長”と書いてあります。同時に同町の博物館の館長も勤めておられます。思い出は一瞬1952年に遡りました。わたしがOAAに入会して観測を始めたばかりの頃、越知町の小学生で、精巧な天球儀を作り何かの催しで入選して高知新聞に大きく取り上げられたことがあります。その記事を見た私は感動のあまり彼に賞賛と激励の手紙を差し上げたのです。それから4年、私がクロムメリン彗星を発見して報道された時、それを見て中学生になった彼から逆に祝いの手紙をいただいたのでした。しかしその後、一回も会うチャンスが無く、遂に今回がはじめての面会となったのでした。彼は天文の道に進むことは無かったのですが、私からの激励の一本の手紙がきっと彼のその後に良い影響を与えたのではないかと思います。かって私も本田大先生から激励の手紙をいただいたことがあります。
 いまは若い人たちで携帯電話を使った便利なやり取りが盛んになって、手紙の文面に感動したり、或いは涙する事も無くなったのですが、私は今更のように一本の手紙の重さを痛感するのです。私の人生を変えたのも先輩からの一本の手紙でした。

片岡重敦(かたおか しげあつ)氏(左)とともに

2005年10月21日

 高知ではまだ暑い日

 高知ではまだ暑い日が続いています。太陽がやや南になりましたので、昨日は2階の書斎では28℃まで気温が上がり依然として冷房をやっていました。
 今日10月21日は40年前の今日「イケヤ・セキ彗星」が近日点を通過した日です。あの時も今日のような日本晴れで青空が光るような見事な晴天が続きました。

池谷・関彗星太陽大接近の日
1965年10月21日

彗星が太陽面に突入したのはこの日の正午過ぎでしたが、朝早くから多くのマスコミで私の家の庭や屋根の上はいっぱいになりました。恐らく浜松の池谷さんの所も同じような状態ではなかったかと思います。

当日、観測台の下に集まった人々
中央に池幸一氏。他はマスコミ関係。
1965年10月21日

 然し灼熱の太陽面にくっついた彗星をテレスコープで見ると言うのは大変危険なことで、そのため我々は観測が思うに任せず白昼の観測に失敗したわけです。然し実際にはその7時間ほど前に我々のメンバーの一人である土佐市の池 幸一氏が健在な同彗星の観測に山で成功していたのでした。この日の午前中には東京の上野や倉敷、そして一般の人で平地から太陽に接近中の「イケヤ・セキ彗星」の姿を確認した人がいました。それらは皆、肉眼で太陽のそばに見た訳で、上野のMさんはテレスコープ用のサングラスで太陽を覆いながらその影に観測した、と言っていました。このとき倉敷のHさんは写真撮影に成功し、彗星の明るさを”満月の数十倍する明るさだった”と言っておられました。勿論この位置に金星や月をもって来ても見えません。このときの池谷、関彗星はいったいマイナス何等星だったのだろう?9月の発見当初、スミソニアンが「今世紀最大の明るさ」と予言したことが当たっていた、と思いました。
 それにしてもフランスのリゴレ博士が発見の第一報の一回の観測を見ただけで、これが”クロイツ属”の彗星であって近日点を10月21日に通過することをを予言したのはお見事でした。この頃軌道計算はカニンガム氏が主にやっておりアメリカのM氏や日本のN氏の名はまだ出ていませんでした。観測はフラグスタフのローマー女史の全盛の時代でした。
 ここまで日記を書いてふと窓から北の空をみると九天に何か白いものが光っているのに気づきました。思えば40年前のあの日も青空に白い雪のような小さな物体が盛んに舞っていた事を思い出しました。そしてどこかの小学校で遅秋の運動会でもやっているのか盛んに行進曲らしい音楽が流れてきます。ホセ・カレヨさんの作曲した「コメット イケヤ・セキ」と言う音楽をふと連想して心の中で唄っていました。 「星は去り 時は過ぎ行く 人は去る、、」。

(クリックすると大きく表示されます)

「イケヤ・セキ彗星」の曲
ハバナ市在住のホセ・カレヨ氏作曲(1965年10月)

