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2010年09月25日

また月下美人が咲きました

 庭の鉢で月下美人の花が咲きました。
 いつも満月に近い明月の深夜に咲くので注意しておりましたら、今月も仲秋名月の夜に見事に咲きました。咲くのは早く、宵のうちはまだ蕾の状態でしたが、月が高くなる深夜に、まるでスローモーション映画を見るがごとくアッと言う間に全開となりました。咲いたのは、誰も見ていない深夜のたった5時間くらいです。なんと神秘的な花でしょうか。
 いま新しい蕾が5輪あります。果たして次の満月と呼応して咲くのでしょうか、興味津々です。


名月輝く夜に


明月と呼応して深夜開いた月下美


その5時間後、再び蕾となって消える

2010年09月19日

OAA松江大会に参加して

 松江市でのOAA大会に参加しました。
 参加者はそれほど多くはありませんでしたが、熱心な方々ばかりで、かつ地元会員や「松江星の会」の協力でスムーズに、つつがなく行われました。総会での承認事項も多少の質疑があったものの、無事承認されました。研究発表も西播磨天文台の黒田武彦氏をはじめ5名の方々によって熱心に発表や質疑が行われました。また地元の藤岡大拙氏による「出雲」の歴史やその魅力についてのユニークな講話があり、また「美保の関隕石」の拾得者の松本さんもやってきて、隕石落下の話や、その後のそれによる人生の変化についても興味ある話題を提供してくださいました。私も翌日の講演の中でそれを引用し、彗星との出会いによって、自分の人生が大きく変わったことを話しました。この9月19日は奇しくも45年前の"池谷・関彗星"の発見記念日でした。同じ日曜日でした。演題は「クロイツ属彗星発見の日」、あのとき腕に付けていた手巻きの腕時計は今も回り続け、そのかすかな秒音は忘れかけたあの日の感激を思い出させてくれました。


総会で会長就任の挨拶をする関勉

 表彰式の賞状の授与では板垣公一さんの星の数の多いのには驚きました。なんと1年間に16個ありました。このほか坪井正紀さんは超新星2個、また西村栄男さんには新星4個の発見を表彰いたしました。西村さんは私の家を個人的に訪ねてきたことがあるとのことでした。
 前会長の長谷川一郎氏には「東亜天文学会賞」を授与し、また初対面の九州の松本直弥氏には「山本一清東亜天文学会学術奨励賞」を授与いたしました。人を表彰することは美しいことです。会の成功をたたえた地元の方々の努力も素晴らしかったし、周辺の景色も美しいし。良いことばかしの思い出に残る会でした。

 初日は終了後、会場を近くの宍道湖畔に移し懇親会を行いました。ガラス張りのレストラン1階は広大な湖が丸見えで、折から湖上に落ちていく赤い夕日は絶景でした。たくさんの観光客が砂浜に整列して、この珍しい景観を眺めていました。土佐の太平洋の荒海では「だるま太陽」が見られるところですが、静かな湖面では丸い太陽がそのまま欠けて沈んでいきました。


宍道湖の湖畔に出て落日を楽しむ

 特別参加の静岡県の女性5名によるコーラスも聞かれ楽しい会合でした。
 次回は東京です。OAAの、これからの発展期待。特に若い人々に魅力のある会に育てたいとの私の挨拶で閉会しました。
 帰りの伯備線では黒田氏、松本氏、船田氏夫妻、藪氏夫妻が一緒でした。折から窓外にはあの名山「大山」が、OAAの未来を占うごとく悠然と聳えていました。


OAA松江総会での記念写真

2010年09月18日

ドノホーメダルの輝き

 去る8月には再び岩手県の水沢を訪ねました。小惑星「平泉」誕生の記念行事があり、地元の知事も参加してのパネルディスカッションが行われました。
 この時、国立天文台(元、緯度観測所)で"ドノホーメダル"を見せてもらいました。このメダルは今から遠く80年の昔、ここに勤めていた山崎正光氏が彗星を発見した時、アメリカの太平洋天文学会から授与されたもので、いまだメダルの光沢は衰えていませんでした。彗星は、のち"クロムメリン彗星"と改められましたが、山崎氏発見の業績はメダルの輝く限り後世に語り次がれることでしょう。このメダルは次男の山崎明氏が岩手県に寄付されたものですが、私はいまから56年の昔、山崎氏の高知県佐川町の自宅で見たことがあります。実に半世紀以上もたって、再び対面することとなったのでした。
 問題のクロムメリン彗星は、28年の周期彗星ですから、1956年に回帰し、私は山崎さんとの約束通りに1956年に独立発見しました。そしてさらに28年後の1984年にも回帰し、今度は芸西天文台の60cm反射望遠鏡で観測しました。
 クロムメリン彗星は、次は2011年(来年)か、2012年に回帰します。山崎氏の業績は、また話題になることでしょう。


