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岡田以蔵の墓

 私の親戚(妻の祖先)の墓地は高知市の東北に位置する薊野(あぞうの)という所にあります。昔から、この近くに幕末の志士で「人斬り以蔵」と言われた岡田以蔵(いぞう)の墓がある、と聞いていましたが、鬱蒼とした山の中の墓地のことで発見することが出来ませんでした。
 ところが「竜馬伝」に代表されるような坂本竜馬のブームで、観光客が多い関係か、最近、そうした史跡が整備されるようになって、分りやすくなりました。なんと以蔵の墓は、いつもお参りする祖先の墓のすぐ近くにあったのです!意外な発見でした。それも「土佐史談会」が道しるべを整備してくれたお陰で気が付いたのです。
 古く黒ずんだ墓石には確かに「岡田宣振(よしふる)」の墓、とあります。宣振とは、以蔵の本名です。沢山の花が飾られ、年中お参りの人が絶えないのは、如何に以蔵が多くの人に慕われていたかが伺われます。あたりは猪でも出そうな鬱蒼とした深い竹やぶの中ですが、木の間に遠く市街の見える南側の谷はいま満開の桜で一杯でした。


岡田宣振の墓

 岡田以蔵は武市半平太(たけちはんぺいた)の指揮する土佐勤皇党の中でも切っての剣の使い手でした。のち江戸に出て鏡新明智流(きょうしんめいちりゅう)の免許皆伝を取るほどの腕前で、彼の振り回した長刀は今でも土佐に残っています。文久2年に「土佐勤皇党」の活動が始まると「佐幕派」の暗殺に参加するようになり、その荒切りは、「人斬り以蔵」の名を欲しいままにしました。しかし病魔(肺結核)に犯される身となり、ついに井上佐一郎殺害の罪で役人に捕まり仲間と共に斬首、以蔵だけが曝し首になりました。享年僅か27歳。新撰組の若き剣士で病死した沖田総司(おきたそうじ)を思わすものがあります。以蔵は暫らく京にいましたが、新撰組と刃を交える事はありませんでした。
 彼を育てた土佐勤皇党の首領、武市半平太も捕まって投獄、切腹と言う末路を辿りますが、古い映画に出てくる月形半平太の名はこの人がモデルだそうです。
 いまNHKでのドラマに出てくるこれらの人々は史実に基づいた小説ですから、必ずしも真の姿を捉えているとは言えないでしょう。まして以蔵がどんな人間だったか?その人柄については分りません。戦乱の時代を生き延びて、のち豪商人となった岩崎弥太郎のことも分かりません。弥太郎の生家は芸西天文台に近い安芸市にあります。いま見物の人で大混雑とか。
 以蔵の墓にお参りし、墓地を下りる時には、あいにくの小雨となりました。
 「春雨じゃ濡れて行こう」とは誰のせりふだったのかな?



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2010年04月10日 23:00に投稿されたエントリーのページです。

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