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星雑草 <気まぐれ日記>


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今月の日記
● 2月24日
 春爛漫とは行きませんが、あちこちに春の花が咲き始めて良い季節となりました。今日は家から西に7キロほど歩いて塚ノ原の理髪店に行きました。歩いてみると案外早く着きしかも運動になっていいですね。
 昔、芸西までの37kmを片道3時間で自転車で通いましたが、今度は歩いてみましょうか。
 古い町中を歩いていると迷路の巷に入ったりして、普段見ることのない珍しい風景に接することがあります。小学生の頃、遠足に行った旭天神町の水源地付近で人家の庭にそっと咲いた白い花に見惚れていると、誰が弾くのか、ギターであのバッハのバイオリンパルティータの中の「フーガ」を弾いているのです。有名な「シャコンヌ」と共に永遠の憧れの名曲であり難曲だと思っていたのに、一体誰がこのような廃墟のような古い住宅街であの名曲を弾いているのか?
 映画「第三の男」の全音楽を担当した無名のチター奏者アントン・カラーのような人がこの下町の中に密かに住んでいるのでしょうか。A・セゴヴィアのように全世界を股にかけて活躍しなくても、人知れずここに名手あり、というのも価値高くていいですね。案外世界にはそうした葉隠れの名がたくさんいるのではないでしょうか。

 さてお天気が悪く、これからは春めいてくると高知では滅多に晴れません。C/2006 A1 (Pojmanski) が朝方見え出したようですが、ドームを持つ大形のテレスコープはドームのレールの高さの関係でいくらでも低空には向きません。昔の堂平や木曾では10度〜15度以下が隠されて、それより下は観測不能。芸西は5度まで向きますが、それ以下になるとモーターが自動的に停止します。それにあまりに低空は観測の精度が上がりませんのでプロは嫌うようです。今回は軌道も比較的落ち着いていますので、もう少し上がるのを待ちましょう。
 73P/Schwassmann-Wachmann 3のC核は2月24日には少し明るくなり(14.5等?)尾が確かに伸びてきたようです。
 他の核はまだ断然暗いようですね。
● 2月10日
  講演会で佐川町(さかわちょう)の長寿大学に行ってきました。最近は65歳以上のお年よりが多くなって、県下にこうした生涯学習の団体が実に多くなりました。そして毎年年度末に集中することが多く、この2月は3件あります。そして面白いことにご婦人が断然多く、いつも100人内外集まるのですが、男性は1割いるかいないかです。そして質問に立つのも殆どがご婦人です。帰りに公民館に立ち寄るとそこの物置に山崎正光(やまさきまさみつ)さんの使っていた20cmコメットシーカーを模した経緯台がおかれていました。そうです、この佐川町は日本でもっとも早く彗星を発見した山崎さんの郷里だったのです。公民館にある小高い山から彼の家のある九段田、日野地地区がかすんでみえていました。むかしは星の美しい里でしたが今では多くの建物が出来てその山麓の塵煙にかすんでいました。望遠鏡を作ったのは山崎記念天文台のメンバーですが、いまはその会は存続しているのか。公民館の人の話では見学の申し込みがあれば天文台を公開しているという事でした。どうやらハレー彗星接近の頃をピークとして熱は衰退して行っているように思いました。天文台は腕の立つ使い手がいないとどうしても衰退します。公民館の中に土地の生んだ偉人のポスターが掲げられていました。小説の森下雨森(もりしたうそん)に声楽家の下八川圭介(しもやかわけいすけ)、植物学者の牧野冨太郎(まきのとみたろう)に維新の英雄、そして政治家と、多くの偉人を生んだ町ですが、山崎正光さんの写真は見つかりませんでした。山崎さんが水沢の木村栄(きむらひさし)氏のもとで緯度変化の研究を行ったのは1920年代で、そのころ人目を避けるように20cmの独特の形をしたコメットシーカーを自作したようです。今も古い建物は残っているそうですが、いつの日にかこの場所を訪ねてみたいと思っています。
[池谷・関彗星4点セットの写真]
池谷・関彗星4点セット
(1)発見のテレスコープ、(2)その時の時計
(3)ノルトン星図、(4)最初に撮影したオリンパスペン5
● 2月1日
 僅かな早春の光のある街中を歩きました。高知は冬は結構寒い日もあるのですが、春先は断然早いのです。気温は低くても、太陽の輝きはもう早春です。
 市内で一番繁華な帯屋町(おびやまち)を西に向っていると、昔の大名屋敷を思わせるいかめしい門の前に来ました。古い門に大きい門札がかかっていて「五藤」とあります。北を見ると土佐24万石の山内一豊(やまうちかずとよ)公の居城がこちらを見下ろしています。
 一豊はある戦場で敵の矢に打たれ、それを介抱したのが五藤という家来でした。有名な話で、そのときの矢尻や部下の履いていたわらじは今でも残っていて、安芸(あき)市の「歴史民族資料館」に保存されています。そうです、ここの五藤家はその子孫であられたのです。ここには大名屋敷風な長い土塀があったのですが、今は取り壊されて書店になっています。門の中に静かな築山があって古い時代の風情を残しているようでした。
 安芸市土居の出身で高知県に60cm反射望遠鏡を贈った五藤斉三(ごとうせいぞう)氏は、この五藤家の分家の人で、安芸城のある公園の中に古いゆかりの家が残されています。五藤さんと天文台の予定地を探してこの付近を歩いたことが、つい昨日のことのように思いだされます。私が今も60cmを守り続けるのも、彼の好意を無駄にしないためです。五藤さんが、出身地としての高知県に贈った数々の天文施設で、現役で動いているのは芸西天文台だけです。


