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あのころの自分のこと

 夏が終わりに近づく頃になると、決まって終戦の年の思い出が湧いて来ます。1945年の終戦の年の夏は抜群にお天気の良い日が続き、雨に降られた記憶が不思議と無いのです。7月4日の高知市大空襲の日から父の故郷である朝倉の米田に疎開した私は、ここから学校に通わず、関東軍の指揮下で軍事作業に従事していたのです。軍事作業と言っても遊び盛りの中学生ですから、暇さえあれば友人たちと遊ぶのに夢中でした。疎開先の家から作業の現場までの数キロの道のりは美しい青田あり清冽な水の川あり、田園の上に舞う無数のトンボありで、今から思うと夢のような楽園でした。あるときには作業をさぼって友人と川で泳いだり魚を取ったりしました。時勢は緊迫した戦時下でも私たち子供の世界には楽しい”遊ぶ”という特権の世界がありました。広島に原爆投下のニュースを聞いたのも、そうした遊びの中でした。大人たちが真剣に受け止めた大事件も子供たちには、それほど深刻ではなかったようです。しかし当時の高知新聞には「ピカリ!危ない物影へ」という大きな見出しで、その新型爆弾の恐ろしさを報じていました。

 あの日から60年以上経って、ふと故郷への道を訪ねてみました。しかしその姿は変貌し、妖怪が出る、と言われた山の麓には高速道が走り、親戚の家のあったほとりには巨大な変電所やマーケットが出来たりして、昔の面影はありませんでした。父の古里も、夏には鬼蛍が無数に居た山麓の小川も、ギイギイと音を立てて回る水車も姿がありませんでした。しかし父と良く通った鏡川の土手の傍らに昔ながらの地蔵様がそのまま残っていて、長い時代の変貌を静かに見詰めているようでした。


ふるさとの家に通う路傍の地蔵様

 そして鏡川の水は昔のままの美しさを讃えているようで、僅かな慰めとなりました。
 秋の神祭のあった帰り道、父がオリオン星座の”三ツ星”を指差し教えてくれたのもこの地蔵様の側でした。赤鬼山の上に輝くオリオン星座の美しさ、というより物凄さは今でもはっきりと眼底に焼きついています。その頃小学校では2~3年生でしたでしょうか、受け持ちの岡本啓先生のお話に惹かれ、自然科学に興味を持つようになった矢先でした。
 「小国民新聞」に突如出た肉眼的な”カニンガム彗星”や”岡林・本田彗星”のニュースを、ただ漠然と見ていた一少年ですが、まさかその天文の世界に身を投じようとは、夢にも思わないその頃の自分でした。


鏡川のほとりの故郷の田園風景

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2009年08月31日 23:00に投稿されたエントリーのページです。

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