« 古里への道(1) | メイン | クロイツ族彗星の思い出 »

古里への道(2)

 国宝「朝倉神社」の参道を出て、近くのJRの踏み切りを渡るとすぐ小川の道に出ました。幼い頃から度々通った懐かしい道です。この赤鬼山の麓を流れに沿って1キロほど北に歩くと、「中ノ谷」の父の実家にたどり着くはずです。昔は水車が廻り、夏には沢山の鬼ホタルが舞っていた静かな村だったのですが、私の行く手には巨大な高速道路の橋下駄がでんとすわり、小さな谷の村を跨ぐように道路が走っているのです。その巨大な橋げたの下で、地元の人らしい老婆に聞いて、やっと親戚の家の方角が分かりました。半世紀以上の間にいろんな近代的な建物や施設が出来て、村は全く様相を異にしていました。親戚の家も一部建て替えて昔の面影はありませんでした。しかし、戦時中私が生活した古い納屋の二階建ては、そのまま残っていました。


終戦前後の3ヶ月を過ごした家

 中学生のころの私は、無論天文は知らずに、ラジオ少年でした。上町の自宅では毎日の空襲に備えて、中庭の防空壕に鉱石ラジオを持ち込んで情報を聞いていました。そして田舎に疎開した時には外国の放送が聞ける短波受信機を自作して、密かに日本向けの放送を傍受していました。外国からの短波放送を聴くことは、国から硬く禁じられていました。なぜならでたらめの多い大本営発表とは全く違い、本当の戦局が知れたからです。国民の多くが、劣勢な戦局を知ったら、戦う士気が失われると言う事で、禁じられていたのです。常に家の周辺や街中では特高や憲兵の鋭い目が光り、もし違反したものは容赦なく投獄されました。しかし(本当の戦局を知りたい、、)の好奇心は、あえて困難で危険な短波受信機の自作へと進んで行きました。
 上町の自宅の近くに「最善社」というラジオの老舗があって、度々足を運んで、自作のための材料を買いに行きました。短波を受信するためには、その短い周波数に同調するためのコイルの巻き方に秘密がありました。何回か失敗をくり返しながら、やっと「ピー」という発信音に混じって、海外からの放送が聞こえたときには、躍り上がって喜びました。
「日本ノミナサマ、今日ハナツカシイタンゴノ調ベトトモニ正シイ現在ノ戦局ニツイテオ知ラセシマス」といったアナウンスでアメリカや、南方の敵性国からの放送が盛んに入ってきました。そして致命的ともいえるポツダム宣言受託のニュースは、疎開先の納屋の二階で密かに聞きました。「日本破れたり」のニュースは、誰よりも早く入手したのですが、この家から出征した2人の兄弟の兄(わたしの従兄弟にあたる)が南方で戦死との悲報が同時に入って、慟哭しました。
 私が立って懐かしい二階を眺めている足下の小道に赤い彼岸花が一輪咲いていました。ここには昔清らかな清水の湧き出ていた場所で、道の側に水貯めの桶と、ひしゃくを置いてありました。戦死した従兄弟と遊びながら水を汲んで飲んだ思い出が蘇り、私は思わずその一輪の花に手を合わせて拝みました。


赤鬼山のふもとを流れる小川

About

2009年09月12日 23:00に投稿されたエントリーのページです。

ひとつ前の投稿は「古里への道(1)」です。

次の投稿は「クロイツ族彗星の思い出」です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。