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倉敷天文台を訪ねる

 倉敷天文台を訪問するのは何回目でしょうか。たしか本田実氏が亡くなられてから5回は訪問していると思います。しかし、私の尋ねる日の天文台はいつも無人の休館日で、がらんとした天文台の庭を独り散策して昔日を忍びながら引き揚げます。
 今回は原澄治氏、本田実氏の記念館の増築工事が行われていました。7月下旬完成の由。


倉敷市美観地区にて

 ドームの前に双眼鏡を持って立ってみました。ここは昭和15年9月30日に、岡林滋樹さんが新彗星を発見した場所です。10月に入って間もなく広島県瀬戸村に居た本田さんも独立にこれを発見して『岡林・本田彗星』の名を得ました。発見した朝は天文台の庭にコスモスの花が咲き乱れ、午前5時の発見と共に、近くの紡績工場の起床のサイレンが鳴ったそうです。
 倉敷市には紡績会社の広大な施設がありました。有名な赤レンガの街並みで、その日は古い紡績工場を改造して建てたという美観地区のホテルに泊まりました。


紡績工場の赤レンガの塀

 高知市にも古くから紡績工場がありました。今の広大なイオンモール高知の場所です。その頃は敷島紡績と言って数千人の従業員が働いていました。全国から集まってきた若い女工さんが大半でした。たしか午前5時にサイレンが鳴りました。私の家は工場から4kmほど離れていましたが、冬の寒い日に、早暁の観測を終えて、黎明の空を眺めているときにこのサイレンが「ピヨーッ」と短い尾を引いて鳴ったのです。
 - サイレンの音さえも凍った -
 やっと氷点下の寒さから解放されて、泣きたい思いで、これから暖かい部屋に帰ろう、と言うとき、彼女らは起きて長い一日の労働に入るのだと思うと、そのつらさが想像されました。
 当時、日本の『国民病』とまで言われた肺結核が、糸を紡ぐ悪い空気の中で流行し、罹った人は故郷に死に場を求めて帰って行った、という何とも哀れな話を祖父から聞かされました。

 1961~2年ごろ、私が新彗星の発見に成功した時、もと紡績工場の職員でハンセン氏病に罹り瀬戸内海の離島、大島青松園に隔離されて若き日を送ったという女性からの手紙を受けて、励ましの手紙を送り続けたことを思い出しました。発病してからから20年、1度も故郷に帰ることもなく青春の日々を島で送ったという、彼女は海を眺め、毎日私からの手紙を待ち続けていたのでした。
 最後の手紙に対する返信は病院の年老いた看護師からでした。
 『隣終の床に在りし彼女は、慎ましく何度もあなた様のお名前をお呼びいたし候 ...』
 私の机の引き出しの中には、彼女が趣味で彫ったという印鑑があります。
 『関様がいつまでも星に包まれて天文のお仕事ができますように、と祈りをこめて製作しました...』
 という、枠に星を形造った大きな判。いつかこのぺージで紹介しましょう。

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2013年05月07日 23:00に投稿されたエントリーのページです。

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