« 関・ライインズ彗星の思い出(1) | メイン | 忘れられぬ人 »

関・ラインズ彗星の思い出(2)

 彗星を発見しても、当時はすべてがスローでした。今のようにインターネットが発達しているわけではなく、FAXもなし。彗星の発見は、すべて至急電報で報告されたのです。
 家は貧乏な「ナメクジ長屋」です。電話も引いてなくて、事あるたびに自転車で、電報局に走りました。従って東京天文台から発見者の私に連絡するのに苦労したことが察せられます。
 発見から1週間が経って変化が起こりました。良く分からなかったのですが、先輩の本田実さんからの葉書によると、”関・ラインズ彗星”が明るくなることが報じられたのです。それと前後して天文台に入った国際天文学連合の葉書回報(IAUC)にカニンガム氏の軌道要素が報じられ、この彗星の近日点の通過は同年の4月1日、そのときの太陽中心からの距離(日心距離)が、なんと0.03天文単位となっており、この太陽に異常に接近することが、大彗星になる可能性を秘めていたのです。
 今回の発見について日本天文研究会の神田茂氏は「アマチュアとしては珍しい太陽から遠い空での発見」と言われました。大体コメットハンターの発見は、太陽の界隈に多いのですが、今回は太陽から180度近い、しかも南天マイナス40度での発見で、東京天文台の冨田氏や、OAAの長谷川一郎氏から、そのような位置を捜索した動機について盛んに聞かれました。その動機については前回の日記で語った通りです。
 この彗星の発見についてのエピソードを、もう一つ。この頃から土佐市高岡町(高知市から西に20km)に古くから住むという、池幸一氏なる奇怪な人物が登場してきたのです。彼は古くから天文に興味があり、1940年頃(大戦が始まる少し前)に出た”岡林・本田彗星”や翌年の「カニンガム彗星」を実際に観測したというから古い。今、この記事を読んでいる人で、それを見た人は恐らく皆無でしょう。私は小学3年生のとき、「小国民新聞」でカニンガム彗星が夕空で大彗星となる、という記事を読んだ記憶があり、池さんによると、それは秋11月の夕、わし座に尾を引いて悠々と見えていた、と言います。当時この新聞に連載していた海野十三(うんのじゅうざ)氏の科学空想小説「火星兵団」にも、この彗星のことが取り上げられて、私が彗星に興味を持つ動機となったのです。思えば、小学校の庭で大空を眺め、宇宙に興味を抱いていた少年が、成人したのち彗星を発見して憧れのカニンガム氏に軌道を計算してもらったとは....。人生とは誠に奇のものであり、また挿話の多いものであると思います。その奇なものの一つに「火星兵団」を書いた海野十三氏の生家を訪ねたことがあります。
 彼は主に東京で推理小説を書いたのですが、そのSF小説の走りとなった火星兵団は、生まれ故郷の徳島市の実家で、その構想を練った小説らしいのです。10年余り前のこと、私はこの海野氏の家を訪ね、その書斎の机に座ったことがあります。6畳の日本間で、周囲の襖に描かれた古い何かしら寂しい絵が、小説のなかで、地球からのロケットが火星に到着したとき、初めて眼にした四方の索漠とした風景に似ているように思いました。そうです、当時の小説には名士の挿絵があって、更に興味をそそったのです。
 月面に第一歩を記したはずの宇宙探検の一行が、灼熱の月面の大地に初めて見たのは、缶詰の空き缶であった、という発想は推理作家ならではの着想であり、次のストーリへの更なるサスペンスを誘います。
 1965年の”池谷・関彗星”は、太陽に0.006天文単位と接近しました。「関・ラインズ彗星」は言わばその前哨戦ともなったのでした。

About

2009年02月10日 18:47に投稿されたエントリーのページです。

ひとつ前の投稿は「関・ライインズ彗星の思い出(1)」です。

次の投稿は「忘れられぬ人」です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。