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清らかな夏の花

 8月15日は終戦の日です。
 今日も庭には青い美しい花が咲いていました。強烈な夏の太陽に照らされて、夕方には力尽きたように赤くなってしぼみますが、明くる朝には必ず咲き誇ります。力強い花です。大都会で生活するある少女が手紙の中で、
 「朝の清らかな空気の中でしか咲かない朝顔の花をいじらしく思います。紫の花びらを見ているとき、私は紀州の故郷の海の色を連想しました、、、」
と書いてきました。
 確かに紫の花はいろんなことを想像させます。私は1945年の終戦の年に、学徒動員で暮らした頃の、土佐の空の色を連想しました。確かに「青い空と蒼い海」というのが、ここ土佐のシンボルであり観光宣伝のうたい文句になっていました。
 その年の6月、高知市の東のはずれの稲生(いなぶ)で軍事作業していた私たち大勢の学生の頭上に白昼金星が見え、「スワ、敵機か?!」ということで、大騒ぎしたのも、空が青黒く澄んでいたので、太陽のすぐ東に発見出来たのでした。無論このとき金星だとは誰も気が付きませんでした。
 7月4日の高知市大空襲のあとは朝倉の米田に疎開して、そこでも学校には通わず、近くの荒倉山(あらくらやま)というところで、関東軍と共に軍事作業に従事しました。軍のトラックに乗って高知市を縦断して東のはずれの比島山で作業しました。車上から見る市街は焼け落ちてまるで荒れ果てた砂漠のようでした。その殺風景な焦土の中で、国宝高知城と城東中学校(現、大手前高等学校)のビルだけが焼け残って、夏の日に威厳をたたえているように光っていました。
 終戦の報せはこの比島山の上で聞きました。誰かが下の民家のラジオからの”玉音放送”を聴き、大声で報せてきたのです。その場所は奇しくも江戸時代の天文学者、川谷薊山(かわたにけいざん)が日食を観測した場所でした。即ち宝暦11年、江戸幕府の天文方の発表した暦に日食が抜かっていることに気付き、幕府の天文方と論争の末に、その年の9月1日、実際に自分の計算が正しかったことを証明したのでした。
 この日、作業が終わって、私たちは、ただ茫然として焦土の中を歩いて朝倉に帰りました。”神国”と言われた日本の敗戦のショックが余りにも大きかったのです。私の歩く焦土の空は灰色にくすぶっていました。実際私たちの前途には何の希望も光明もありませんでした。しかし、この暗黒の時代に、やがて天文との接点が時々刻々迫って来ているのでした。それはまさに運命的な出逢いとなるのでした。


庭に咲く青い花

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2009年08月15日 23:00に投稿されたエントリーのページです。

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