« 関・ラインズ彗星の思い出(2) | メイン | 荒城の月ファンタジー »

忘れられぬ人

 毎年年賀状が来ている岡村啓一郎氏と池幸一氏から今年は来なかったので、ご病気ではないかと心配していたら、きょう岡村さんがポッコリ自転車に乗って来て、元気な姿を見せた。岡村氏は高齢を理由に芸西天文学習館(芸西天文台)の講師を辞退したが、傍から見るとまだまだやれそうな気がする。1980年代の、天文台始まって以来の古い講師であるので、もっと留まってもらいたいと思う。しかし夜、車に乗るのが危険なと言われると、あまり無理も言えないのである。2月26日に高知県文教協会で年に一度の講師会があり、それには参加すると言うことである。天文台の学習館には、彼の工作した、ウィリアム・ハーシェルの大望遠鏡の立派な模型が、氏の仕事の象徴として展示されている。
 一方、同年の池氏は10年ほど前に令息のいる千葉県に引越してから便りが途絶え勝ちである。思えば1962年の「関・ラインズ彗星」発見の時に知り合って、その後永い付き合いが始まった。彼も熱心なコメットハンターであったが、その後の30年間に収穫がなかった。1940年の「岡林・本田彗星」の時に、彗星に興味を持ち、捜索を始めたというから、彼の捜索の歴史は優に半世紀を経ているのである。その間、「池谷・関彗星」や「ハレー彗星」の出現に出遭い、実に縦横無尽の働きをした。特に池谷・関彗星が、太陽に0.006天文単位と接近し、危なくて観測できないとき、彼は持ち前の熱心さと奇抜さで終始彗星を見つめ、太陽をこすっていた頃の貴重な彗星の観測記録を残した。恐らく眼視では、彗星が太陽に突入する最後と出現する最初を世界で始めて確認した人であろう。
 その頃、車に乗っていなかった私は、よく自転車に乗って20kmほど離れた土佐市の彼の家を訪ねた。三階建ての屋上には3mのドームが光り、中には珍しい”池・ネオハックスカメラ”が座っていた。これは池氏が発案し、京都のある光学の専門家が完成させたという珍しい一種のマクストフカメラで、補正版は15cmでF2.5の明るさを誇っていた。無論新彗星のキャッチが目標であったが、一発の成功も無く幕をおろしてしまった。彼の家は電気商の老舗であった。
 久しぶりに彼の住んでいた土佐市の町を訪れた。天文台のあった建物は別の雑居ビルに変わり、偉容を誇っていた屋上のドームは姿を消していた。しかし、何時の日にか彼と登った石土森が、北の空に変わらぬ美しい姿で輝いていた。この半世紀、何事も無かったかの様に....。


中央が池幸一氏の天文台のあった建物

About

2009年02月16日 23:00に投稿されたエントリーのページです。

ひとつ前の投稿は「関・ラインズ彗星の思い出(2)」です。

次の投稿は「荒城の月ファンタジー」です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。