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2003年11月の日記

● 11月30日 【日曜市(2)】
 先日高知城下の日曜市で古いレンズを見つけ、それで撮影した秋の星空を紹介しましたが、それから1ヶ月後、”銀ブラ”ならぬ”日曜市ブラ”をやっていたところ、ふと古い道具類を並べてあるテントの中に奇妙な物を発見しました。
 古い伝統を誇る日曜市は妙なところで、農家から持ち出してくる新鮮な野菜類や食品の他に鉢や古道具類なんかも目に付くのですが、今でこそ少なくなりましたが、昔は本当にそうかと疑われるような珍品もたくさん並べられてありました。例えば船の大きなハンドルに真鍮製のスクリュー。日露戦争のとき日本軍が旅順を責めたときの砲弾や乃木将軍が水師営で敵将のステッセルと会見したとき、ステッセルの冠っていた帽子に乃木が晩年に愛用した尺八とか。なんぼ言ってもそれはおかしいと思われるような品物がまじめな顔をして店先に並べられてあったものです。それがまたとんでもなく安かったりして.....。
 そして市場をぶらついているとき、思いもよらぬ古い同級生に出逢ったりして懐かしい話がはずむのも日曜市ならではの風景です。
 それでは私が見つけた奇妙な道具とはなんだったのか?話は一気に今から半世紀も昔にさかのぼらなくてはなりません。

日曜市の風景
(遠くに高知城が見える)


前時代的な品も次第に影が薄れてきた


盛んなのは野菜に植木


市場の片隅に即席のバーが
(生ビール1杯500円の看板)

● 11月24日 【日曜市の拾い物】
 暑かった秋もようやく去り始め、これから本格的な冬に向かって気温が下がり始めました。それでも天文台のドームの中は、夜でも摂氏10度を下がることなくやりやすい観測です。
 いつか城下の日曜市で見つけた2000円也の古いレンズで秋の星空を撮ってみました。往年の名玉であったはずで、広角の隅まで気持ちよい星像を見せてくれました。いったい誰が使っていたのか。そのうちこのレンズが世紀の大彗星を写す日が来るかもしれません。

2002年10月25日 午前3時
タクマー 24mm F3.5
TM400フィルムにて30分間の露出
● 11月20日
 芸西天文台の60cm反射鏡を設計した八王子の望月征司さん(元・五藤光学)から便りがありました。氏の名前は小惑星(21089)として命名すべくIAUに出してあるのですが、それを記念して八ヶ岳南麓に天文台を建設したそうです。写真は2.3mのドームに入った口径25cmのシュミットカセグレン(ミード製)で自動導入システムになっています。望月さんは自分が設計した芸西の60cm反射赤道儀に多大の愛着を持っておられ、それで発見した星に設計者の名が付くことに意義を感じます。お互いに祈ることは、この60cmが末永く天体発見や教育のために活用されることです。
 1984年9月に芸西でハレー彗星の国内最初の観測に成功したとき「高知県に贈った甲斐がありました」と顔をほころばせていた五藤斉三氏の言葉が思い出されます。

望月征司さんの望遠鏡

● 11月18日 【蜃気楼(1)】
 私が幼い頃祖父から蜃気楼を見せてもらったことがあります。上町2丁目の屋上から西方に、馬に乗った騎兵たちが盛んに練兵場のような広場で走り回っている風景です。それは夢だったのか現実だったのかはっきりしませんが、その後、高知市周辺では本当に蜃気楼が見えるということで観光バスの案内でも正式に言う様になったほどです。
 ところが先日、老人大学の集会に招かれて「宇宙の謎」と題して火星を中心に講演をしたところ後で大久保さんというご婦人がやってきて、紀南の串本で海の上に蜃気楼らしきものを見たというのです。即ち10月17日の夜明け前、ホテルを出て大島の見える海岸に出て日の出を待っていたところ、南の海に浮かぶ奇妙な形をした大島に似た島かげがまだほの暗い空中に映って見えたというのです。その蜃気楼らしい影は日の出までの30分近く低空に浮かんで見え続けたそうです。いったい、これは何だったのだろうか?
 このとき私は気がつかなかったのですが、後で1枚の海を写した写真を見ている時、ハッとしました。「こんなことだったのか!」と謎は案外たやすく解けた気がしました。

● 11月7日
 11月に入ってからも毎日9月のような気温の高い日が続いています。北の空には夏名残の入道雲が湧いていて、天文台へ通う車の中で冷房をかける夜もありました。
 18日のしし座流星群の日が近づき、その頃にはもしかすると南で発見された C/2003 T3(Tabur) が夕空の海の上に顔を見せるかもしれません。
 写真は自宅の窓から見た西北の空です。
[自宅からの風景]



Copyright (C) 2003 Tsutomu Seki. (関勉)