五藤家の門


高知城と追手門


山内一豊(関ヶ原での戦い)

● 11月18日
 いま高知県文学館で「天文と暦」という催しをやっていますので見てきました。江戸時代の天体望遠鏡と渾天儀(こんてんぎ)、それに当時の暦に関する日記のような資料が展示しされていました。
 説明には、天体望遠鏡は作者不明とありましたが、これは今から200年ほど前のドイツのシュナイダー社の作品で同時に有名なフランホワーの刻印もあり、両者の合作とも考えられます。スタイルは地上用の様にも見えますが、アメリカサイズのアイピースやサングラスも付いている事は立派な天体用です。恐らく山内容堂(やまうち ようどう)公の時代に、先見の明を誇った殿様や侍が使ったものでしょう。
 この望遠鏡で実際に星を見たらどのように見えるでしょうか? 誰しも大変な興味を抱くことでしょう。ところが実際に覗いた男がいたのです!そして事もあろうに、その望遠鏡を密かにお蔵から持ち出して、あの大ハレー彗星を観測したのです。それは一体誰なのか、そして1986年のハレーはどのようなイメージでこの山内家秘蔵のレンズに写ったのか。後にも先にもこれでハレー彗星を見るなんて皆無のことでしょう。その話はまたいつかこのページでお話しましょう。
 さて渾天儀に移りましょう。これは1760年頃の土佐の暦学者「川谷薊山(かわたに けいざん)」の作品です。真鍮を使って実に美しく見事にできています。当時はこうした機械で天測が行なわれていたのでしょう。そしてあの日食予報の元となったのかもしれません。即ち宝暦12年、薊山はその年幕府が発表した暦に9月1日の日食がもれている、と主張したのです。しかし幕府の天文方は反論し話題となりました。
 薊山の計算は正しかったのです。かれは宝暦12年9月1日の正午、高知市の比島山で実際に日食の起こるのを確認し、会心の笑みを浮かべたのです。
 それから150年余りたった1945年8月15日(終戦の日)私は比島山に立っていました。山の頂上に無人の神社があって沢山の絵馬が掛けられていました。その中にどうも普通の風景とは異なる模様の分からない絵が掛けられていました。今思うとどうも日食を描いたものではなかったか、と思ったりするのですが、わかりません。裏の暗い洞穴の入り口に、古い石碑が立っていたのですが、もしかすると日食観測地を記念した碑であったかもしれません。比島山はその後山崩れの災害を起こしてすべて姿を消しました。
 土佐には薊山の先輩に谷秦山のような天文暦学者も輩出しており、日本でも早くから天文学が発展したのですがそれは昔のこと。今では科学に関してはもっとも遅れたお国となってしまいました。


川谷薊山の作った渾天儀(山内家所蔵)


口径80mm屈折望遠鏡(山内家所蔵)


