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2009年08月31日

あのころの自分のこと

 夏が終わりに近づく頃になると、決まって終戦の年の思い出が湧いて来ます。1945年の終戦の年の夏は抜群にお天気の良い日が続き、雨に降られた記憶が不思議と無いのです。7月4日の高知市大空襲の日から父の故郷である朝倉の米田に疎開した私は、ここから学校に通わず、関東軍の指揮下で軍事作業に従事していたのです。軍事作業と言っても遊び盛りの中学生ですから、暇さえあれば友人たちと遊ぶのに夢中でした。疎開先の家から作業の現場までの数キロの道のりは美しい青田あり清冽な水の川あり、田園の上に舞う無数のトンボありで、今から思うと夢のような楽園でした。あるときには作業をさぼって友人と川で泳いだり魚を取ったりしました。時勢は緊迫した戦時下でも私たち子供の世界には楽しい”遊ぶ”という特権の世界がありました。広島に原爆投下のニュースを聞いたのも、そうした遊びの中でした。大人たちが真剣に受け止めた大事件も子供たちには、それほど深刻ではなかったようです。しかし当時の高知新聞には「ピカリ!危ない物影へ」という大きな見出しで、その新型爆弾の恐ろしさを報じていました。

 あの日から60年以上経って、ふと故郷への道を訪ねてみました。しかしその姿は変貌し、妖怪が出る、と言われた山の麓には高速道が走り、親戚の家のあったほとりには巨大な変電所やマーケットが出来たりして、昔の面影はありませんでした。父の古里も、夏には鬼蛍が無数に居た山麓の小川も、ギイギイと音を立てて回る水車も姿がありませんでした。しかし父と良く通った鏡川の土手の傍らに昔ながらの地蔵様がそのまま残っていて、長い時代の変貌を静かに見詰めているようでした。


ふるさとの家に通う路傍の地蔵様

 そして鏡川の水は昔のままの美しさを讃えているようで、僅かな慰めとなりました。
 秋の神祭のあった帰り道、父がオリオン星座の”三ツ星”を指差し教えてくれたのもこの地蔵様の側でした。赤鬼山の上に輝くオリオン星座の美しさ、というより物凄さは今でもはっきりと眼底に焼きついています。その頃小学校では2~3年生でしたでしょうか、受け持ちの岡本啓先生のお話に惹かれ、自然科学に興味を持つようになった矢先でした。
 「小国民新聞」に突如出た肉眼的な”カニンガム彗星”や”岡林・本田彗星”のニュースを、ただ漠然と見ていた一少年ですが、まさかその天文の世界に身を投じようとは、夢にも思わないその頃の自分でした。


鏡川のほとりの故郷の田園風景

2009年08月15日

清らかな夏の花

 8月15日は終戦の日です。
 今日も庭には青い美しい花が咲いていました。強烈な夏の太陽に照らされて、夕方には力尽きたように赤くなってしぼみますが、明くる朝には必ず咲き誇ります。力強い花です。大都会で生活するある少女が手紙の中で、
 「朝の清らかな空気の中でしか咲かない朝顔の花をいじらしく思います。紫の花びらを見ているとき、私は紀州の故郷の海の色を連想しました、、、」
と書いてきました。
 確かに紫の花はいろんなことを想像させます。私は1945年の終戦の年に、学徒動員で暮らした頃の、土佐の空の色を連想しました。確かに「青い空と蒼い海」というのが、ここ土佐のシンボルであり観光宣伝のうたい文句になっていました。
 その年の6月、高知市の東のはずれの稲生(いなぶ)で軍事作業していた私たち大勢の学生の頭上に白昼金星が見え、「スワ、敵機か?!」ということで、大騒ぎしたのも、空が青黒く澄んでいたので、太陽のすぐ東に発見出来たのでした。無論このとき金星だとは誰も気が付きませんでした。
 7月4日の高知市大空襲のあとは朝倉の米田に疎開して、そこでも学校には通わず、近くの荒倉山(あらくらやま)というところで、関東軍と共に軍事作業に従事しました。軍のトラックに乗って高知市を縦断して東のはずれの比島山で作業しました。車上から見る市街は焼け落ちてまるで荒れ果てた砂漠のようでした。その殺風景な焦土の中で、国宝高知城と城東中学校(現、大手前高等学校)のビルだけが焼け残って、夏の日に威厳をたたえているように光っていました。
 終戦の報せはこの比島山の上で聞きました。誰かが下の民家のラジオからの”玉音放送”を聴き、大声で報せてきたのです。その場所は奇しくも江戸時代の天文学者、川谷薊山(かわたにけいざん)が日食を観測した場所でした。即ち宝暦11年、江戸幕府の天文方の発表した暦に日食が抜かっていることに気付き、幕府の天文方と論争の末に、その年の9月1日、実際に自分の計算が正しかったことを証明したのでした。
 この日、作業が終わって、私たちは、ただ茫然として焦土の中を歩いて朝倉に帰りました。”神国”と言われた日本の敗戦のショックが余りにも大きかったのです。私の歩く焦土の空は灰色にくすぶっていました。実際私たちの前途には何の希望も光明もありませんでした。しかし、この暗黒の時代に、やがて天文との接点が時々刻々迫って来ているのでした。それはまさに運命的な出逢いとなるのでした。


庭に咲く青い花