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古里への道(1)

 8月15日の終戦の日が過ぎても、私たち一家は戦災によって荒廃した上町の家に帰る気になれずに、暫らく父の故郷に滞在することになりました。9月に入っても連日のように晴天が続き、夜は見事な星空が頭上に展開しました。終戦後はここから学校に10キロほどの道を歩いて通いました。電車もバスも空襲でやられて、交通は全く麻痺していました。
 あれは確か終戦の前の日だったと思います。夜中にB-29の爆音が聞こえてきて庭で空を見ていた父が「しまった!ここへ落ちた」と大声で叫びました。空中で何かが光ったそうです。すると「ザーッ」という爆弾の落ちる独特の音が聞こえ始めました。私はどうしていいやら分からず、土間で中腰になっていると、外の山の方で「カーン」という大きい音が木霊(こだま)しました。(爆弾にしてはなんだか変だな)と思い、翌朝外に出てみると、家の北側の山の斜面に、一面に白い紙が落ちていました。手に取ろうとすると父が「あぶない!爆発する」と叫びました。しかしそれは爆弾の一種ではなく、ただのビラのようでした。
 「日本ノミナサマ、今日ハ私タチハ爆弾ヲ落トシニキタノデハアリマセン。お国ノ政府ガ申シ込ンダ降伏ノ条件ニツイテオ知ラセシマス...」
 という書き出しで、日本がポツダム宣言を受託して、無条件降伏することになったことを綿々と難解な日本語で書き連ねてありました。高知市の中央を狙って落としたものが、行き過ぎて、市の西北の私たちの小さな村に落ちたのです。無論私たちは敵のデマ宣伝だと思い込み信用していなかったのですが、しかしその事実は、翌日の玉音放送によって現実のものとなったのでした。こうして9月に入った最初の満月の夜は何時に無く美しく冴えて、15歳の少年だった私はただ無心に歩きました。新時代への不安と期待の入り乱れた彷徨でもありました。

 戦中から戦後にかけての一時期を過ごした故郷のことは忘れられず懐かしく、今回再び訪ねてしまったのです。戦時中父がよく自転車で通ったコースを通ってみました。JR朝倉駅に近いところに朝倉神社があり、父はよくその境内から北に入っていました。朝倉神社は昔のままにありました。父はこの神社を「木の丸様」と呼んでいましたが、昔は神殿の前に立派な台を置いて石を祭ってあったそうです。今になって(もしや隕石ではないだろうか、、、?)との期待もあったのですが、それらしいものは見つかりませんでした。まず参道の巨大な杉の木には驚かされました。樹令は恐らく千年はあるでしょう。かなり長い立派な杉の参道が続いて、やがて神殿が現れました。神殿の側壁に中国の風景らしい大きな立派な絵が書いてありました。私も幼い頃から父に連れられて、この道を何度も歩いて田舎に通ったことでした。(はたして郷里の家は見つかるだろうか?)不安を抱えながら神殿を拝み、幼い頃の記憶を頼りに歩き始めました。


巨大な杉の老木のある参道


珍しい絵の書いてある神殿

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2009年09月03日 23:00に投稿されたエントリーのページです。

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