● 11月13日
 今日は予定どおり国立天文台から3人の講師が来られ、高知市大津の高知県教育センターでALMAに関連する天文の講演会が催されました。高知市を中心に非常に熱心な天文ファンが来られて、会は成功に終わりました。ただ高校生を中心とする学生が少なかったことは意外で、学生たちの科学離れの象徴か、今後一考を要する問題だと思いました。
 いつもこうした講演会が行われると意外な人に会うものです。20年ほど前に四日市市で講演会をもったとき30歳くらいのご婦人が後で小学生の子供を連れて控え室にやってきて「先生、お久し振りです。昔ギターを習っていたMです。今日は図らずもお目にかかれて嬉しく存知ます。」と挨拶されました。思い出しました。1966年、あのイケヤ・セキ彗星を発見したあと、”少年サンデー”が取材に来てノンフィクション作家の佐伯誠一氏等が取材したのですが、その時ギターレッスンをやっている風景の写真のモデルになってくれたのが当時女子大生の彼女でした。「先生は何にも言われなかったのですが、あの時私は密かにお慕い申し上げていました、、、、」と言う大胆な言葉はやはり人の親となった落ち着きでしょうか。芸西村出身という彼女はいつの日にか子供と天文台を見学したいと言っていました。
 そして今回の講演会も例外ではありませんでした。私の話が終ったとき、前の方に座っていた一人の紳士がつかつかと歩み出て、「関さん、片岡です。実に53年ぶりです」とおっしゃるのです。いただいた名刺の肩書きを見ると”越知町教育長”と書いてあります。同時に同町の博物館の館長も勤めておられます。思い出は一瞬1952年に遡りました。わたしがOAAに入会して観測を始めたばかりの頃、越知町の小学生で、精巧な天球儀を作り何かの催しで入選して高知新聞に大きく取り上げられたことがあります。その記事を見た私は感動のあまり彼に賞賛と激励の手紙を差し上げたのです。それから4年、私がクロムメリン彗星を発見して報道された時、それを見て中学生になった彼から逆に祝いの手紙をいただいたのでした。しかしその後、一回も会うチャンスが無く、遂に今回がはじめての面会となったのでした。彼は天文の道に進むことは無かったのですが、私からの激励の一本の手紙がきっと彼のその後に良い影響を与えたのではないかと思います。かって私も本田大先生から激励の手紙をいただいたことがあります。
 いまは若い人たちで携帯電話を使った便利なやり取りが盛んになって、手紙の文面に感動したり、或いは涙する事も無くなったのですが、私は今更のように一本の手紙の重さを痛感するのです。私の人生を変えたのも先輩からの一本の手紙でした。


片岡重敦(かたおか しげあつ)氏(左)とともに


● 11月7日
 いま芸西の天文台は「火星観測週間」で連日沢山の観測者で賑わっています。今日も良く晴れ安芸(Aki)市の赤野(Akano)小学校の生徒と引率の先生でドームの中は割れんばかりでした。半月前の月が輝いていましたが空気は良く澄んで美しい星空が展開されました。
 21時前に公開が終って60cm反射望遠鏡と21cmのイプシロンを使っての例によっての二刀流の観測を始めました。2つの観測所は約30m離れており、この両者を20回ほど往復しました。無論写真観測ですが、60cmは自動ガイドが良いので大いに助かります。実際15分放っておいても1″もずれないことが多く、その間に21cmを弄くったり、或いは眼視捜索するゆとりがあるのです。
 60cmは今夜P/2005 U1をはじめ、最近発見された19〜20等クラスの微光彗星も狙いましたが、写ったかどうか。夕方の5時に来て朝まで頑張ると流石つかれます。最後は夜明け前の東天を捜索しました。片方では21cmの反射が露出中です。
 タイムを気にしながらしし座付近を見ました。4時半ごろしし座の南の端にNGC3521を引っ掛けました。これは1961fを発見した頃からおなじみでしたが、確かに古い記憶にありました。(私の頭の中の星図帖)。練習に、と思って久し振りに視野のスケッチをやってみました。なかなか難しいですね。あとで星図と同定するために、星図とのスケールを同じにしておくと便利だと思いました。たとえば1度が2cmの星図ならニコンの12cmは3度の視野ですから円の直径は6cmになります。長い間の極道でこのよう初歩的なことまで忘れかけていました。
 暇さえあれば白地のノートを買ってきてコンパスで丸を描いています。おかげげ観測台の机の上も引き出しの中も”丸”だらけです。それを見るたびに捜索への執念は色褪せていないことを感じます。大きい60cmを操りながらも「私はコメットハンターなのだ」と言う意識を自覚しているのです。

