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書家、関琴堂のこと

 かれこれ10年ほど昔の事でしょうか。小学時代の友人が上町1丁目にある総合病院に入院されたとかで見舞いに行った時の出来事です。門をくぐり、近代的な明るいロビーに入ったとき、そこの壁に古びた掛け軸がかかっているのに眼が止まりました。表装された書道の書は「健康十訓」と題して、健康に必要な食生活や体調管理に関する戒めですが、驚いたことに、今やかましく言われるこれらのことが、およそ1世紀近い昔に早くも論じられていたことです。そして更に驚いたことは、この字を書いた「雪峰(せっぽう)」の雅号です。「雪峰」とは、実は私の伯父(母の兄)の芸名だったのです。そうです、大正ロマンに時代を先走るようなことをやって世間を驚かした人です。
 関 琴堂(きんどう)は書家でした。松本芳翠(まつもと ほうすい)川谷横雲(かわたに おううん)の教えを受け、若いころから書道に邁進し、「筆林会」という塾を立ち上げて全国から会員を集めました。「筆林」という会誌を発行し、大正から昭和の初めにかけて会は全盛を極めました。遠く北海道や九州から教えをこうて訪れる人も居ました。しかし若いころからの持病(肺結核)が高じて昭和8年、36歳で病没しました。私の3歳のときですが、私は全く伯父を覚えていません。そして不思議な事に伯父の字は1枚も残されていないことでした。病院での掛け軸との対面は、正に始めての伯父の作品との出会いでした。
 近代的な病院が、そのロビーにこの古色蒼然とした掛け軸を敢えて掲げた事には、なにか私の知らない秘密があるに違いないと思います。この病院の初代の院長であった国吉氏と伯父、琴堂は何らかの関係があったのか...。伯父琴堂は大正年代に音楽や無線、蓄音機なんかに異常な興味をもち、あるものは自分で開拓して行きましたが、天文に関する資料は全く残されていません。1910年のハレー彗星接近の時には8歳で、当然彗星を見たはずですが、伯父が残した多くの品物の中には天文に関するものは何もありませんでした。


伯父 関琴堂(きんどう)雪峰(せっぽう))と掛け軸

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2010年07月25日 23:00に投稿されたエントリーのページです。

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