2005年03月25日

 月が明るくなって観

 月が明るくなって観測は暫くお休みです。
 滋賀県野洲市(旧・中主町)の苗村敬夫(なむらたかお)さんからお便りがあり、滋賀県の新聞に紹介された苗村さんの鏡研磨に関する新聞が送られてきました。現代の反射鏡研磨の名工として紹介されたもので、苗村さんのことは度々新聞他で紹介されています。文字どおり日本の第一人者としての貫禄がうかがえます。
 私の彗星発見は苗村さんの製作したレンズから始まりました。口径88ミリF7の対物レンズは見事な星像で、微弱な光の彗星を発見するにはいかにピントの良いレンズが必要なのかを痛感したのでした。1961年の「コメットSeki」から1965年の「イケヤ・セキ」までこのレンズを使用しましたが、いずれも極度にピントが良くないと見逃していただろう彗星ばかりでした。このレンズが苗村さんの第一号の対物レンズだったのですから驚きです。徳島県那賀川町の1メートル鏡も苗村さんの製作ですが、天文台開所記念観測会の時、私の88ミリレンズも出向いてドームの中で共に星を見たのもなつかしく、この日はまさに「苗村」だらけとなりました。
 苗村さんは新聞の記事によると、いま国立天文台の20cmを磨いているそうでプロからの信頼も厚いことを伺わせています。
 写真はオーストラリアの古豹ブラッドフィールドさんが芸西に見学にやってきて「イケヤ・セキ彗星」発見の88ミリコメットシーカーを見ている所で、鏡筒には発見した3つの彗星の年月日を記載しています。
 日本での反射鏡製作の起こりは19世紀始め頃の中村要(なかむらかなめ)氏でしょうか。日本ではこの中村-木辺-苗村という流れがしっかりした太い線となって今日に移ってきたものと思います。ただ京都の中村氏とほぼ同じころアメリカに留学していた山崎正光(やまさきまさみつ)氏がやはり反射鏡の製作法を習得し、1920年ごろ日本に帰って「反射望遠鏡の製造法」と言う本を出版しています。彼は20cmの反射式コメットシーカーを自作して1928年10月に「クロムメリン彗星」を発見したのですが、彼は弟子を取らなかったので、その研磨法は伝わりませんでした。ところが興味深く思うのは、山崎氏のコメットシーカーについていた20cmF7の鏡が、後名古屋の山田達雄氏を経てこれも鏡研磨の名手九州の星野次郎氏に渡ったのです。目的は再研磨だったのですが、パラボラ鏡の精度は球面程度だったという話が残っています。私は星野さんの鏡は持っていませんが、一度手に入れたいと思ったことがあります。然し星野さんは数年前に逝去されました。何時かの日、私の物干し天文台にあがってテレスコープを観ていた星野さんのことが偲ばれます。

イケヤ・セキ彗星を発見したコメットシーカーを
手にするブラッドフィールド氏
1991年3月

2004年12月05日

 発達した低気圧の通

 発達した低気圧の通過で4日の夜から台風並に吹き荒れました。しかし今日は一転して初冬らしい青空の好天に恵まれました。
 芸西の天文台は「高知竜馬空港」を発着したり、あるいは東京から九州方面に向かう飛行機の進路に位置していますから、天文台の上空は沢山の飛行機が飛びます。とくに高い空を短い飛行雲を引いて飛んでいる姿はホウキ星の形に似てハッとすることがあります。四国から夕暮れの九州上空に差し掛かったころの高空の飛行機は殆ど動かない状態で彗星のしっぽのような白い雲を漂わすものですから、太陽に接近したホウキ星を連想してしまうのです。
 この夕焼けに漂う小さな飛行雲が、まるで日周運動で天体が地平線に沈んで行くように極めてスローに移動していくのを見ているとき、私は今から50年以上も昔、彗星か流星痕かの怪しい天体として、日本天文研究会の神田茂(かんだしげる)氏に報告した事を思い出しました。と言うのも研究会の機関紙に同じ日、香川県での目撃談が出ており、私の見たものと大変似ていましたので、約1ヶ月遅れて報告した訳です。
 しかし今思えばその頃(1953年頃)には大変珍しかったジェット機の飛行雲ではなかったか?と思い、実に半世紀振りにそのナゾが解けた思いでした。当時この様な報告は案外沢山あった様に思います。当時は南北朝鮮の動乱が終ったばかりの頃で、ジェット機の旅客機は無く、おそらくアメリカの軍用機ではなかったかと思います。

 懐かしい写真が出てきました。1962年東京上野の科学博物館で行われた日本天文研究会の5月の例会で、向こう側の右端が神田茂会長で、左へ3人目の方が坂上務(さかのうえつとむ)氏、写っていませんが研究発表をしている人が大阪から参加した佐藤明達(さとうあきさと)氏だと思います。
 上野公園は春たけなわで百花爛漫の美しい光景でした。その中を闊歩する私は希望に満ちた32歳。そうです”セキ・ラインズ彗星”を発見したすぐ後でした。
[日本天文研究会例会の写真]
日本天文研究会の例会
右端に会長の神田茂氏。左へ3人目が坂上務氏
1962年5月