● 11月3日
 毎年高い確率で晴れることの多い今日、文化の日が珍しく曇天となり細かい雨さえ降りました。
 10月の終わりごろから盛んに流星が活動していたのですが、これはエンケ彗星に伴う「おうし座流星群」でしょうか。1950年代に火球が恐ろしいほど飛んだ記憶がありますが、あれは山本一清氏の始められた第2回目の彗星会議が高槻市であった年でしたから、1954年のことでした。そのとき会った小槙孝二郎氏が、「今年のエンケ属は火球が多かった」と言っておられた事を思い出しました。
 一昨日、私の知り合いの人が朝5時に起きて宇宙からの光とエネルギーを呼吸していたら、空に巨大な花火が炸裂して辺りが昼間になったそうです。恐らくこれは大火球だったものと思われます。

● 11月1日
 晩秋らしい高い青空が輝くようになりました。
 40年前の今ごろは高知市周辺の山や海に「池谷・関彗星」を求めて正に東奔西走の毎日でした。秋冷の明け空に細長い尾を引いた美しい彗星の姿は今も眼の中に焼きついています。
 実はこの頃キューバのハバナ市に住む「ホセ・カレヨ」さんという作曲家から「Ikeya-Seki」と言う楽譜がとどけられたのですが、彼は手書きの楽譜の表紙に
 『イケヤ・セキ彗星発見のニュースを聞き即興的に作曲した。これを発見した二人の日本人に贈る。いつの日にかこの曲が演奏された時、空には再び彗星が輝くであろう。』
 と言う意味の言葉が綴られています。あの日から40年も経って、しまい込んであった当時の楽譜が発見されました。発見者もまだ聞いた事の無いこの曲を誰か演奏してくれないだろうか。そして夜空に輝くのはどの彗星だろうか。激しいリズムに乗ったおたまじゃくしのひとつ一つが、発見当時のあの感動を思い起こさしてくれます。
 ああ、イケヤ・セキ彗星の思い出はいつまでも消えません。


(クリックすると大きく表示されます)

「イケヤ・セキ彗星」の曲
ハバナ市在住のホセ・カレヨ氏作曲(1965年10月)


● 10月24日
 40年前の今ごろは、太陽のコロナの中に突入した「イケヤ・セキ彗星」が、その後どのようになっただろうか?果たして健在で居られたろうか、と言う事で正に西走東奔の毎日を送っていました。海岸に出たり高い山に登ったり、その行く先先で観測する多くの一般の人に出会いました。当時如何にこの彗星の事が話題になっていたかが分かります。
中でも池 幸一さん(自称、天文冒険家)が一番多く登って成果を挙げたのが、高知県須崎市の播蛇森(ばんだもり)(標高765m)の山でした。彼は彗星が近日点を通る7時間前と17時間後とに、この山で彗星を確認したのでした。金色に光る鋭い核と白い蒸気のような激しく変化する尾を確認、それは正に100万度の高熱で煮えたぎる彗星の面影にほかなりませんでした。野人的な顔の池氏は「オーイ」と思わず日の出に向かって絶叫したのでした。そうです、彗星は生きていたのです。彗星から確かなこだまが帰ってきました。そしてこれから秋冷の夜空での華麗な舞が始まるのです。池氏は正に千歳一遇の貴重な観測を残したのです。
 あれから40年のこの日私は思い出の須崎市まで車で走りました。
そして新名古屋トンネルを抜けた須崎市への下り坂の途中で右手に遥か播蛇の森の雄大な山容を捉えたのです。ああ遥かに霞む遠い山....。彗星の思い出もこの遠い山の如く遠くにかすんでしまいました。時は流れ星は行き、そして人は去りました。しかしこの世に生まれたからには何かの記録をのこしたい。そのような私の希望、そして理想の一部が実現したような気がしました。
 私の眼にはまだ遠い播蛇の森が光っていました....。


