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● 7月29日 【コメットシーカーの怪(5)】 今の自宅の観測所(MPC 370)は1950年代には15cmの反射を使用していました。その頃の高知市は人口18万人で公害も少なく、今の芸西より空は良かったほどです。観測所から東南に有名な筆山(ひつざん)があり、その右手に皿が峰、小石木山などの低い峰が連なっています。 奇妙な事件は1950年代の終わりごろから起こり始めました。即ち火の気の無い深夜の皿が峰一帯の山で盛んに火事が起こり始めたのです。これはどうやら放火の疑いもあるとて毎夜消防や警察が張り込んでいましたが、怪火はまるで捜査陣の裏をかくように起こり続け、ついには同時に二箇所以上で発生したりして、どうもこの道のプロが時限装置を使って火事を起こし、遠くからそれを見て楽しんでいる様にさえ思えるのでした。そして犯人は遂につかまらず、永久に未解決の事件として、犯罪史に残るようになったのです。 今から30年ほどの昔"草加次郎"と名乗る人物がいて、怪盗ルパンまがいに捜査網を撹乱して逃げまわっていましたが、どうやらこの放火魔も、それと共通に、犯罪を楽しんでいるようにさえ思えるのでした。 『犯罪を予告する。警察の捜査網が迫ってくる。しかしそこには誰もいず、まんまと物取りを成功させた男の証拠のみが人をあざ笑うかのごとく残されている。』 "草加次郎"の名は新幹線を利用した犯罪の大捜査を最後に、永久に姿を消す事よなりました。 今回の放火事件で私はふと今は多くの人から、忘れさられたこの猟奇な事件を思い出したのです。ところが本当に誰も、放火犯を知らなかったでしょうか? 1959年の暮れも近づいた12月上旬のことです。私は例によって自宅庭の観測所から夜明け前1時間の東南の空を捜索していました。ところが、その問題の山からパッと火の手が上がったのです。距離は直線で2Km。私は反射的にコメットシーカーを火事の方向にむけました。そこにはメラメラと燃え上がる赤い炎に映し出された犯人と思しき人物の顔があったのです!私はただちに望遠鏡の倍率を200xに上げてみました。戦斗帽を冠りナッパ服を着た農夫か、労働者風の中年風の男は火事を見届けると、風の如く現場から立ちさっていきました。 (つづく) |
筆山の月 自宅の観測所(MPC 370)から |
● 7月22日 【隕石落下か?高知市揺らぐ】 ● 7月12日 【7月の山の思い出】 高知県香美群香北町(旧、在所村)の”在所隕石”落下の地に行ってきました。現場は物部川のすぐ北の低い山の麓で、有光さんと言う農家の庭に落下したのです。 落ちたのは明治31年2月1日の午前5時10分頃で、地元の「土陽新聞」によると大砲を何発も連続して発射するような轟音が天地をゆるがし、あたかも花火を打ち上げたごとく空は朱に染まって、丸い人頭ほどの火の玉がゆっくりと落ちて行くのが目撃されたそうです。これは現地から40Km北の愛媛県との国境に近い「船戸」という山中の村で目撃された光景ですが、赫赫の音は高知県のほぼ全土に響きわたり、多くの人が寝巻き姿のまま外に飛び出した、と伝えています。 先に伝えた明治28年の土佐市での隕石落下も、これに劣らぬ大音響が響いた事を考えると、隕石落下と言うものは大変おっこうな現象を伴うものである事がわかります。実際香北町ホウの木の落下現場に立った時、遠い宇宙からはるばる旅して来た隕星が、この今、私が立っている場所に落ちたかと思うと鬼気迫る思いに打たれました。 有光博美さんによって管理されている”落下の碑”は1982年頃、隕石の所有者である五藤斎三氏が建てたもので、あれから100年余、何も語らぬ現場の碑の傍で、ひっそりと美しく咲いた百合の花が印象的でした。 花も人も今は何も知らない遠い昔のできごととなりました。しかしあの時から、変わらぬ山並みに物部川の流れはすべてを知っている。私に何かを語り告げようとしているように思えてなりませんでした。 |
