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ポン・ウィンネッケ流星群の思い出

 先に珍しいポン・ウィンネッケ流星群の火球を目撃した話をしましたが、この群は昔は良く出現していたようです。ポン・ウィンネッケとは彗星の名です(Comet 7P/Pons-Winnecke)。
 古い話ですが、1927年6月、日本では梅雨期にあたっていたため、京都大学の山本一清博士は、それを観測するために当時の満州国に渡りました。そして奉天の市内で口径10cmの屈折赤道儀を構えて観測していたのです。すると突然パッとあたりが光り、しばらく昼間のような明るさとなりました。「だれだ!」山本博士は何者かが写真撮影のフラッシュを焚いたものと思い込みあたりを見回しました。しかし人の姿もありません。空を見ると明るい流星痕が長々と横たわっていたのです。明らかに大火球です。あとで写真版を現像すると、そこにマイナス等級の大流星が写っていたのです。これは明らかに全盛期のポン・ウィンネッケ群の流星でした。この写真は山本博士の天文台に長く飾ってありました。1954年8月、日本での最初の彗星会議が滋賀県の山本天文台で開かれたとき、私はその写真を初めて見ました。
 1927年にこの流星群がかなり活動したために、翌年の6月にも出現すると見込んで多くの観測者が見張りました。しかし結果はゼロでした。しかし京都大学で助手を務めていた中村要氏のみが沢山の流星を報告してきました。多くの観測者が1個の流星も見なかったのになぜ?という疑問が生じました。これについて山本博士は「この年は鋭眼の中村氏にしか見えないような微光の流星群だった」と結論して当時の書物に発表しています。
 1998年6月、私は71年振りの大出現に遭遇したのですが、確かに微光の流星が多く、特徴として、るで人口衛星かと思うくらいスローなスピードでしたが、中には1等星以上の明るい火球も多く出現して、「中村氏にしか見えないような微光の流星群であった」と言う記述にはいささかの疑問を感じました。

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2015年06月30日 23:00に投稿されたエントリーのページです。

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