遠くに雄大な播蛇森を望む


● 10月21日
 高知ではまだ暑い日が続いています。太陽がやや南になりましたので、昨日は2階の書斎では28℃まで気温が上がり依然として冷房をやっていました。
 今日10月21日は40年前の今日「イケヤ・セキ彗星」が近日点を通過した日です。あの時も今日のような日本晴れで青空が光るような見事な晴天が続きました。


池谷・関彗星太陽大接近の日
1965年10月21日

彗星が太陽面に突入したのはこの日の正午過ぎでしたが、朝早くから多くのマスコミで私の家の庭や屋根の上はいっぱいになりました。恐らく浜松の池谷さんの所も同じような状態ではなかったかと思います。


当日、観測台の下に集まった人々
中央に池幸一氏。他はマスコミ関係。
1965年10月21日

 然し灼熱の太陽面にくっついた彗星をテレスコープで見ると言うのは大変危険なことで、そのため我々は観測が思うに任せず白昼の観測に失敗したわけです。然し実際にはその7時間ほど前に我々のメンバーの一人である土佐市の池 幸一氏が健在な同彗星の観測に山で成功していたのでした。この日の午前中には東京の上野や倉敷、そして一般の人で平地から太陽に接近中の「イケヤ・セキ彗星」の姿を確認した人がいました。それらは皆、肉眼で太陽のそばに見た訳で、上野のMさんはテレスコープ用のサングラスで太陽を覆いながらその影に観測した、と言っていました。このとき倉敷のHさんは写真撮影に成功し、彗星の明るさを”満月の数十倍する明るさだった”と言っておられました。勿論この位置に金星や月をもって来ても見えません。このときの池谷、関彗星はいったいマイナス何等星だったのだろう?9月の発見当初、スミソニアンが「今世紀最大の明るさ」と予言したことが当たっていた、と思いました。
 それにしてもフランスのリゴレ博士が発見の第一報の一回の観測を見ただけで、これが”クロイツ属”の彗星であって近日点を10月21日に通過することをを予言したのはお見事でした。この頃軌道計算はカニンガム氏が主にやっておりアメリカのM氏や日本のN氏の名はまだ出ていませんでした。観測はフラグスタフのローマー女史の全盛の時代でした。
 ここまで日記を書いてふと窓から北の空をみると九天に何か白いものが光っているのに気づきました。思えば40年前のあの日も青空に白い雪のような小さな物体が盛んに舞っていた事を思い出しました。そしてどこかの小学校で遅秋の運動会でもやっているのか盛んに行進曲らしい音楽が流れてきます。ホセ・カレヨさんの作曲した「コメット イケヤ・セキ」と言う音楽をふと連想して心の中で唄っていました。 「星は去り 時は過ぎ行く 人は去る、、」。


(クリックすると大きく表示されます)

「イケヤ・セキ彗星」の曲
ハバナ市在住のホセ・カレヨ氏作曲(1965年10月)


● 10月11日
 今年も秋たけなわの10月11日がやってきました。今から44年前の今日、初めて新彗星の発見に成功しました。あの日は見事な秋晴れの1日でしたが、今日は秋雨前線の停滞する小雨の日になりました。
 あの頃は10年余りやった捜索の仕事に敗れ人生に迷っていた頃でした。それまで長い間愛用した15cm反射望遠鏡と訣別し、新たに開発した口径88mmの屈折式広角コメットシーカーのテストを兼ねた最初の捜索の日でもありました。
 午前4時30分、東の低い屋根の上にしし座が大半の姿を現していました。この広角コメットシーカーは薄明の中、短時間に出来るだけ広い天空を捜索する目的に製作されていました。視野は3度半、30分もあれば東天の大半を捜索し尽くすほどでした。筒は地平線に対して水平に移動し高い高度から次第に地平線へと移動する最もオーソドックスな方法です。こうして午前5時過ぎ捜索を終了するのですが、午前4時50分、鏡筒はしし座のある一点に静止したまま夜明けを迎える事となったのです。そうですそこには異常が認められたからです。即ち5時が近くなって、うす明るくなった薄明を押し返すようなつもりで捜索していた私の視野に突然ほんのりとした白い光体が浮かんだのです。過去10年の修行と経験はそれを迷う事なく即座に新彗星と断定しました。
 その後発見していつも気づく事、それは「今日も何にも考えずに捜索に専念出来たなあ、、、、、」ということでした。実際15cmを使っていた若い時代は必死にやったものの心がいつにならず常に動揺していました。つまり発見を意識しすぎて、見えるべきものも見えていなかったのです。それにもう一つ、素晴らしい切れの88mmコメットシーカーは私の心を統一さすに十分な星像を展開してくれたのです。この苗村レンズと、エルフレ33mmアイピースの相性もとても良かったのです。私から15kmほど西の町のIさんは同じ朝、10cm、25倍の反射で同じ天空を捜索しながらこれを見逃しています。視直径2′のこの小さなコマは8等星といえどもレンズと眼が良くないと恒星にまぎれて見逃します。それに精神の統一と言う事も大事でしょう。
 この最初の発見はその後の私に大きい自信と一つの捜索の在り方を教えてくれた意義ある発見でした。
 この雨が上がればやりましょう。いつまでも現役で仕事を続ける人間にのみ、生きることの喜びと輝きがあるのです。