物部川沿いの山麓の農家に落下 隕石落下地点の碑(1981年建造) |
● 7月10日 【コメットシーカーの怪(3)】 ● 7月7日 |
七夕の夜の夏の大三角 28mmレンズで撮影 |
● 7月5日 【コメットシーカーの怪(2)】 1966年5月、池谷薫(いけやかおる)さんと私は、天文台の冨田さんの案内で、埼玉県の堂平観測所を見学しました。その頃は空が良く南天のさそり座付近の天の川がよく見えました。 91cm反射は多くの周期彗星の検出に活躍し、日本記録は無論世界的にも注目される活躍ぶりでした。冨田さんのほか下保さんも観測されていました。人工衛星の観測も熱心で、世界的な観測網の一環として、アメリカ製のベーカーナンシュミットカメラが配備されており、盛んに追跡が行なわれていました。 実は私がここで見つけた奇妙な物は、そのファインダーです。口径20cmほどの屈折望遠鏡が取り付けられ(画面の右端)、カメラの案内役を勤めているのである。これぞあの幻のツァイス製のコメットシーカーの筒だったのです!トリプレットの完璧と思われるこのレンズは一体どのような星像を見せてくれたでしょうか。コメットシーカーのマウントから離れ、今はシュミットカメラのファインダーとして、立派にその役目を果たしていたのです。 実は1961年3月、大阪でテンペル第二彗星の検出者である百済教猷氏の講演を聞く機会がありました。世界の珍しいコメットシーカーについて話されましたが、最後にツァイス製の機械について触れ、60cm屈折を購入したときついでに買わされたものだろう、と結論付けられました。しかし1949年ごろある科学雑誌に、このコメットシーカーが図解で詳しく紹介され、その頃実はこれを使う伏兵が存在したことが報じられています。 (つづく) |
ベーカーナン・シュミットカメラのファインダーとして取り付 けられたツァイス製20cmコメットシーカーの鏡筒(右端) |
● 7月2日 高知市より西北約150Kmの十和村に星神社があります。窪川町から北に四万十川に沿ってさかのぼること2時間、所どころ沈下橋の架かる清流の絶景を眺めながら、ようやく目的地に到着しました(写真1)。 実はこの星神社、大昔落ちてきた隕石を御神体として祀ってあると聞きます。大正年代に移築したと言う古い神社で、大きいわりには荒廃が進み神官さんもいません。鍵のかかった祭壇の中に隕石が眠っているのでしょうか? 神殿の前の広い庭を散策している時妙なものを発見しました。それはまるで落ちてきた巨大な隕石を形どったような石塔です(写真2)。「昭和3年御大典記念」と彫りこまれた丸い石は、もしかすると明治時代に落ちたと言われる大隕石を記念し形どったものではないか?とひとり考えたりしました。関係はないでしょうが、今の土佐市で明治28年に目撃された隕石の落下方向を延長すれば、ちょうどこの上空を通ることになります。 むかし芸西天文台の3人のメンバーで、この十和村で宿泊して天体の観測会をやった事があります。そのとき村の教育委員会「会の主催者」の話で星神社の御神体が隕石である事を知ったのです。大切にしていて一般には見せないとの事です。 神社のすぐ前は川です。巨大な隕鉄を思わすような赤茶色の石が何かのシンボルのようにドカンと置かれていました(写真3)。 実は村に入るまえに、ちょっとした事で道に迷い、梼原川にそった狭い山道に長く入りました。行きつ戻りつしているうちに「中ノ島公園」と書いた絶景に遭いました。狭い清流に奇岩が点在し、まるで桃源に遡ったような不思議な感じ。冷たい水の中で熊が水浴びしていても不自然でない光景。人類が初めて探検し発見したような新鮮で感動的なこの風景は、決して探して行って見られるものではない偶然の出遭いによってもたらされる事が多いのです。誰もいない美しい光と音(せせらぎの)のなかで、私はしばし時間を忘れてたたずんでいました。 |
(写真1) 星神社 (写真2) 星神社の記念碑 (写真3) 巨大な隕鉄を思わす石 |
Copyright (C) 2004 Tsutomu Seki. (関勉)