[長谷川一郎氏との写真]
長谷川一郎氏(右)と関
1962年5月 須磨にて

2004年11月30日

 今日で11月もおし

 今日で11月もおしまいです。昨日は薄明と明月のわずかに暗い谷間に星を求めて芸西に走りました。久し振りに西北天にまだ明るいC/2001 Q4 (NEAT)を観測しました。
 先日の25日芸西に来られていた望月征司さんからメールがあり、あれから梶が森の天文台をたずね、そして祖谷(いや)のかずら橋等を見物して帰ったそうです。望月さんは芸西の60cmを設計した人で、その望遠鏡で発見した星に”Mochizuki"と命名されています。そのお礼と今後の60cmのメンテなんかについて、県の人を交えての相談とアドヴァイスを与えに来られたのです。製作から20年以上が経過して老朽化し、また専用に使用していた命の6415テクニカルパンが発売中止となり、CCDへの移行を視野にいれての節目に来ています。芸西がこれから更なる発展をするのか、滅亡するのか、それは我々の努力にかかっています。望月さんが来台中に天文台は折からの秋の落日を迎えました。私は美しい入日を眺めながら、天文台が落日でないことを祈りました。その異常な美しさには、未来への希望が感じられました。
[望月氏との記念写真]
望月氏(右)と共に60cm反射の下で

[芸西天文台と落日の写真]
芸西天文台と落日

2004年11月15日

 秋らしい快晴の暖か

 秋らしい快晴の暖かい朝、高知市の南に聳え立つ鷲尾山(300m)に登りました。
 頂上からの眺めは素晴らしく、遥か北に四国中央山地の山々を、そして南の眼下に高知市の海の玄関、浦戸湾を眺めることができます。しかしそんな事より私にとって忘れられないのは、1962年の「セキ・ラインズ彗星」を追っかけた山で、もうあれから42年になります。
 私の立っているところに昔、鳥居があって、高校生の頃初めて試作した小さな屈折望遠鏡で自宅からテストに眺めたことでした。そして夜には庭の片隅で木星を見たりして、独り歓声を上げていた新前だったのですが、その頃、秋冷の夜空には”ホンダ彗星”が輝いていたのでした。一少年の小さな手紙を取り上げて返事を書いてくださった本田さんの暖かいお心は今も忘れません。
 さて鷲尾山の頂上からから東に下って途中道に迷い猪が出没するという深い雑木林の中で小休憩をとりました。木立の間から北の高い石鎚連峰の峰が輝いています。このとき私はふと室生犀生の「どのような低い山にも深山はある、、、。」という詩を思い出していました。犀生は雑草に覆われた低い山で、遠くに聳える大山を眺めながら独り女性のことを考えましたが、私は同じ”低い深山”でホウキ星の事を考えつづけました。
 昔はどのような寂しい山道でも、あるいは繁華な雑踏を歩いているときでも彗星を発見するかについて考えつづけました。その心はいまも少しも変わっていない様です。結局今日は5時間ほど費やして15kmを歩きました。
 そして夜は芸西の天文台へ。


鷲尾山頂上から浦戸湾を見る


鷲尾山の頂上にて

2004年09月19日

 9月1

 9月18日、天文台で一般への公開があって、大庭講師と二人で担当しました。来台者は高知市の小学校の生徒40名とその父兄や先生で講義室は満員にふくれあがりました。天候は今一つで星が見え隠れしましたが、曇っているあいだ、丁度39年前の今日のことを、傍らにおいてある9cmコメットシーカーを見せながら、お話しました。

芸西天文台公開風景
2004年9月18日

 そうです、台風24号のやって来た”イケヤ・セキ彗星”発見の前夜のことです。あの時、もし台風襲来!と言うことで寝ていたら、私の人生はまた変わっていたかも知れません。ちょっとした出逢いによって、その人の運命は大きく変わることがありますが、あのとき台風下の日本列島で悪天の中、観測の準備をしていた人が二人いたわけです。まさに運命の奇遇とでも申しましょうか。
 
発見した場所で撮った池谷・関彗星
1965年11月4日撮影


彗星太陽大接近の日、観測の準備をする池幸一氏(左)と関(中央)
1965年10月21日撮影

 今日9月19日はマスターズの水泳全国大会があって、私は50mと100mの平泳ぎに出ました。その会場で二人の人から「今朝NHKのラジオでやっていましたね」と言われました。実はその約1ヶ月後の10月21日はイケヤ・セキ彗星の太陽接近の日で、こちらの方がもっと大きいニュースになったのですが、それはやりません。なぜなら昭和19年の同じ10月21日、神宮外苑における学徒出陣式という大きな出来事があったからです。
 ところが昔あの古橋選手と競泳をやったというその人は、あのとき小雨のそぼ降る神宮のスタンドにいて東条主席の演説を聞きながら、出陣学徒を見送ったといいます。あれからもう60年!その往年の名選手は今も現役で泳いでいることに深い感銘をおぼえました。ニュース映画で見たあの時のシーンは今も深い悲しみをもって甦ります。あの時集まった数千の学徒達はその I さんによると、殆どの方が沖縄の戦線で玉砕されたそうです。
 確率は低いと思いますが、晴れたらクロイツ群のコースを捜索してみましょうか。あの時の9cmの苗村レンズは今もあの時と同じ光沢を保っています。
 そして心の光沢は? こちらが大事!