● 10月2日
 お天気に恵まれた今日、高知市比島と言うところの墓参に行きました。非常に鬱蒼とした山深い谷間のようなところですが、すぐ近くに江戸時代の絵師、「絵金(えきん)」の墓があり、更に幕末の剣師「岡田以蔵(おかだ いぞう)」の苔蒸した墓があることには驚きました。あの有名な”人斬り以蔵”です。古い墓では宝暦8年、と言うのがあり、私はふと川谷ケイ山が江戸時代に幕府の発行した暦に無い日食を観測したのが、この地の比島山であったことを思い出しました。宝暦年代の話です。
 土佐には早くからこうした優れた天文学者や、谷秦山(たに じんざん)のごとき暦学者が居たのに、いまでは全国的にも、こと科学に関しては、その施設も無い一番遅れた県になってしまいました。数年前、高知市が科学館を作ろうとして計画はかなり進行していましたが、いつのまにか立ち消えとなりました。こんどは水面下でいま博物館や科学館建設の運動が立ち上がっています。今度のは行政が計画するのではなく、民間の団体や企業が立つのですから、気長ながら可能性はあると思っています。そのための会合が何回か開かれています。高知県には芸西の他にもいくつか大小の天文台はあるのですが、芸西意外はあまり活動していません。芸西は県立ですが、そもそも民間から立ち上がったから強いのです。
 秋雨前線の停滞する時期で今が一年中で一番お天気の悪い時期です。今年はイケヤ・セキ彗星から40年。あの時、発見後一週間も悪天に見舞われ見えなかったことを思いだします。しかし彗星が近日点を通った10月21日頃には本格的な秋空となりました。
 スカイ&テレスコープ社から40周年を記念して取材が来て、加藤英二さんのご好意でたくさんの記事を送りました。締め切り間際での電子メールでのやり取りが熾烈でした。12月に発売される1月号をお楽しみに.....。

● 10月1日
 秋の長雨のシーズンで晴れた日は滅多にありません。然し晴れてみると、火星がすぐ近くにやって来ていてびっくりしました。異常な赤さが印象的です。スバルと共に東の地平線を上がって来る姿がいいですね。
 今月の29日は芸西天文台で「秋の天文教室」が開かれます。火星観測の特集で、私は「火星兵団」のお話をしょうと思っています。参加希望者は高知県文教協会(電話088-824-5451)まで申し込む必要があります。”火星兵団”とは1930年台、まだ火星に人が居ると思われていた頃、海野十三(うんのじゅうざ)が書いた科学空想小説で、この本の面白さはあれから半世紀以上もたった今も忘れていません。もしかすると私が星が好きになった最大の動機かもしれません。地球に衝突する「モーロー彗星」を月の摂動で回避さす下りなんか、科学者としての海野なればこその発想です。ガガーリンより早く「地球は青かった」と言ったのは海野だったそうです。1946年、NHKの連続ラジオ劇場で放送された「まだらの紐」のスリルとサスペンスは筆舌に尽くせぬものがありました。もっともこれは外国のクリスティーあたりの原作だったそうですが。


天文台ドームの上の火星とスバル
2005年10月1日 21時30分
85mm F2 5分露出 ISO400フィルム





Copyright (C) 2005 Tsutomu Seki. (関勉)