1928年、アメリカ太平洋天文学会から送られた「ドノホーメダル」


[クロムメリン彗星]
クロムメリン彗星

2010年09月10日

池・ネオファックスカメラの怪

 去る7月、小惑星「姫路」命名に関して姫路市に行ったとき、西播磨天文台台長、黒田武彦氏のご好意で、同天文台を見学しました。メインは口径2mの大反射鏡で、見た時、一瞬ハワイのすばる望遠鏡のイメージが浮かんできました。それもそのはず、この反射望遠鏡はすばるを作った三菱電機製で、なんと青い塗料も、すばるを塗装したときの残りのペイントを使ったそうです。数名の台員がパソコンの画面と取り組み、遠い銀河宇宙の研究に没頭している様子でした。
 この天文台には、ほかに大小の施設が点在し、その中に特殊な明るいレンズの広角カメラが、小さなドームに入っていました。一見したとき驚きました。それは35年の昔、土佐市の池幸一(いけ こういち)氏が自慢して持っていた「池・ネオファックスカメラ」だったのです。池・ネオファックスカメラとは池氏が資金を出して、京都の光学の専門家、小林義生氏が設計し、木辺氏が研磨したというマクストフ系の特殊カメラで、Fが1.4とか2.0とか言う明るさが特長でした。池氏はこれに多額の費用をかけて完成し、高知県土佐市の繁華な自宅屋上にすえたのでした。目標は彗星の探索でしたが、一発の成果も挙がらないまま数年で幕を閉じました。
 どのような理由があったか分かりませんが、その時岐阜県からSと名乗る男が機械の回収にやってきて持っていったのです。それ以来30年以上の長きにわたって消息を絶っていたのでした。この奇妙な特殊カメラは聞くところによると3台ほど作られたと言いますから、あるいはこれは別物であったかも知れませんが、天文台の係員は、確かに「イケ、ネオファックスカメラ」と呼んでいました。
 当の池幸一氏は、いま千葉県でご隠居の生活ですが、これを見て、一体どのように思われるのでしょうか。1973年の桂浜での彗星会議(第2回目)に、この構想を披露して一演説持った池氏ですが、いまは兵どもの夢の跡、となったのでした。


池・ネオファックスカメラ

2010年09月05日

懐かしい望遠鏡との対面

 多少古い話しになってしまいましたが、去る7月、講演のために姫路科学館を訪ねました。それは小惑星「姫路」が誕生したことを記念する講演会でしたが、会場の片隅に、口径22cmの反射鏡の筒が飾られていました。
 これは私が、芸西天文台発足当初の1973年から使っていたものを当館の小関高明氏(高知県土佐市出身)に遠い昔に譲り渡したもので、鏡は小島鏡の傑作です。写真は実に35年ぶりの対面です。
 懐かしい思い出は、この小さな反射鏡で、私の記念すべき最初の周期彗星を検出したことです。その名は「フィンレー彗星」。そう、忘れもしません。天文台がまだ個人の小屋の時代の1974年6月のことです。明け方の近日点近くにあって、低く行動していた、同彗星を狙って、足しげく通いました。6月入梅前の好天を利用して捜索しました。22cmという、周期彗星検出には異例の小さな筒を駆使して、しかもコダック社の天文用ガラス乾板を使い、そのコース上を何枚かの写真に収めました。その頃、アメリカではローマー女史の全盛で、日本では故、冨田弘一郎氏が堂平の90cm反射鏡を駆使して、次つぎに暗い周期彗星の発見に勤めていた矢先でした。
 それはこの世界での突然のアマチュアの台頭です。この藪から棒の発見に当の冨田氏はもとより、スミソニアンのマースデン氏が驚いたに違いない。
 筒はその後、間もなく同じ小島氏の40cm鏡へと進み、更に多くの彗星検出と発展していくのでした。その頃の私のモットーとすることに、口径は小さくとも、それで出来る最大の仕事をしよう、ということでした。そのことはコメットシーカーでも生かされ、口径88mmのレンズで新彗星3個の発見に成功したのでした。「イケヤ・セキ彗星」は、その中の1つです。


1973年から使っていた22cm反射望遠鏡と対面
姫路科学館にて
2010年7月11日